浪華・元禄文芸の風景
上田秋成の風景と物語

 寛政五年(1793)数え六十才、『夏野の露』によれば、「今は旅に飢ゑて死なんとしも思(おぼ)しさだめて、先(まず)都を心ざし給へり。」と京都へ移住、知恩院門前町袋町に仮寓。
 寛政六年(1794:六十一才) 南禅寺山内常林庵裏の小庵に移る。
 寛政七年(1795:六十二才) 東洞院四条に移る。さらに衣棚丸太町に移る。
 寛政八年(1796:六十三才) 知恩院前袋町に移る。
 寛政九年(1797:六十四才) 妻、瑚(これん)逝去。元の名はたま。尼になるとき、これこれと呼びやすいので命名したそうだ。 
 寛政十年(1798:六十五才) 羽倉信美邸内に移る。寺町広小路下る東桜町(梨木神社)
 文化四年(1807:七十四才) 草稿五束、井戸に投ずる。 
 文化六年(1809:七十六才) 『春雨物語』推敲を続ける。再度羽倉信美邸内に移る。没する。
 西福寺に葬られる。




 知恩院黒門前の瓜生石
知恩院黒門前 mapion

 伝承   秋成が住んだ知恩院門前町は三条大橋の東側付近である。知恩院まで長い参道が続いており、瓜生石は知恩院黒門前の一角に鎮座。
 知恩院は城のかたちをしており、石段も馬が登りやすすくなっており、抜け穴が設けられており、その出口が瓜生石の下にあったと云う。
 この石は地球の真ん中の”地軸”からはえており、年齢+1の豆粒を供えたら願いがかなえられると云う。
 この巨石の下から瓜のつるが芽を出し、花が咲いた。その瓜の実に牛頭天王と書かれていたので、粟田神社へ奉納したと伝わる。

瓜生石 上に白っぽい砂が乗っているようだ。




梨木神社の二の鳥居

梨木神社の拝殿

梨木神社の本殿

羽倉信美邸は現在の梨木神社境
京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680 mapion
祭神 三條實萬、三條實美

由緒 当神社は、贈右大臣正一位三條実萬公と内大臣正一位大勳位公爵三絛実美公の二柱をお祀りしている神社である。
 実萬公は、才識兼備菅原道眞公のお生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われ、早くから王政復古の大義を唱えられ、明治維新の原動力となられた方である。明治二年、天皇から忠成公の謚を賜り、明治十八年十月、今の地に梨木神社を創建され、別格官弊社に列せられたもので、あまたある明治維新の元勳、元老、志士の中で唯一人公をお祀りしたのである。
 実美公は、父実萬公の遺志を継がれ、あらゆる困難に堪え、危難に遭遇されながら、明治維新の大業を達成されたのである。明治二年、都が東京に移されるについて京都御所が廃止されようとしたとき、実美公は「それでは市民が可愛いそうです。それによって京都はさびれます」と明治天皇に進言され、それによって、京都御所廃止案は中止となったばかりか却って「国家の大礼は京都御所に於て行う」と定められ、そのため、大正、昭和の即位は京都御所で行われ、その都度京都は発展したといわれ、いわば公は、京都の恩人でもある。大正四年、大正天皇の即位式にあたり、第二座御祭神として梨木神社に合祀されたこのように父子揃って同じ道を歩み、志を同じくし、御祭神として同一の別官弊社に合祀されるということは実に稀有の例と申さねばならない。
祭日 4月18日  10月10日
染井の水は京都三名水の残存する唯一。

梨木神社一の鳥居横の上田秋成の石碑

上田秋成の石碑

ふみよめば 繪を巻きみれは かにかくに 昔の人のしのはるるかな

草稿五束、井戸に投ずる。
京都市左京区南禅寺門前 旅館八千代の庭の井戸 mapion

 さて、井戸を見たいと申し入れたのであるが、ある室を通り抜けないと行けないようで、その室に別の客がいるので具合が悪いとのこと。できれば事前に料理の予約をしていただいたら、話がスムースです。とのお話だった。

 秋成は自分の著作に対して厳しい考え方を持っていた。「無益の草紙世にのこさじと、何やかやとりあつめて、八十部ばかり庭の古井戸にしづめて、今はこころゆきぬ、
 ながきゆめみはてぬほどに我たまのふる井におちて心さむしも
とよみしを・・
 捨てられた原稿は親友の大沢春朔がこっそりひろいあげたものと考えられている。

旅館八千代と右隅は井戸の写真 合成


西福寺の門

本堂の裏の秋成の墓

上田無腸翁之墓 指が不自由な手を蟹(腸がない)になぞらえた。

西福寺
京都市南禅寺草川町 mapion

英語の解説板

Ueda Akinari wrote picture storybooks and readingbooks on everyday life,during the later part of the Edo period. While renowned also as a peet and scholar in Japanese studies,he is perhaps best known for Ugetsu monogatari(Tales of Moonlight and Rain). He was commonly called Tosaku,but also wrote under the pseudonyms Mucho,Wayaku Taro,Senshi Kijin Uzurai.

Several years after he was born in Osaka,he become the adopted son of Ueda family,who ran an oil and paper merchant business named Shimaya.The Confucian scholar and physician Tsuga Teisho,of Osaka,was his mentarizm in the study of Chinese classics. He took up Japanese studis under the guidanxe of Takebe Ayatari,and Kato Umaki,a pupil of Kamono Mabuchi.

In 1766,then 33 years old,he publishud the ukio storybook,Shodo kiukimimi sekenzaru. At 38,after falling victim to disaster,he studied medicine and began a medical practice in Osaka.At a scholar of Japanese,he had a falling out with Motoori Norinaga on phonetics and kana use in olden times and in revival of earlier thinking.

When in his sixties,Ueda Akinari moved with his wife to Kyoto,where they lived for a while in Nanjzenji area and elsewhere in 1809,he passed away in the house of a friend,Hakura Nobuyoshi,in Teramachi Hiroko-ji.
Kyoto City

上田秋成 遊郭で誕生す

上田秋成 紙油商に養子に貰われる。

上田秋成 疱瘡を患い、直す。

上田秋成 文人として名をはせる。

上田秋成 雨月物語の風景。

上田秋成 春雨物語の風景。

上田秋成の風景と物語