椿井春日神社

奈良県生駒郡平群町椿井1278 mapfan

鳥居


交通案内
近鉄生駒線 竜田川駅 北東に20分



祭神
天之兒屋根命
摂社
下蔵神社「天照大神、住吉大神、神功皇后」
愛宕社「火の神たち五神」



由緒 甲大明神と呼ばれていた。どうやら境内の宮山塚古墳から出土した兜を御神体としていたようだが、江戸後期に盗難にあっている。 当社にある湯釜には「竹原山甲大明神御神前」の銘があり、神霊は留まっているという。

 『平群町史』によれば、古文書に紀氏神社、旧社地の隣の田の坪名が見え、これは復元条里制地図より見て、椿井邑に当たり、 紀氏神社は元は椿井邑にあったのではないかと指摘し、その神社が当春日神社であろうと推定している。
 この推測の背景には境内に接する宮山古墳との関連がある。この古墳は直径17mの円墳で、南に開口する片袖型横穴式石室を持つ。 玄室の壁はいずれも割石を小口積みとしており、天井石は一石。 築造年代は5世紀中期〜末期、奈良県では最も古い時期の石室の一つ。 と説明されている。
 この古墳は北九州にも見られるようで、和歌山のいわゆる紀氏の古墳とされる岩瀬千塚古墳などに見られる石積と似ているように思われ、 やはり紀氏との関連が濃厚とみえるようだ。それが紀氏神社の名に残っていると云うことだろう。

 紀氏神社が遷座していった理由は不明であるが、平安時代に入ってから紀氏の政治的影響力が藤原氏の策謀によって失墜するのであるが、 ここの神社に象徴的に現れているようだ。ようするに平群の聖地中の聖地と見なされていたのであろう。

拝殿

「平群氏春日神社沿革記」



 社頭に椿井氏の子孫で平群氏八十二代正嫡の椿井一見氏(故人)奉納の「平群氏春日神社沿革記」がある。この抄を紹介しておく。

 平群氏は天大吉備諸進尊を祖とする、孝霊五十四年甲子十一月十三日薨じ、上辺槍掛山岡上陵平群坐神社と申す也。
 二代天岩床尊は平群郡勢益原丘上陵天岩床神社と申す也。
 景行朝堤原王は武内宿祢の養子となり、勅命により平群の姓を賜り二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀) は聖徳太子に従い守屋氏を討ち以て氏寺平群寺を勢益原丘に創建す、推古の朝
 三十四代式部卿従二位中納言直隅(日本書紀)大海皇子(天武天皇)に仕え吉野上市・大淀町増口(摩志口) に住壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す。自後始めて椿井を以て称号となす。(千三百年前)
軍功により鈴鹿の関を拝領 自後椿井となる。
此時社寺創建せしも戦国時代に織田信長の兵火により灰燼となる。現在伊勢一之宮椿大社是也。
三十六代右中将懐房は藤原房前の養子となり仍て藤原の平群と称す。

 大和管領職越前懐泰は神護景雲二年正月九日河内平岡より三笠山に春日大明神を臨幸の供奉し以て初代興福寺 官務衆徒となる。
天徳年間(年)伊予律師懐休初めて椿井寺並春日社を創建、当春日社の初め也。
椿井寺の一部仏像は当村乾氏宅にあり、五十七代椿井中納言氏房は実は征夷大将軍藤原頼経の 三男なり、母の遺命により血脈を継ぐ為養子となり、弘安五年六月二日菊桐の御紋を賜し、 伊賀大和河内安房、四ヶ国の太守として勅贈正二位大納言となり当村に椿井城を築城せり。
越前政里奈良探題となり館を奈良吉野町に移し以後椿井町と改む。永世年間懐慶政信公山城 一円を賜り園辺に居城を構え以後山城椿井と称し星霜二千二百有余年を経て今日に至る。
斯くの如く古代より代々築かれたる平群一円の文化財を保護し後世に残し度き念願により以て 一文となす次第也。

 昭和四十八年十月吉日
  平群八十二代
       椿井一見氏

古墳入り口



お姿
 宮山古墳に隣接、裏宮山古墳との間に鎮座している。 南側には椿井のいわれとなった椿の井戸がある。 物部・蘇我戦争で平群神手将軍が戦勝を祈願して椿の木を植えた井戸という。 祈願は当神社もしくは古墳の主にであろうか。
 神社の前後左右に竹藪があり、西側の道路から直接には見えない。俗人の目から守られているようだ。 鳥居の左手に宮山古墳の入り口が見える。  神社境内は実にしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。社殿などに変わった雰囲気はない。


お祭り
 
  10月25日 例祭

参考資料 『平群町史』

大和の神々
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