玉置神社
奈良県吉野郡十津川村玉置川1 mapion

最初に目にはいる風景

みやねとおる様御提供


神代杉 樹齢3000年




交通案内
五条ー新宮線 168号線。五条からは宮井大橋を左折、新宮からは折立を右折、玉置山に12kmの看板。 
 海抜1,076米の玉置山の高台にようやく一の鳥居がある。徒歩15分の参詣の山道を歩く。樹齢3000年と云われる神代杉のそそりたつ神々しい森の中に豪壮な玉置神社の社殿が出現する。息をのむ。



祭神
國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊
配 天照大神、神日本磐余彦尊
御神体は水がにじみ出る大岩

玉置神社は創建以来悠久3千年、歴史の流れをそのままに神代杉の偉観と環境の静寂は、あわただしい人生の旅路に疲れた現代人の心身を浄化、明日への飛躍へのあらたなる霊感を体得できる浄域である。



由緒
 磐楯信仰は縄文時代からの原始的な信仰であろうが、海中の二見興玉神社「猿田彦大神、宇迦御魂大神」三重県度会郡二見町、海岸壁の花窟神社「伊弉冉尊」三重県熊野市有馬町、平地の小山の神倉神社「高倉下命」和歌山県新宮市神倉、そして山中深い玉置神社と熊野付近にネットワーク的に存在する。

 神日本磐余彦尊が熊野に上陸し、神邑に到り、天磐楯に登るとあり、高倉下から横刀を受けて、危難を逃れたとの説話が古事記にあるが、この磐楯信仰のネットワークの一つがこの玉置神社である。このネットワーク上を 磐余彦尊は山中に分け入り、高倉下は海縁に伊勢方面に向かい、共に大和を目指したものと思われる。山中を磐余彦尊は八咫烏の先導を受けて進み、玉置神社の聖地となるこの地で兵を休め戦勝を祈願したのであろう。
 崇神天皇はこれを記念し、玉城火防鎮護と悪神退散のために、日本の最高神を集め、ここに祭祀したとされる。

 伊弉册尊は花窟から勧請し早玉神とした。玉置の名の起源と社伝には説明されている。

 修験道の聖地の一つとして、そこに古来からの磐楯信仰が結びついた伝承であろう。

 石上神宮ではなく、この神社に物部の秘宝の十種神寶があったとする伝承があるそうである。
 玉置神社には巻外古文書が残っている。以下は概ねこの概要である。

1、天安2年(858)天台宗智証大師が、始め那智の滝に篭り後当山にて修法加持し本地仏を祀った。これより以後玉置神社は神仏混淆となった。

1、平安時代、役の小角によって大峯山がひらかれ修験道の本拠となった。修験道は前人未踏の山岳をあらゆる艱苦欠乏に耐えて心身の修業をする事を要諦とするため大峯、釈迦、笠捨等と共に山伏姿の修験僧の往来が増えてきた。 結果、熊野三社権現の奥の院として日ましに繁栄を極めていった。

1、この間皇室の尊崇は極めて厚く、花山院、白河院、後白河院、後鳥羽院、後嵯峨院が参拝を行っている。

1、元禄 4年(1691年)修験道京都安井門跡派に所属。

1、亨保12年(1727年)修験道京都聖護院門跡派に所属。玉置三所権現の聖地として全国にわたり尊崇をあつめた。別当院高室院を中心に七坊15ヶ寺がこの境内に点在社僧数100人を護し修験道の一大勢力となった。

1、慶応4年(1868年)明治新政府の神仏分離令にさきがけ十津川郷民の代表は参事官に対し神社復古の請願を出した。やがて神祇事務局の許しをえて玉置三所大神となり更に現在の玉置神社と改称された。

1、明治6年十津川全村を氏子とする郷社となる。

お姿

本殿と周辺の自然杉 合成


 神代杉の樹叢は奈良県重要文化財に指定されている。境内3万平方米に叢生する杉の巨樹群には神代杉、常立杉、磐余杉、浦杉、大杉など廻尺8米から10米、樹高30米から50米に達しているものがある。千石杉の如く1本の材積千石に及ぶもの、夫婦杉の如く中に数平方米の洞穴をもつもの、おいもち杉の如く地上5米のところにとりもちの木の大木が寄生せるものなど、学術的に大きな研究資料であり貴重な存在である。 正に杉の木発生のふるさとともいふべく、しかも地下1米を掘れば堅い岩盤のやせ地で、天を覆うばかりのこの成育ぶりにはだれもが驚きの目を見張るものである。尚境内至るところ数10米の岸壁がありその全面に数百年を経た岩ひばが押合って育っている。

