関帝廟
神戸市中央区中山手通七丁目 ゼンリン

交通案内
小倉公園の東5分

祭神
 関羽

関帝廟

由緒
 神戸関帝廟の栞から

 関帝庸のこと  陳舜臣
 関帝廟に祀られている三国志の英雄関羽は蜀の皇帝劉備に仕えた人物で、この世においては「皇帝」でもなんでもなかった。それなのに中国の人たちは、彼を記念する廟を立て、彼を「関帝」とあがめた。
 関羽が武運拙く津水のほとりで敗死したのは、建安二十四年(二一九)の十二月であった。関羽と戦った呉の総帥呂蒙は、その直後に公安という所で病死している。呉の副将孫咬も関羽の死から一カ月たたぬうちに死んだ。関羽の首級が呉の同盟軍の曹操のところに送られたのは翌年の正月であり、曹操が六十五歳で洛陽で病死したのは、おなじ日であった。『三国志演義』では、呂蒙も曹操も関羽の怨霊にとりつかれて死んだことになっている。
 こんなことから、関帝廟は鎮魂のための「杜」であるとする説が有力だが、では怨霊を鎮めるのは、なぜ関羽かという問題が残る。史上、おびただしい人が恨みをのんで死んでいる。たとえば屈原などはその代表的な人物であろう。
 しかし、この世に怨念をもった悲劇的な武将として、最もよく知られたのはなんといっても関羽である。さらに関羽には、「誠実」という、まことに人間的な面があった。ついには敵となった曹操にも、恩義をうけたことがあり、立ち去るときに、義理堅く恩返しをしている。この信義に厚いことが、関帝さまが商売人に崇拝される一因だという人がいるのだ。契約すれば、どんなことがあってもそれを守る。関羽の義理堅さは、じつは商人だけに必須のものではない。学問であれ、役人であれ、技術者であれ、信義は厳に守るべきなのだ。ただ関羽の故郷の解県は、塩の産地で、全国から塩商が集まる。そんなことで商人と縁が深かったのであろう。
 一般には関公と呼ばれたが、宋代に武安王に加封され、そのころから彼を祀るところは、関王廟と呼ばれるようになった。明の万暦は二十二年(一五九四)、協護国忠義大帝に追封された。関帝廟という名はそれ以後である。



1888(明治21)年、「慈眼山長楽寺」として誕生
 関帝廟は、俗に「南京寺」とも呼ばれますが、その正式寺名は「慈眼山長楽寺」。
 1888年(明治21年)4月、大阪府布施市にあった長楽寺が廃寺になるのを、現在の神戸市中央区中山手通7丁目53-1に移し、関帝、十一面観音、天后聖母をまつりました。これが関帝廟の始まりとされています。
 それまでも、神戸に住む華僑の人々の間では関帝が信仰の対象としてまつられてはいましたが、ここに中国の伝統寺院としてひとつに統合され、以後華僑たちの心の拠り所となったのです。
 長楽寺は、中国福建省の高僧である隠元禅師が、時の徳川幕府より許しを得て宇治に建立した黄栗宗の大本山・萬福寺につながる寺で、初代住職には長崎聖福寺より松井宗峰師が迎えられました。
 現在はどの宗派にも属さず、関帝廟として独立した寺院となっています。


廟内の像

お姿
 日本人の感覚からは少しけばけばしい彩りに見える。 震災で唐獅子も被災したが、強力接着剤で修復したそうである。

 参考文献 『神戸関帝廟の栞』

暢気なタオさん

神奈備にようこそ