越後国:56座 大1小55



頸城郡[クヒキ]:13座並小

奴奈川神社[ヌナカハ]
天津神社境内奴奈川神社[ぬながわ]「奴奈川姫命 配 八千矛神」ヒスイの産地、縄文中期の土器とともにヒスイの玉や加工場が発掘されている。新潟県糸魚川市一の宮94 神社公式 玄松子の記憶
白山神社「奴奈川姫命、伊佐奈岐命、大己貴命」新潟県西頸城郡能生町能生宮の上7239  玄松子の記憶
奴奈川神社[ぬながわ]「奴奈川比賣命」成務天皇御代。新潟県糸魚川市田伏南村569 玄松子の記憶

大神社[オホムハ]
天津神社「瓊瓊杵尊 配 太玉命、天兒屋根命」御厨[みくりや]の鎮守として伊勢神宮外宮から勧請した。新潟県糸魚川市一の宮94 玄松子の記憶
大神社[だい]「高皇産靈尊、大己貴命、少彦名命」新潟県西頸城郡能生町平字森本1345 玄松子の記憶
大野神社「品陀別尊、伊邪那美尊、國常立尊」新潟県糸魚川市大野字八幡山1992 玄松子の記憶
藤崎神社「大己貴命、天照皇大神、豐受大神、品陀別命」新潟県西頸城郡能生町藤崎2124 玄松子の記憶
大神社[おおがみしゃ]「大國主命」新潟県中頸城郡吉川町尾神401 玄松子の記憶
関山神社「國常立尊、伊弉册尊、素盞嗚尊」新潟県中頸城郡妙高村関山4804 玄松子の記憶
祭神
中尊 国常立尊 聖観世音菩薩
左尊 伊弉冊尊 十一面観世音菩薩
右尊 素盞鳴尊 文珠菩薩
往古より妙高山村関山三社大権現と称されていた。古来妙高山は、裸形上人によって 開かれ仏の山とされていた。神奈山には神様がおわし、和銅元年(七〇八)、悪疫流 行の年を選び、麓の関山村に里宮として前記の三神が勧請された。嵯峨天皇の御代( 八一〇)空海上人が、諸国廻歴の折りその神威を観窺し、帰京後帝へ奏上し、壮麗な る社殿を再建する。更に僧坊七十二区を栄築し、大いに仏徳を発揚する。
徳川時代になり、俊海法印が天海上人を通じ、関山霊社を中興せんことを徳川幕府へ 懇願する。家康公の台命にて大久保石見守が境内を検分の上、社領百石御朱印を下し 、妙高山始め五山とも山林竹木諸役免除を申し付けられ、再び旧時の盛観を得る。
明治維新により、朱印地は悉く上地を命ぜられ且つ、神仏混合を禁じられた為、明治 元年十月十八日、関山神社と改称する。神社の社殿は、文化五年戊辰の年(昭和六十 二年より百八十年前)に広く浄財の寄進を得、建築された。その範囲は、高田市、直 江津町、新井町始め中頚城一円、新潟市、刈羽郡、魚沼郡、東頚城郡、西頚城郡、戸 隠、野尻、針ノ木、飯山町、牟礼、柴津村、富臓村、長野市、野沢、古間の広い範囲 でありました。昭和三年十月昇格申請し、昭和六年七月十三日県社となり、終戦まで 続きました。


阿比多神社[アヒタ]
阿比多神社[あひた]「少名彦命」新潟県上越市長浜904番地878番地 玄松子の記憶


居多神社[ケタ]
居多神社[こた]「大國主命、奴奈川姫命、建御名方命、事代主命」元々北1kmの身輪山に鎮座。新潟県上越市五智6丁目1-11 玄松子の記憶
越後一の宮
一、祭神
大国主命 奴奈川姫 建御名方命

