大阪天満宮7

 大阪市北区天神橋2丁目 its-mo

祭神

菅原道真 配 野見宿禰命、手力雄命、猿田彦命、蛭子命
摂社 大将軍社「八衢比古命、八衢比賣神、久那斗神、意富迦牟豆美神」
摂社 十二社「吉備聖霊、早良親王、藤夫人、伊予親王、火雷神、火産霊神、埴山比売神、天吉葛神、川菜神、藤原廣満霊、橘逸勢霊、文太夫霊」


大将軍社



 長柄豊崎宮の時代、王城鎮護の為に奉祀された大将軍社の森に天暦三(949)年、菅原道真を祀った。以後、寸尺も位置を変えずに現在に至っている。

 大塩平八郎の乱に際し、乱徒に大砲を宝蔵に放たれ、本殿はじめ諸建物はことごとく烏有となり、御神影をも焼失したと言う。
 元々は相当な森で、天神の森と呼ばれた。この森は既に失われたが、南森町という地名に残っている。

本殿


たたずまい


 
権現造の本殿は弘化二(1845)年の建築である。天保八(1837)年の大塩平八郎の乱での焼失による再建である。他に、正平二(1342)年の南北朝の争い、また元亀元(1570)年の石山合戦で焼失している。



お祭り

天神祭 7月25日 日本三大祭り、大川の水上祭や花火大会は真夏の大阪の名物。
例祭 10月25日 流鏑馬神事がある。




摂津名所図会

平成祭礼データ

 由緒

 大阪天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公(八四五〜九〇三)を主祭神として奉祀しております。 天暦三年(九四九)、村上天皇の勅願に依って大将軍社の森(後に天神の森と称せられ、現在南森町と云う)に御鎮座になり、以後千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至りました。

 此の間正平二年(一三四二)、楠木正行と山名時代氏の合戦、元亀元年(一五七〇)の石山合戦、天保八年(一八三七)の大塩の乱等に焼失しましたが、現在の本殿は弘化二年(一八四五)の建築でその様式は権現造であります。

 寝殿造の梅花殿、百畳敷の参集殿、鉄筋コンクリート三階建の天満宮会館其の他建造物が櫛比しています。

天神祭
 七月二十五日に行われる日本三大祭の一、天神祭の当日は参拝者が終日境内に溢れ、同日夜大川に繰りひろげられる水上祭は、大阪市民祭の名に反かず百余艘の供奉船が水上を埋め、空には花火、河面には篝や提灯の海で華麗を極め百余万の拝観者を魅了します。

 境内史蹟・金石抄 慶安水盤 元和燈籠 曲玉砥石山陽 貫名筆燈籠 宗因 芭蕉句碑 大将軍の森跡 星合池 お迎人形(大阪府指定文化財) 向栄庵碑     
  以上
 

「なで牛」と「道教」との関係

 牛は天神の遣いだと云われ、天神さんには多くの牛の像が置かれている。これをなでると御利益があると云うことで、すり減っている場合がある。
 これはチャイナの「春牛迎春」「迎春土牛」「打牛」などという行事があった。毎年立春の前に春牛房という役所の建物が設置され、アンペラ織りの「春牛」と牛をひく紙の張り子で作った春の紙の「芒神:ぼうしん」が飾られる。 庶民はこの春牛をなでて病気の回復を祈願、芒神には豊作を祈願したという。春牛は立春を告げる合図と共に役人に柳の枝でたたかれて芒神とともに壊されると云う。
 この風習の起源は古く、後漢の王充の『論衡』には迎春の行事として、土で牛と人を造って立てる習慣があったという。

 伊勢神宮別宮の伊雑宮のお田植え祭には忌柱を水田に立てるが、土牛信仰の変化したものとされる。

 天神信仰は雷神信仰と怨霊信仰の合体である。雷神信仰は農耕神として春牛が入っていた。そこへ天神さんがやってきて、牛は天神の使いとなったのである。
        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
 
 また、ここは大将軍社と道教の関係の浪速版の神社でもある。藤森神社参照。
 

『三輪山の考古学』から「大阪の丹塗矢」

 神が異常な生まれ方をする説話は世界的に分布しています。大神神社や賀茂別雷神社の話はそのようなものです。必ず女性が川の水が流れている所で用を足していると、上流から赤く塗った矢が流れてくるというのです。
 大阪天満宮のいい伝えをあげておきます。大阪の天神祭というのは関西の人がよく見に行くお祭りですが、最近は船渡御なども賑々しくやっています。あのお宮の天神祭のいちばん大事なところは何かというと、社殿の中に一年問おられた男性 (菅原道真神) が、一年に一度だけ扉を開かれ、赤い矢に載せて頂き、それを載せた船は大川を渡ります。

 いまは大川という名前しか残っていませんが、あれは淀川の本流です。いま淀川本流は十三を通っていますが、毛間の閘門が明治後半に出来るまでは大阪市内を流れていました。天神祭では船を大川へこぎ出してその矢をお流しするのです。そうすると、その赤い矢は水のまにまに流れていきますから、その後ろを神官その他の人が船で追いかけていき、その矢がどこの岸に着いたかを調べる。着いた所がその年のお旅所です。

 そこが仮のお旅所なのですが、年によるとお宮から十メートル流れて岸に着けば、そこがになる。逆に海に行ってしまったら大変です。あまりに遠くへ行き過ぎると困るので、そのうちにぉ旅所の位置を決めるようになりました。菅原道真の神様も楽しみを奪われたことになります。きょぅはあの辺に芙女がおるから着こうかと思っても、決められた所に着いて、そこから船渡御があるわけです。天神祭の船渡御の本番とはそういうものです。

 はやそのときに神様がお屋敷の中におられて、一年に]回、外に出られるから、できるだけ賑やかに 聯し立てる。そうやって神様をお慰めするというのが神社の祭りのほんとうの由来のようです。民俗学や中世史の方がよくいっておられますが、お祭の賑わいを一般に「風流(ふりゆう)」といいます。平安の末から鎌倉の時代に流行りだすのですが、ともかく賑やかにする。神様と人間が一体化し、同じものだと思いだすわけです。いまは神様は人間とはちょつと違うという方向に進んでおりますが・・・。

 天満宮の場合は、男性の神様が男性の神様の意の向くほうへ行くということで、その意の向くほぅへ行くというのは赤塗りの矢ということです。
 




公式大阪天満宮
暢気なタオさん

神奈備にようこそ