土佐から還ってきた神について

1.『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇) 
再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、その弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。

 .『続日本紀』引用の第十二所引「暦録」には、「葛城山東下高宮岡上」に奉載した。」とある。

 ●戻って来た神は、「高鴨の神」であるが、その正体は何であるのか?


2.『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記逸文』風土記編纂の官命は713年に発せられた。
土左の郡。土佐の高賀茂の大社がある、その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。
 式内大社都佐坐神社(土佐神社)の現在の祭神はアジスキタカヒコネである。
● 「高鴨の神」とは、一言主尊なのか味鋤高彦根尊なのか、はたまた。


3.日本霊異記(787) 
 文武天皇の御代(697〜707)、葛城の役小角(高賀茂朝臣と云う者)が鬼神たちに吉野の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せと命じた所、葛城の一言主大神が人に憑いて、役小角が天皇を滅ぼそうと陰謀を企てていると讒言した。そのため役小角は伊豆の島に流されるが、大宝元年(701)に許されて仙人となって飛び去ったと云う。その後一言主大神は役小角のために呪縛され、今の世に至るもその呪縛は解けていないという
● 一言主はは文武天皇の在位中に活躍しており、土佐に流されていた訳ではない。先に引用した『釈日本紀』「暦録」は後世の引用資料であり、ほぼ同時代の『日本霊異記』の記載を採用した。


4.『記・紀』(712〜720)
 雄略天皇が葛城山に猟に出かけた際、一言主尊が出現し、当初は緊張関係にあったが、結局、天皇と神は仲良く猟をしたこという。


 ●葛城の神(一言主)の神域である葛城山に天皇が踏み込んできたと云うことである。葛城山の神々は早々に追い出したい。ある神はイノシシをして突進させたが果たせなかった。一言主は追い出しに失敗し、妥協した。そこに「老夫」の姿をした神が現れて、狩猟の邪魔をしたと思われる。それが高鴨の神であった。葛城山は鴨山とも云い、高鴨神の神奈備であった。一言主の祖神に当たる神と考えられる。またその名からは鴨神の祖神とも云うべき存在と言える。


5.新抄格勅符抄(806)年
高鴨神 五十三戸 土佐廿戸、大和二戸、伊与三十戸。
鴨神  八十四戸 大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸。
 高鴨の神の戸数の内、大和は二戸(四石)であり、これは追放されていたので、大和での地盤を築けなかった神と見ることができる。残りが土佐・伊予である。
 一方、鴨神は大和以外に伯耆・出雲であり、明らかに味鋤高彦根尊である。事代主神も鴨神と言えるが、この神は出雲に拠点はない。


● 高鴨の神とは鴨の神々の祖神と考えることができる。即ち大穴持の神である。葛上郡には式内社の大穴持神社が鎮座しており、帰還後は暫く高鴨阿治須岐託彦根命神社の高鴨神として祀られていたが、後に大穴持神社に遷されたのだろう。
● 大穴持神の裔である一言主は事代主の一面の姿と言える。


6.『三代実録』(859)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神が従二位勲八等から正一位に昇っている。
 高鴨神が従一位になっている。
 この時期には阿治須岐宅比古尼神は高鴨阿治須岐宅比古尼神と呼ばれていたと云うこと。一方、高鴨神は一言主神(事代主神)の祖神であるから大穴持神社の神と云うことになる。


7.延喜式神名帳(905) 葛上郡
 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 現在は、阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命の三柱である。これに母神の多紀理毘賣命を加えれば四座となるが、アジスキ以外は不詳。 


外の葛上郡の式内社
葛木坐一言主神社(名神大。月次相甞新甞。) は、後に名神大社となるが、新抄格勅符抄には記載がない。
大穴持神社 御所市朝町宮山に鎮座。この宮山には鉱床があり、現在の高鴨神社の地下につながっている。二社一体の神社と言える。


         以上