『古事記に書かれた阿波』
粟の信仰と海人族の足音 谷川健一氏
オオゲツヒメは粟の女神であり、同時に月の女神でもあった。沖縄の海人にとって潮の干満を左右する月の存在は、片時も忘れることのできないものである。その南方の人びとが黒潮に乗って土佐沖をかすめ、紀州にむかうとき、里黒潮の支流は紀伊水道に入りこみ、鳴門海峡の近くまで北上し、そこで反転して徳島の海岸を洗う。おそらくこのようにして南方の人たちの文化が徳島(阿波)の東海岸と淡路の西海岸のあいだに滞留した。そしてそこに日本でもっとも古い神話が生まれた。それがオオゲツヒメの神話であった。
徳島県は、大化の改新(六四五年)で阿波の呼称に統一されたが、もともと粟と長の二国に分かれていた。粟の国は吉野川の流域を中心に、長の国は那賀川以南の地方を指す。南方からやってきた海人族は、このあたりで焼畑に粟をまきながらくらしていたのだった。その生活の習俗は、稲作の渡来ののちもこの地方に伝えられたのである。
粟の農耕儀礼にともなうオオゲツヒメの神話は、古事記の一ぺ−ジの中にまぎれこんで残っている。オオゲツヒメはスサノオノミコトに咬み殺された。そうしてその屍体から粟や麦や稲や小豆や東を生み出した。地母神であるにせよ、穀母神であるにせよ、殺されて人びとに寄与し貢献するというのは女性の宿命の大きさを私に感じさせる。
ふしぎなことに、オオゲツヒメの屍体から生まれた穀物の名と一致する地名が徳島県の周辺にある。蚕は児島半島であり、小豆は小豆島である。粟は阿波である。麦は徳島県の南部にある牟岐である。
これは自然のいたずらとはおもえない。とすれば、南方から渡来した古代の海人族は、粟(阿波)の国を中心として、オオゲツヒメの身体を描いてみたのだろうか。すなわち頭は児島半島に、下腹部は徳島県の南部にひろがっている。オオゲツヒメの肉体の輪郭の中に阿波の国はつつまれる。粟は五穀の総称でもあった。
だがやがて、月と粟の女神であるオオゲツヒメにとってかわって、日と稲の女神であるアマテラスが登場する。日つぎの皇子であり、稲の首長でもある天皇を聖化する朝廷の物語の中では、日と稲の神話が強調され、月と粟の神話はかげがうすれる。それは、昼間の月のようにかすかな爪跡を残しているだけだ。
淡路は阿波への道である。淡路から阿波へ渡るには、粟の水門(みなと)と古く呼ばれた鳴門海峡を横切らねばならない。私がこの海峡をとおったとき、汽船はかなしげに汽笛を鳴らし、卓上の瓶の液体は波立った。そして冬の荒れた海の果てに、桃色の夕焼けが凝っていた。私は今も二千年まえも変わらぬ自然の中に、粟の女神であるオオゲツヒメのほのかに大きな肉体を感じた。
阿波への旅は私自身に宿るはかり知れないほど古い記憶を遡行することであった。たとえばイザナギが黄泉の国のイザナミを訪問し、イザナミの屍体をのぞき見したというかどで、イザナミから追われて、黄泉の国を逃げ出したあと、ミソギをする話がある。このくだりは日本書紀の中の『一書』十一では次のようになっている。
「すなわち往きて粟の門および速吸名門をみそなわす。しかるにこの二つの門、潮すでにはなはだはやし。故、橘の小門に還向りたまいて、払いすすぎたまう。」
この中の粟の門は鳴門海峡を指しているといわれる。速吸名門はふつう豊予海峡のことだとされているが、明石海峡を指すばあいもある。そして古事記と日本書紀の『一書』六に「筑紫の日向の小門の橘の檍原」となっているところから、橘の小門を筑前の糟屋郡に比定したり、あるいは日向の国になぞらえたりすることが少なくない。
しかし、前にあげた書紀の『一書』十一には、筑前とも日向とも書いていないのだから、かならずしも九州とは考えなくてもよさそうである。
それにイザナギ、イザナミの国生みの神話が淡路を中心とした島生みの神話にほかならなかったことを考えると、九州は遠すぎる。古事記や日本書紀の作者ができるだけ神話の舞台をひろく見せるために、九州や出雲をさかんに登場させることがあっても、イザナギ、イザナミの神話は淡路をそう遠くはなれてはならぬ。むしろ、鳴門海峡や明石海峡が出てくるのだから、阿波の国を考えるのが一番自然である。
