万葉集 神奈備の歌



第三巻 雜歌 神岳[かみをか]に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
 324 三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繁生有 都賀乃樹乃 弥継嗣尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止将通 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 旦雲二 多頭羽乱 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者
みもろの 神なび山に 五百枝いほえさし しじに生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き京師みやこりは 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴たづは乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば
神の隠る神名備山の 多くの枝をひろげて繁っているツガの木のように ますます次々と 美しいつる草の伸びてやまぬように 絶ゆることなく通いた 古き都飛鳥は 山は高く 川は雄大に 春の日は山を見たい 秋の夜のさやかな川の音 朝の雲に鶴は舞い 夕霧にかわずは鳴く 美しい風景を見るにつけて すべてに心打たれる 都の栄えた過ぎし時を想えば

反歌
 325 明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國
明日香河川淀かはよどさらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
鳥川のよどみにいつもこめている川霧のように 想いは過ぎてゆく恋とは違う わたしの恋は。
飛鳥川上流に
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社が鎮座する。


第六巻 雜歌 三年辛未かのとひつじ、大納言大伴の卿の、寧樂の家に在りて故郷ふるさとを思しぬひてよみたまへる歌二首
 969 須臾 去而見<壮鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
しばらくの間でも行って見たい 神が隠っている深い淵 いまは浅くなり瀬となっているのだろうか。 天平3年(731年)に奈良市佐保にあって飛鳥の雷丘付近の飛鳥川を思い出している。この川の淵瀬の変化は有名。
飛鳥川の更に上流に
加夜奈留美命神社が鎮座する。


 970 指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六
指進さしずみの栗栖くるすの小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ
指進の栗栖の小野に萩の花が散る頃には故郷に行って神祭りをするのだ。


第七巻 故郷(ふるさと)を思(しぬ)ふ
1125 清き瀬に千鳥妻呼び山の際(ま)に霞立つらむ甘南備(かむなび)の里
清らかな瀬に千鳥が妻を求めて鳴き山の間に霞が立っているだろう甘南備の里よ


第八巻 春の雜歌 鏡女王[かがみのおほきみ]の歌一首
1419 神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益
神奈備かんなびの石瀬いはせの杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾が恋まさる
神の降臨するの石瀬の神社の杜で、呼子鳥よ、そんなに鳴かないで わたしは 心が締めつけられる。
龍田大社の近くの岩瀬


第八巻 春の雜歌 厚見王[あつみのおほきみ]の歌一首
1435 河津鳴 甘南備河尓 陰所見<而 今香開良武 山振乃花
かはづ鳴く神奈備川に影見えて今や咲くらむ山吹の花
河鹿の鳴く神の隠れる川に影を写して 今は山吹の花は咲いているだろうか。
雷丘の飛鳥川か。

明日香村字神奈備に
飛鳥坐神社が鎮座する。

第八巻 夏の雜歌 志貴皇子の御歌一首
1466 神名火乃 磐瀬之社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鳴
神奈備の石瀬の杜の霍公鳥毛無ならしの岡にいつか来鳴かむ
神の隠れる石瀬の神社の杜で鳴くほととぎす 毛無の岳には いつ来て鳴くのだろうか 待ち遠おしい。
龍田大社


第九巻 雜歌 鳴鹿[しか]を詠める歌一首、また短歌
1761 三諸之 神邊山尓 立向 三垣乃山尓 秋芽子之 妻巻六跡 朝月夜 明巻鴦視 足日木乃 山響令動 喚立鳴毛
三諸みもろの 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜あさづくよ 明けまく惜しみ あしひきの 山彦響とよめ 呼び立て鳴くも
雷丘の向かいの甘橿の岡に 秋萩のような妻と 共寝に誘うとして 朝月が出る夜の明けるのを惜しんで やまびこを響かせ 呼び立てては鳴く鹿よ
甘樫坐神社

