浪華・元禄の風景 上田秋成の風景と物語
秋成 疱瘡にかかり、生死の境を彷徨う。
数え五才、秋成 天然痘を病み、加島稲荷に祈願、快癒するも手の指が畸型となる。不具者の意識を持ち、また神や神秘的なものを志向するようになっていった。
稲荷神は「今は死を免じ、寿六十八を与える。」と託宣したと記録にある。養父養母は毎月秋成を連れて加島稲荷を礼拝し、幼い秋成の心に神秘的な信心が芽生えたようだ。
宝暦十年(1760:二十七才) 植山たま(二十一才)と結婚する。後の瑚(これん)尼である。
宝暦十一年(1761:二十八才) 養父上田茂助が没し、紙油商を引き継ぐ。商いは性に合わなかったようで、学問、俳句、文芸に打ち込むようになる。
明和三年(1767:三十四才) 『世間妾形気』を刊行する。
明和八年(1771:三十八才) 火災にあい家産を失い、安永二年(四十才)加島村(稲荷神社鎮座)に移り、医術を学ぶ。四十七才まで加島村に住む。
明和八年(1771)数え三十八才、『秋成の自伝』によれば、「家は火に亡び、宝は人に奪われ、三十八といふ歳より泊然としてありか定めず。」との状態となった。
安永二年(1773:四十才) 加島村に住居を定め、医術の修行を始める。加島稲荷の碑は前述。
安永四年(1775:四十二才) 大阪は尼ヶ崎一丁目(三越百貨店の近く)で医業を開く。繁昌する。
安永五年(1776:四十三才) 『雨月物語』を出版する。
安永十年(1781:四十八才) 大阪淡路町切町(淡路町一丁目)に移る。
天明六年(1786:五十三才) 本居宣長と論争
天明八年(1788:五十五才) 医業廃業、淡路庄村(阪急淡路駅近辺)通称「鶉の屋」に移転し、国学で活躍する。左眼失明。
香具波志神社(旧加島稲荷)
大阪市淀川区加島 mapion
祭神 倉稻魂神、保食神、天照皇大神、稚産靈神、埴山姫神、住吉大神、八幡大神
由緒 社名は孝徳天皇此の地に行幸して、「伊耶古梯母怒毘流都美邇和賀田久美知能迦具波斯」の御製があり、この迦具波斯の句に依ったものと伝わる。朝日宮とも称された。天徳三年(959)創建と云われる古社である。
『摂津志』に「稲荷神社二座 一座在加島村」とある一座は当社である。もと賀具波志大社と称したが、織田信長の時に稲荷神社と改称し、明治維新後は現社名に復した。江戸時代、祭礼の神輿に参勤交代の西国大名の行列が道を譲ったとその威勢が語られる。明治末期に近隣の八幡神社、住吉神社、天神社二座ご合祀した。
境内には上田秋成の寓居跡と加島鋳銭所跡と碑が建っている。秋成は幼い頃疱瘡を患って九死一生を得て以来、信仰を続け、堂島の店が火災で焼失した後にもここに転居している。
祭礼 10月23日 秋例大祭 |
秋成寓居の石碑
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香具波志神社の鳥居
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香具波志神社の本殿
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摂津名所図会 三井呉服店(後の三越 尼ヶ崎町の近く)
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摂津名所図会 高麗橋虎屋(淡路町一丁目の近く)
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上田秋成 遊郭で誕生す
上田秋成 紙油商に養子に貰われる。
上田秋成 疱瘡を患い、直す。
上田秋成 文人として名をはせる。
上田秋成 雨月物語の風景。
上田秋成 春雨物語の風景。
上田秋成の風景と物語
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