於美阿志神社(おみあし)
奈良県高市郡明日香村檜前594 mapfan

鳥居


交通案内
近鉄吉野線飛鳥駅 南東へ1km

祭神
阿智使主神夫妻二柱


由緒

 東漢(やまとのあや)氏の氏寺の檜隈寺の跡地に鎮座している。檜隈寺址十三重石塔が立っている。
 祭神の阿智使主(あちのおみ)については、日本書記に「応神天皇二十年(5世紀前半か)倭漢直の祖阿智使主、其の子都加使主、並に己が党類十七県を率て来帰り」とあり、 続日本紀の光仁天皇宝亀三(772)年の記事で「檜前忌寸を以て、大和国高市郡司に任ずるの元由は、先祖阿智使主、軽嶋豊明宮に馭宇しめす天皇の御世、十七県の人夫を率て化に帰せり。詔して高市郡檜前村を賜ひて居しむ。 凡そ高市郡内は、檜前忌寸及び十七県の人夫地に満ちて居す。他姓のものは十にして一二なり。」との記事と符合している。
渡来人が檜隈の地に住み移って来たのは、雄略天皇二(475)年、身狭村主青、檜隈民使博徳がはじめである。 雄略八(481)年、青と博徳は呉に渡り、漢織・呉織・衣縫を連れ帰ったと出ている。
 檜隈は明日香村の南側の狭い領域であり、かって渡来した阿智使主一族が高市郡に住んでいた所へ、身狭村主青、檜隈民使博徳が更に織機技術を持った者達を率いて、 身狭村主青は少し北側の牟佐座神社の当たりを中心に居住し、檜隈民使博徳は檜隈を中心に居住したものであろう。

 さて於美阿志神社の祭神についてであるが、神社名が阿智使主(あちのおみ)を逆さまにしたものに似ているが、それで阿智使主(あちのおみ)としたわけではあるまい。今来郡といわれたほど渡来人を多く住まわせていた地域であり、その祖神にふさわしいからであろう。 神社名は素直に、あちのおみ神社でいいのであって、なぜ「おみあし」となるのか理解できない。しかしそれぞれの御神体の木造座像があり、阿智使主神夫妻二柱で固まってしまっている。
 異伝では於美阿志神社は磐橋神社とも称し、高市郡久米郷にあって、高市連・安知造らの祖天目一箇神を祀るとされる。
 紀氏の支配した紀の川河口に岩橋と言う所があり、紀氏栗栖神社が鎮座していた。祭神は紀氏の祖神の天道根命と宇摩志摩治命とされている。この可能性もある。 または日前国懸神宮の日前神国縣神、またはその頃には日前国懸神宮の場所に鎮座していた五十猛命と親神の素盞嗚尊と言う事も考えられる。渡来系が斎祀るには後者がふさわしいか。「おみあし」と言う名を説明しにくいのは難点であるが・・・

 往古はこの檜隈の地は樫の木々の生えた原野であった。空いていたから渡来人が住み着いたのであるが、その渡来人はどのルートでやってきたかであるが、 檜隈から古瀬(巨勢)へ抜け、五条から紀ノ川沿いに通じている。これが主な道であった。他の道の一つ竜田道は西は物部氏、東は平群氏、大坂道は竹内街道だが、葛木当麻氏の押さえるところであった。 紀の川は紀氏の支配する所であったが、紀の国造の斎祀る神は日前国縣(ひのくまくにかかす)神宮であり、おそらくは紀の川の河口に展開していた紀氏が巨勢路を越えてやって来て、ヒノクマの神を祀ったのが、この地名の起こりであろう。
 阿智使主と其の子都加使主(つかのおみ)の都加使主とは馬韓北部から安羅に移ったと推定されているが、安羅の首長をツカと言うその都加の渡来したものであろう。 これが檜前氏のルーツであるとすれば、紀氏もまた似たような渡来の歴史を持っているのであろう。

お姿
  境内は整理されており、こざっぱりしている。境内に宣化天皇の檜隈廬入野宮跡の碑がたっている。

本殿と十三石塔

本殿

お祭り
5月15日 連座祭
10月 9日 秋祭

阿智使主との関連の深い神社
 信濃伊那 阿智神社「天八意思兼命、天表春命」長野県下伊那郡阿智村智里 
備前邑久 安仁神社 岡山県岡山市西大寺一宮 安仁神を阿知使主や吉備海部の祖神とする説がある。
備中都宇 阿智神社「宗像三女神」岡山県倉敷市本町
三河渥美 阿志神社「木花咲耶姫命」愛知県田原町大字芦村字柿木 三河渥美には推古朝の頃、新羅の王弟が渡来して植樹を行った伝承がある。五十猛命を想起せしめる。
和泉大鳥 坂上神社「阿知使主」阪上氏が祖神を祀ったとの説がある。阪上氏は漢霊帝の出とする。多治速比売神社境内坂上社 大阪府堺市宮山台

大和の神々
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