徳島県の南部に蒲生田岬や舞子島をはじめとする島々にかこまれた橘湾が見付かるのである。橘湾を一望に見渡す津峰神社にのぼってみれば直ちに分かるように、それは徳島県随一の天然の良港である。『阿波風土記』によると、小松島が「中のみなと」、この橘湾は「
のみなと」とよばれていた。古代から上貢の港として知られ、和歌山県の湯浅あたりと海上の交通路がひらかれていた。橘湾の突端にある椿泊に多い湯浅の姓は、紀州からの移住者を物語る。
この橘湾は、潮のながれがゆるやかで、しかも深いので、湾内にながれこむ福井川の川口には今でも二畳敷ほどにも大きい魚のエイが卵を生みにくる。また以前には海亀や鮫がどんどんはいってきたものだ、と漁師にきいた。それはとおく海神の宮につながる場所でもあったのだ。
そして現に津峰神社のふもとには青木という地名が見付かる。この青木が津峰のふもとの樹海の様相から生まれた名であるか、それとも檍(阿波岐)から由来するものであるかたしかめるすべはないが、いずれにしても、今より湾が深く入りこんでいた古代には、そこはイザナギがミソギをするのにふさわしい場所のように私にはおもわれてならない。つまり、「橘の小門の檍原」という記紀の文章になぞらえるのにかっこうな土地柄なのだ。
橘湾の南がわの岬は椿泊である。阿波水軍の根拠地として知られるこの漁港は、一風変わった町の体裁をもっている。岬にそったわずかばかりの平地に二ならびの家並があり、そのまんなかを、ほそい道路がとおっている。道路の左右の家々にはもちろん門も庭もない。小型自動車はその道路をやっと通れるが、むこうからくる車をわきに避けることはできない。どちらかが無限に後退をつづけるほかない。
椿泊の突端である燵崎(ひうちざき)に弁財天がまつられ、そこから、潮が引けばとおれそうな海中に舞子島がある。その島は周囲が断崖になっていて、とりつくしまがない。
しかもその舞子島に、大正十一年に横穴式古墳が発見された。それらの古墳は息切れをしないではのぼることができない島の頂上の断崖に面したところにあった。古墳はつごう十三基あった。とても人が住めそうにはないこの島の頂上にどうして古墳を作ったのか。
古墳の天井を蔽う蓋石は三、四尺 (一メートル強) のものであって、他所からわざわざはこんだものにまちがいない。蒲生田岬や椿泊には石棺をこしらえる材料には事欠かないのに、それを捨てて、何のためにこの不便な島を墳墓の地にえらんだのか。それにはとくべつの理由がなければならない。つまり古代の海人族が、その首長を葬るために、この島を海上他界としたと考えるほかにない。
舞子島からは弥生式土器も発見されているので、その信仰習俗は古墳時代に限定するよりは、はるかにさかのぼる起源をもつものである。
しかも椿泊の老人から聞いたところによると、この舞子島は明治十年頃まで、死人を捨てる島として使用されていたという。他所の港で伝染病に躍って死んだ者の死体は、椿泊の町に入れずに、この地先の島に捨てた。それは伝染病が蔓延しないための賢明な措置であった。それに、椿泊の手のひらほどの墓地にはこれ以上墓石をふやす余裕はない。しかしそれだけの理由であったろうか。
老人は次のようなうたをおぼえていると、私に語った。
竹のたんは
どこへいった
舞子の浜へ
金掘りに
「たん」 は 「おたつさん」 ともいい、この地方で母親を呼ぶときの語である。つまり、竹とよばれる子供の母さんは舞子の島の浜に屍骸を埋めにいった、ということを指している。舞子島こそは海上他界である。その島の砂嘴に死体をさらす風習はとおく古代の海島古墳にまでさかのぼれることを物語っているのである。海中にそそり立つ奇怪な死人の島のすがたは、私を神話の世界にまでつれ去ってゆく。
舞子島が死者をほうむる島だからといって私はなにもそれを、イザナミの葬られた黄泉の国に比定しているのではない。ただ橘湾を橘の小門と考えるとき、その神話の構図の視野の中に舞子島がとうぜんはいってくることをいいたいのである。
イザナギは橘の小門でミソギをしたのち淡路で死んだ。淡路の一の宮にまつられているのはイザナギである。ところで仁徳帝の子どもである履中天皇は淡路に狩をして、島神であるイザナギの機嫌を損じたと、日本書紀にある。しかもその履中天皇が、徳島県の最南端で高知県の甲の浦まではわずか四キロという町に関係がある。
