徳川吉宗が大阪で病の床に臥した際、道修町から献じた薬でたちまし回復したと言う。繁栄のきっかけとなった。
少彦名神は『伊予風土記』や『伊豆風土記』には温泉を開いた神として記載されている。またこの神は「常世」の国に去っていったとある。
「常世」は垂仁紀によると「神仙の秘区」であり、道教の神仙世界のことである。また『伊予風土記』温泉の条の「湯の岡碑文」には「なんぞ寿国に異ならん」という文言がある。
これは道教思想にもとづいた内容である。少彦名神は道教思想と深いかかわりを持つ神であった。
日本に伝わった最古の薬の書は『神農本草経』で、これは6世紀に導士の陶弘景の復元したものである。それ故に、異神の合祀はまかり間違えば災難をもたらすと言う。
例えば天照大神と大国主のように嫌う組み合わせであるが、少彦名神と神農氏のように共通点が多く、二神は一体として認められたということである。
以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
神農氏
『史記』によると、伏犠(ふくぎ)に次いで皇帝になったのは、炎帝神農氏である。彼は全国を歩いて多くの草をなめ、毒草と薬草を区別して薬を発明したとされる。
伝説では、彼の母は頭が龍になっている神の気に感じて神農氏を生んだ。身体は人間であるが、頭は牛だったという。
また、闇夜の不便さを痛感し、油性の草木を探し燭火を作ったので、炎帝と言う。別に五穀爺ともいう。
以上参考−『道教の神々』から−