一、祭典
例祭五月三日  大祭八月十九・二十日
居多神社は大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)を祭神とする式内社である。
朝廷から弘仁四年(八一三)に従5位下を、貞観三年(八六一)に従四位下をたまわ った。古代、越後国司の厚い保護をうけて栄えた。
承元元年(一二〇七)、親鸞聖人は越後国府に配流となった。以後、建保二年(一二 一四)、常陸国稲田へ旅立つまでの七年間、越後で生活した。その際、居多神社に参 拝した。
南北朝の動乱が一段落した貞和三年(一三四七)、室町幕府から社殿修理費として田 井保(中頚城郡板倉町田井)三分の二をたまわった。さらに観応二年(一三五一)、 越後守護上杉憲顕から荒蒔保(中頚城郡清里村荒牧)保司分を社領としてたまわった 。以後、越後守護上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えた。
戦国時代には、京都の文化人達があいついで越後府中(直江津)を訪れた。文明十八 年(一四八六)、京都常光院の僧尭恵は守護上杉房定の厚遇をうけ、至徳寺の塔頭最 勝院を宿とした。滞在中、居多神社に参拝し、「天の原雲のよそまて八島もる神や涼 しきおきつしほ風」と詠んだ。京都相国寺の僧万里集九も長享二年(一四八八)、府 中を訪れ、居多神社をはじめ国分寺、安国寺など、府中の名所を見学した。尭恵、集 九以外にも、たくさんの文化人が参拝したことであろう。
戦国時代、居多神社も戦乱にまきこまれた。天文二年(一五三三)、反長尾為景派に よって社殿が焼かれた。そのため同年、為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定 を祈願し、社殿造営を約束した。天正六年(一五七八)、戦国大名上杉謙信が春日山 城で死去すると、養子景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った。これが有名な「御 館の乱」である。その際、居多神社は景虎に味方したため景勝軍の攻撃をうけ、社殿 が焼かれた。神主花ヶ前盛貞・家盛父子は難をさけ、能登・越中を転々とした。慶長 三年(一五九八)、景勝が会津(福島県)へ移ると、晴れて帰国することが出来た。
翌四年、春日山城主堀秀治から社領十三石を寄進されたが、もはや昔日の面影はなか った。
江戸時代、幕府から高百石の御朱印地をたまわっていた。明治十二年、海岸侵食のた め現在地に遷座した。のち、火災にあって焼失し、仮社殿のまま今日に至っている。

居多神社略年表
弘仁四年(八一三)、朝廷から従五位下をたまわる。
貞観三年(八六一)、朝廷から従四位下をたまわる。
延長五年(九二七)、「延喜式」神名帳に記載された式内社である。
承元元年(一二〇七)、親鸞聖人、越後国府に配流、居多神社に参拝す。
貞和三年(一三四七)、室町幕府より社殿修造費として、田井保三分の二をたまわる 。
観応二年(一三五一)、越後守護上杉憲顕より荒蒔保をたまわる。
応永十八年(一四一一)、居多神社社領注文によると、社領は頚城・刈羽・古志・魚 沼・蒲原五郡にまたがっていた。
文明十八年(一四八六)、京都常光院尭恵は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
長享二年(一四八八)、京都相国寺の僧万里集九は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
天文二年(一五三三)、越後守護代長尾為景は内乱鎮定を居多神社に祈願す。
永禄三年(一五六〇)、上杉謙信が居多神社に制札を掲げる。
天正六年(一五七八)、御館の乱に際し、上杉景虎に味方したため敗れ、神主花ヶ前 家は能登・越中へ逃れる。
慶長三年(一五九八)、上杉景勝が会津に移ったため、花ヶ前家は帰国す。
慶長四年(一五五九)春日山城主堀秀治より社領十三石をたまわる。
慶長十六年(一六一一)、福島城主松平忠輝より社領百石をたまわる。 
慶安元年(一六四八)、徳川三代将軍家光より社領百石をたまわる。 
元禄二年(一六八九)、人芭蕉は奥の細道の帰途、居多神社に参拝す。 
明治十二年(一八七九)、鸞聖人上陸の地の西方にあった境内が海岸侵食により崩壊 したため、現在地に造営し、遷座す。

居多神社宝物 
居多神社古文書 上越市指定文化財、狛犬 上越市指定文化財

境内社 
雁田神社 祭神 高皇産霊神 懐妊、安産、夜尿症治癒、性病治癒の神です。
稲荷神社 祭神 倉稲魂命(宇迦之御魂命)