履中天皇に姉妹で仕えていたある女官の兄は、阿波の国の脚咋の里にかくれ住んだ、と日本書紀にあるが、この脚咋の里はいまの宍喰だといわれている。また、風土記には、履中天皇が阿波の国の和那散でシジミ貝をたべた、とあるが、和那散は、この宍喰町の那佐である。
この那佐には和奈佐意富宵神社が祀られていた。ワナサのナサは波の音がやむことがない、という意味で、オフソは大磯という譜から由来するといわれているから、海人族の祀った神社であったにちがいない。この神社は現在、宍喰町の北の海南町の大里公園の中に移っているが、海部郡唯一の式内社として、この地方二十一ヵ村の人びとの尊崇をあつめている氏神である。
ところでふしぎなことに、出雲にもアハキヘ・ワナサヒコという神があった。このアハキヘは阿波から来経た。つまり阿波から出雲に移住したワナサヒコだという意味だ、と折口信夫は解釈している。
『丹後風土記』には次のようにいう。丹後の比治の里に真奈井という井戸があって、そこに八人の天女が降っては水浴びをしてたのしんでいた。ところがその村にワナサオキナ、ワナサオウナという老翁、老嫗がいて、天女のなかのひとりの着物をかくしてしまった。天女は仕方なく老夫婦のいいなりにその子どもとなり、十数年をすごした。翁と嫗は天女のおかげで富み栄えたが、それにもかかわらず邪慳にも天女を追い出してしまった。天女はなげきかなしんで老夫婦のもとを去り、奈具の村の社にとどまった。これがトヨウカノメノミコトである、と。
羽衣伝説は奄美、沖縄などにひろく分布している。トヨウカノメノミコトは穀物女神でオオゲツヒメと同一である。しかもここにはワナサオキナ、ワナサオウナという二人の老夫婦が出てくる。とすれば、これは阿波の和那佐と関係がふかいことは誰しも想像がつく。
ワナサの信仰は、貴人の赤んぼうを潮水に漬けて産湯を使わせたり、みそぎの儀式の手引をする海女の役割とつながりがある、と折口信夫は考えているようである。さきにあげた羽衣伝説にも、真奈井という井戸が出てくる。水の信仰を方々に持ち歩く集団があって、それが自分たちの出身地である宍喰の和那佐を聖化するめに、履中天皇の故事を作り上げ、むすびつけて語ったのかも知れぬ。
私はそれを宍喰涌から北へ牟岐、木岐、由岐、志和岐、阿部(あぶ)などの浦々にたどつてみることができるとおもうのだ。これらの浦々はいまも海士海女が生業を立てている。
由岐町から蒲生田岬の方へ道をとると、にわかに海を見下すけわしい山坂となる。曲がりくねった山の中腹の道から、はるかむこうの断崖絶壁に太平洋の怒涛が押しよせているのがみえる。そして山からの展望がひらけるとわずかばかりの平地にとつぜん集落があらわれる。このあたりは陸路の交通は以前は不可能に近かったことが想像される。
漁村どうしの交通には海上から近づく以外にはない。だから海がシケるとこれらの村々は暗澹とした日々を送らねばならなかった。私がぞっとする山道を車で越えて阿部の村に立ち寄ったとき、冬季のことでモグリのすがたは見られなかった。自動車道路ができてからは、頭に海産物をのせて売りあるく「阿部のイタダキ」 のすがたも消えてしまったという話であった。
戦前には信州や日本海の海岸はおろか、満洲まで行商をしたという阿部の女たちのたくましい活動ぶりから、私はかつてワナサの水の信仰を持ち歩いた古代の阿波の海人族の遍歴の足あとを偲んだ。
私の推測によれば、そのような海人族の信仰や芸能にまつわる伝承は、宍喰の那佐にはじまって、阿波の東南岸に孤立した海角である牟岐、木岐、由岐、志和岐とふしぎにも語尾に岐をもつ地名をたどつてはこばれたのだった。漂海民である海人族の生活習俗は、定着した農耕民とはほどとおく、丹後や出雲にもおよぶ陸上の移動を少しも苦にしなかったにちがいない。
私が徳島県と高知県の県境にある宍喰の町についた夜、めずらしく冬の雷がとどろいて、私は紫色の華麗な稲妻に襲われた。それは、これから幻想の神話の世界にむかって旅立とうとする私へのかっこうの贈物ではなかったか。
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