高天彦神社(たかまひこ)

奈良県御所市北窪字燈明 ゼンリン


参道

交通案内
近鉄御所線御所駅より五条方面行きバス船路 西40分高天原方面

祭神
高皇産靈神、市杵嶋姫命、菅原道眞
本来は葛城の地主神「高天彦」一座を祀った。金剛山の神霊である。

由緒
 神社の説明では、本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社とある。 鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」の説が披露されている。
 日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、実は御祭神の 鎮まるこの高天の台地であるとの説明である。

 本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえ、社殿ができる以前は、この神体山の聖林に祭神を祀っていた。 古杉のそびえる参道は北窪・西窪の集落に通じているが、そこがかつての葛城族の住地である。彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのである。

 葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めた。そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。

 日本書記に、腋上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしおせりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、なおアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。 とある腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名を残している。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来する。 葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びるとされるが、竹内宿祢によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲された。 これら葛城一族の祖神を奉斎することから、延喜の制では最高の名神大社となった古社である。


本殿



お姿
  境内に猿の腰掛けがあるケヤキの古木があったが、台風により倒れたようである。 鳥居も、垣も徐々に新しく鳴ってきているが、しかしそれなりに古社らしい雰囲気がある、背後は急な神奈備山が迫っている。


蜘蛛塚 参道の手前左手の小山にある。

土蜘蛛を埋めたと伝わる。


お祭り
秋大祭 座講祭10月1日 秋祭10月5日



『平成祭礼データ』 高天彦神社
由緒
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭 神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれに なったニニギノミコトが高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたっ て、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神 がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、実は御祭神の 鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえていますが、社殿ができる以前は 、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉のそびえる参道は北窪・ 西窪の集落に通じていますが、そこがかつての葛城族の住地であります。彼らは背後 にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称 が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。そ して葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝 位につかれたというのも、この柏原の地であります。
日本書記に、腋上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしお せりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、な おアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。とある 腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名 を残しています。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来しま す。
葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、竹内宿祢によって復興 し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。 これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元(八五九)年に神位従 二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りに は官幣にあずかってきた古社であります。

参考文献 日本の神々4大和 白水社

大和の神々
神奈備にようこそ