伊弉諾神宮
兵庫県淡路市多賀740 mapfan

鳥居

交通案内
バス神宮前


祭神
伊弉諾大神 配祀 伊弉冉大神

拝殿


由緒

 延喜式内大社の伊佐奈伎神社。一の宮。

 『古事記』によれば、高御産巣日神など三柱の神についで、独り神の宇摩志阿斯訶備比古遅神など二柱、以上の五柱の神を別天つ神と云い、次に神世七代の神々が顕れるとされ、その最後が伊弉諾神、伊弉冉神である。

 国生みの神々故、実に興味深い伝承が記紀に語られる。
 淤能碁呂島で、伊邪那岐命、その妹伊邪那美命に問ひて、「汝が身は如何にか成れる」と曰りたまへば、「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処あり」と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処あり。かれ、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに」とのりたまへば、伊邪那美命、「然善けむ」と答へたまひき。
 と話は進む。このあたりのお話は宮廷神話よりは、地方から語り部が持ち込んだ話が混ざっているようで、面白い。

 最初に生んだ子は、淡路之穂之狭別島とある。淡路島のこと。

 さまざまな神々を生成して、伊弉冉神は黄泉の国へ行く。伊弉諾神は黄泉の国から帰って禊ぎをし、綿津見三神、住吉三神、三貴子の天照大御神、月読命、建速須佐之男命を生成する。

 『古事記』では、「その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」とあり、突然に琵琶湖の多賀大社付近に幽れたように出るのだが、どうも幽宮は淡路島のことのようだ。岩屋に岩楠神社が鎮座、当社の摂社で、伊弉諾神の幽宮の伝承を持つ。
 当社の本殿下に古墳があり、そこを祭神の幽宮とする伝承がある。

社殿風景

 『日本書紀』履中天皇五年、淡路で狩りをした際、供の飼部たちが入れ墨をしたばかりで血なまぐさい臭いを嫌ったこと。
 允恭天皇十四年、明石海峡の真珠を奉納するように島神である伊弉諾神のお告げがあった。阿波の国の男狭磯が深い海に潜って真珠をとったと云う。

 このあたりの神話からは国生みの神らしい雰囲気はなく、海人の祀る島神そのものの姿のようだ。

本殿


お姿
 悠々たる神域が広がる。本殿の後ろの社叢は塀がしてあるのだが、原生林のようである。

夫婦楠


お祭り
  4月20日 例祭

『平成祭礼データ』伊弉諾神宮の御由緒

 我が国最古の歴史書たる、古事記・日本書紀に御祭神二柱の大神は、高天原の神々の理想実現のため天沼矛をもって日本の国土開拓に着手された。その最初が淡路の島で、先づ八尋殿と言う御殿を建て、其処で正しい夫婦の道をお定めになり、人々に教育を施し、産業を興して此の島をお治めになった。

 更に四国・九州・本州を始め周辺の島を次々と開拓されたのである。此の神業が国生みであり、大神を国生みの神と申し上げるのもその故である。

 大神は多くの神々もお生みになったが、その中で一番貴い御子神が天照大御神である。国生の大業を了えられた大神は、此の御子神に後の国治めの大任をお委せになり、独り国生みの初めの淡路へお帰りになって、此の多賀の地で余生を過されやがて御住居の跡が御陵となり、いつしか神社として祀られる様になったのが当神宮で、古事記には淡路の多賀になも坐す、日本書紀には幽宮を淡路の洲に構り、と御鎮座の起源を明かにしている、即ち日本最古のお社である。
 以上
 

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