第九巻
弓削皇子に献れる歌一首

1773 神奈備の神依せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
三輪の神の神依板にする杉のようには、物思いが過ぎ失せない。恋のつらさの激しさに


反歌
1762 明日之夕 不相有八方 足日木乃 山彦令動 呼立哭毛
明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼び立て鳴くも
右ノ件ノ歌、或ヒト云ク、柿本朝臣人麻呂ガ作。
明日の宵も逢えない事がどうしてあろうか それなのに山彦を響かせて呼び立てて鹿は鳴いている。



第九巻 相聞 弓削皇子に献れる歌一首
1773 神南備 神依板尓 為杉乃 念母不過 戀之茂尓
神奈備の神依せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
神がより憑く琴にする 神の隠れている(三輪山)の杉のように 物想いが過ぎ失せない 恋の激しさに
大神神社


第十巻 夏の雑歌 鳥を詠める
1937 大夫之 出立向 故郷之 神名備山尓 明来者 柘之左枝尓 暮去者 小松之若末尓 里人之 聞戀麻田 山彦乃 答響萬田 霍公鳥 都麻戀為良思 左夜中尓鳴
大夫ますらをの 出で立ち向ふ 故郷ふるさとの 神奈備山に 明けくれば 柘つみのさ枝に 夕されば 小松が末うれに里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響あひとよむまで 霍公鳥ほととぎす 妻恋つまこひすらし さ夜中に鳴く
大夫がいで立っては向かう 故郷の神奈備山に 朝が来ると山桑の枝に 夕方には小松のこずえに 里人が聞いて恋しくなるほど 山彦が響きあうほど ホトトギスは 妻を恋するらしい 夜中にも鳴くよ。
神奈備山は雷丘


反歌
1938 客尓為而 妻戀為良思 霍公鳥 神名備山尓 左夜深而鳴
旅にして妻恋すらし霍公鳥神奈備山にさ夜更けて鳴く
右ノ二首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。
旅に出て ホトトギスも 妻を恋いしく想うのだろう 神奈備山の夜が更けても 鳴いている。


第十巻 秋の雑歌 蝦[かはづ]を詠める
2162 神名火之 山下動 去水丹 川津鳴成 秋登将云鳥屋
神奈備の山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
神奈備山の麓に 響き流れる川には 蛙が鳴いている はや秋だと言うのか。



第十一巻
2657 神奈備に神籬(ひもろき)立てて斎(いは)へども人の心はまもりあへぬもの

神奈備山に神域の木を立てて、大切にするようにしていても人間の心というものは、守ることができないものよ



第十一巻
2715 神奈備の 折り廻(た)む隈の岩淵に隠(こも)りてのみや吾(あ)が恋ひ居らむ

神山の廻り鼻にある川の岩淵のように、隠りつづけて私は恋をしているのだろうか


第十一巻
2774 神奈備の浅篠原のしみみにも吾(あ)が思(も)ふ君が声のしるけく

神奈備のほとりの浅篠原が美しいように、美しいと思うあなたの声がはっきりと



第十三巻
3223 天霧(あまぎ)らひ 渡る日隠し 九月(ながつき)の 時雨の降れば    雁がねも 乏(とも)しく来鳴く 神奈備の 清き御田屋(みたや)の    垣つ田の 池の堤の 百(もも)足らず 斎槻(いつき)が枝に    瑞枝(みづえ)さす 秋のもみち葉 まき持たる 小鈴(をすず)もゆらに    手弱女(たわやめ)に 吾(あれ)はあれども 引き攀ぢて 枝もとををに    打ち手折り 吾(あ)は持ちてゆく 君が挿頭(かざし)に