 熊野の深い森林は並外れたものである。ここは世界の「気」の中心であり、心を癒す霊気に満ちている事を実感する。祖霊が再生する場所である。これが日本の「神」である。

 本殿は檜皮ぶき、けやき材の堂々たる入母屋造りであり、内陣に3社を奉祀している。

元禄16年(1703年)の改築その後現在まで数回補修を行っている。旧記によれば社殿の創建は遠く崇神天皇の御宇、その後元禄年間まで10数回の造営又は改修はすべて国費を以て行われた。
 鳥居は神明造、高さ6.4米、桁行6米、大日堂の跡に立つ。大日堂は役の小角の草創と伝えられ小角と空海作の金、台、2仏を安置していた。


 護摩堂は伝教大師作と伝えられる。不動明王を祀っていた。

 社務所は権現時代の高室院を改装したもので、玄関や上段の間等をもつ書院風の建築、各居間は杉の1枚板の極彩式の板ぶすまを以て仕切られています。

宝物
梵鐘 佐々木高綱の寄進と伝え応保3年葵巳3月3日(1163年)の銘がある。周囲には梵字が刻まれている。奈良県重要文化財に指定され宝物館に保管している。

 後白河法皇供養塔という石造宝キョウ院塔 和泉式部供養仏と称する石地蔵二基がある。共に室町時代の建造と推定される。
 鰐口 径30糎、寛永6巳巳8月吉日(1629年)の銘がある。
 鳥居の御額 久爾宮朝彦親王御染筆
 御額 有栖川宮熾仁親王御染筆
 御幕 聖護院の宮より拝領
 社務所内彩式戸ぶすま 杉1枚板現在70枚、その絵画は狩野法橋及その弟子と云われる橘安春の筆にて、龍虎山水等真に迫るものがある。
 天上興 聖護院の宮が廻峯の時の乗り物、このような険しい山坂をどうして通行したかが不思議だとされる。



お祭り
例祭
10月24日 本社例祭
 神輿渡御、弓神楽等あり、5穀豊穰、海難防止、豊漁祈願の参拝者で賑う。
弓神楽
 玉置山の弓神楽は本木と云う木で作った白い弓矢を以て巫女の衣装をつけた男子の神子が舞楽を奏する。他に類をみない珍しいもの。本社創建以来悪魔退散あれ狂ふ海波を鎮め四海安穏を祈って例祭又は随時奉納されてきた。
その歌詞は
  熊野なる玉置の宮の弓かぐらつる音すれば悪魔しりぞく
とあり白河院、後陽成院を始め皇室の御祈願には弓神楽が奉納された記録がある。



摂社 三柱神社 御祭神 倉稲魂神、天御柱神、国御柱神 三柱神社は古元三狐神と称へられ五穀成就、海上安全、大漁悪魔退散のための信仰を集めております。この神社は俗に稲荷社と呼ばれ、この周辺の稲荷信仰の中心。3月初午の日の初午祭は極めて盛大、郷中は勿論熊野方面からの参詣者で賑います。この地方の厄払いの信仰を集めている。 又狂病失気つまりノイローゼをいやし病魔や盗難をさけるあらたかな霊験をたたえられてゐます。不便な土地柄だけに昔はさつまいもや、きびを賽銭代りに初穂として供えたといはれます。
摂社 玉置教会 大國主命 出雲の大社教の社殿
若宮神社
神武神社
玉石社 社殿がなく、原始信仰形態を残している神社。頂上へ後数十米の所に瑞垣で囲った社があり、白い玉石を敷いた中に径一米程の黒っぽい丸石がある。御神体である。十津川村の村おこしのために周辺を掘ったそうである。大きすぎて全容はつかめなかったとの事である。それでも祭祀用具が出土している。

玉石社 杉の根本に丸い石の一部




白石社  玉石社の背後に鎮座、三つ石社とも云われ、自然の丸い石が置かれている。玉置神社の名の由来である。

白石社



白山社 社殿はない。御神体は見上げるばかりに高い岩壁、熊野の岩楯信仰の起源であろうか。

白山社岩壁 下部に鳥居




参考文献 『寺院神社大事典』、『平成祭礼データ』、『日本の神々4』

公式玉置神社

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