金村神社
(かなむら)

葛城市新庄町大屋213 mapfan

神社遠景

交通案内
近鉄御所線新庄駅下車 西へ2100m

祭神
大伴金村

摂社 日暮神社「月読尊」、稲荷社、厳島社

由緒
 大字大屋小字金村に鎮座する式内社である。 明治四年には四反歩の境内旧地を持つ大社であった。
 社伝によれば、安閑天皇二年(535年)大伴金村公の霊を勧請したとする。
 当地と大伴金村との関連は不明。志賀剛氏は『式内社の研究』でキンムラすなわち木叢との説をだしている。 キンムラ、キムラとの地名や山名はなさそうであり、『式内社調査報告』では退けている。
 布施氏が当地を領有した際、この神社の近辺までを屋敷地としたようだ。裏鬼門の守護としたのかも知れない。

 大伴氏は古い豪族で各地に拠点があったが、『古事記の継体記』に「この御世(ミヨ)に、筑紫君(ツクシノキミ)石井(イハヰ)、天皇の命(ミコト) に従はずて、礼(ヰヤ)無(ナ)きこと多かりき。かれ、物部(モノノベノ)荒甲之大連(アラカヒノオホムラジ)・大伴金村連(オホトモノカナムラノムラジ)二人を遣(ツカ)はして、石井(イハヰ)を殺したまひき。 」と出てくる。
 また後に任那の一部を百済に割譲した件で、それも賄賂がらみとの疑いで失脚するのであり、大伴連としては、 自慢にし難い祖神である。敢えてあまり関係のない土地に大伴金村を祭神とする神社が出来たのであろうか。

 志賀剛氏の説には興味が湧く。当地の字は大屋である。 大屋と言えば、大屋毘古神を想起する。別の名を植樹神の五十猛命とする。木叢に通じないか。 大屋毘古神は紀の国の国魂と称えられる神で、紀の国の豪族(紀氏か)が当地に移り住んで、大屋毘古神にちなんで地名を大屋とし、 木叢神としてを祀った事は考えられることである。金は木よりも強い。金叢、金村となり、祭神を大伴金村としてしまったのではなかろうか。
 ただ、大屋村は櫛羅郷に含まれていたり、郡山藩領であったりして、忍海郡に属していなかったようで、その大屋村の名が文書に登場してくるのは寛永十六年(1639年)が『新庄町史の史料』では初出のようであり、 大屋の地名を元にした大屋毘古神説は砂上の楼閣の希望である。

本殿は春日造


お姿
 大屋の地は段丘面・扇状地帯である。
 犬の養育場が隣接しており、騒々しい。隣接どころか、その一角に神社が鎮座しているように見える。



お祭り

春祭(例祭)  3月 7日


参考

『式内社調査報告』
『寺院神社大事典 大和紀伊』

大和の神々
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