稲妻が空に光り、九月の時雨が降ると、雁はまだ来て鳴かない。神奈備のふもとの清らかを御田屋の、垣の内の田の池の堀に生える、百に足りぬ斎槻の枝に瑞々しい枝をさしのべる秋の赤葉よ。その枝を手に巻き持った小鎗もゆらゆらと、私はたわやかな少女だけれども、引き寄せ峯のたわみさながら、たくさん手折って私は持って行く。
反(かへ)し歌

3224 独りのみ見れば恋しみ神奈備の山のもみち葉手折りけり君
一人だけで見るとあなたのことが恋しくて、神奈備の山の黄葉を手折ったことだ、あなとよ
  

第十三巻
3227 葦原の 瑞穂の国に 手向(たむけ)すと 天降(あも)りましけむ 五百万(いほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神代より 言ひ継ぎ来たる  神奈備の 三諸の山は 春されば 春霞立ち 秋ゆけば 紅にほふ 神奈備の 三諸の神の 帯にせる 明日香の川の 水脈(みを)速み 生(む)し溜めがたき  岩が根に 苔生すまでに 新夜(あらたよ)の 幸(さき)く通はむ 事計り 夢(いめ)に見せこそ 剣大刀 斎(いは)ひ祭れる 神にしませば

葦原の瑞穂の国に、手向けするとて天から降って来られた五百万、一千万の神々の神代から語りついで釆た、神南備の三諸の山は、春になると春霞が立ち、秋が来ると木々の紅が美しい。その神南備の三諸の神がわが帯とする明日香川の水の流れが早いので、生えてはそのままためることのできない岩の蘿だが、一方二人の枕には蘿が生えるまで永遠に、来る夜も来る夜もめでた〈夫が通って来るような計画を、夢で見せてください。剣太刀の如〈大切に祭っている神様でいらっしゃるのだから

反し歌

3228 神奈備の三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに
 神奈備の三諸の山に大切にする杉、忘れすぎることが「どうしてあろうか。枕に蘿のはえるまでに

第十三巻
3230 幣帛(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みづたで) 穂積(ほづみ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば 古へ思ほゆ
 神々への捧げものを並べる奈良を出て水蓼の穂に出る穂積に至り、鳥をとる網を坂にはる坂手を過ぎ、川が石走に流れる神奈備の山に、朝の宮としてお仕え申して、吉野へとお入りになるのを見ると昔のことが思われる。

第十三巻
3266 春されば 花咲き撓(をを)り 秋づけば 丹の秀(ほ)に黄葉(もみ)つ  味酒(うまさけ)を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の  速き瀬に 生ふる玉藻の 打ち靡き 情(こころ)は寄りて  朝露の 消(け)なば消ぬべく 恋ふらくも しるくも逢へる  隠(こも)り妻かも
 春になると花が枝をたわめて咲き、秋になると鮮やかに彩られて黄葉する、味酒をかむ神奈備山が帯とする明日香川の速い瀬に映える玉藻のように磨いて心が寄り、朝霧の消えるなら消え失せもしようかと思わせるはどに恋してきたことの、甲斐あって逢えた隠り妻よ


第十三巻
反し歌
3268 三諸(みもろ)の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ    天霧(あまぎ)らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思(しぬ)ひつつ 帰りにし人 家に至りきや
 三諸の神奈備やまの方から、空が一面に曇って、雨が降ってきた。雨まじりに風まで吹き出した。大口の真神の原を通ってものを思いつつ帰った人は、もう家に着いただろうか。



第十巻
3303 里人(さどひと)の 吾(あれ)に告ぐらく 汝(な)が恋ふる 愛(うつく)し夫(つま)は もみち葉の 散り乱れたる 神奈備の その山辺から ぬば玉の 黒馬(くろま)に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫(つま)は逢へりと 人そ告げつる
 里人が私に告げることには、お前の恋するいとしい人は、黄葉の紛れ散っている神奈備山の、この川のあたりから真っ黒な黒馬に乗って、川の瀬を限りなくわたっていって、心もしおれて私に逢ったと人の告げたことだ。 


万葉の風景


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