越後七不思議 
居多神社「片葉の芦」
片葉の芦とは芦の葉が一方にのみ向かってはえている芦のことである。親鸞聖人が越 後配流のおり、居多神社に参拝し すえ遠く法を守らせ居多の神弥陀と衆生のあらん 限りは と詠み、神前に供えて祈願されたところ一夜にして居多神社境内の芦が片葉 になったという。今日、居多神社の境内に片葉の芦が群生している。



佐多神社[サタ]
剱神社「建速須佐之男尊、建御名方命、伊邪那岐尊、大國主命」新潟県糸魚川市宮平1464 玄松子の記憶
佐多神社「大國主命、建速須佐之男命」新潟県糸魚川市大字北山4321 玄松子の記憶
八坂神社「須佐之男命」かっては八坂神社一座を祀る。須佐之男命は仏教との習合では牛頭天王ともされております。牛頭天王と竜女との間に生まれましたのが八王子(五男三女)であります。新潟県上越市西本町4丁目2番25 玄松子の記憶
八坂神社略記
御祭神
建御名方命 須佐之男命 大山咋命

御由緒
昔は八坂社一座でしたが、後、諏訪社、日吉社を合祀しました。三ヶ所神社或は諏訪 神社と称したこともありましたが、昭和三年に郷社に列せられ八坂神社と称しました 。
また、三柱神社、俗称として八王子様といわれて現在に至っております。

八坂社(祇園社 八王子社)
八坂社は式内佐多神社であるという説もありますが明らかではありません。御祭神は 須佐之男命ですが仏教との習合では牛頭天王ともされております。牛頭天王と竜女と の間に生まれましたのが八王子(五男三女)であります。武勇、悪魔悪疫退散、商売 繁昌の神様です。上越地方唯一の大祭である祇園祭は、八坂神社の祭祀であります。 おそらくその始まりは越後国府時代(平安中期長元年中)あると思われます。以後歴 代国司の崇敬厚く府中祇園社と呼ばれ武門の神としてあがめられました。高田庄城開 府以来も領主はその威霊を仰いで祇園祭が行われていました。文書として祇園祭がは っきりしておりますのは、当社に伝わる元和四年(一六一八)の高田城主酒井忠勝の 寄進状です。この内容は奉行永見志摩守より祇園神主にあて「殿様より恒例によって 祇園会には御供米五石をやるからねんごろに国家安全を祈るように」というものです 。これよりそれ以前から祇園祭が行われていたことがわかります。ではなぜ他に見ら れないような旧高田旧直江津両市にわたって祭典が行われていたのでしょうか。伝説 では慶長十九年(一六一四)直江津福島城の高田移転によって、直江津のほとんど全 部の社寺が高田へ移りましたが、当社は移りませんでした。そこで当社の神主は初代 高田城主松平忠輝に願いでて、朱印地をもらうかわりに高田の祇園祭を出張して行う ことを許されたということです。そこで毎年旧暦六月七日、高田市中の神輿渡御を行 い、七日間仮殿で国家安全、家運長久の祈願祭を執行し、十四日再び市中渡御、夜稲 田より船で直江津に還御されたわけです。十四日の夜の直江津河口には「夜の荒川御 神輿が下る、川は万燈の迎え船、祇園ばやしの笛や太鼓で、夜が明ける」と直江津小 唄に歌われているとおり、この地方まれに見るお祭りであります。

諏訪社
天暦二年(九四八)の鎮座といわれ古直江の津の産土神です。元砂山村字諏訪の森の 地内(現南小敷地内)鎮座でありましたが、元禄二年(一六八九)に八坂社に合祀さ れたといわれます。

日吉社(山王権現、日枝神社)
長元年中(一〇二八年ごろ)の鎮座といわれ、元砂山村の産土神で文化年中(一八〇 三年ごろ)社殿焼失のため八坂社に合祀されたといわれております。

社殿 
本殿享保六年(一七二一年再建) 
拝殿天保十四年(一八四三)十余年の年月をかけ完成

祭典 
春祭 四月二十七・二十八日、祇園祭 高田七月二十三日から二十六日 直江津七月 二十六日から二十九日、秋祭八月二十七・二十八日



物部神社[モノノヘ]
日吉社「于摩志摩治命」通称:物部神社。新潟県中頸城郡清里村南田中564番地,565番地 玄松子の記憶

水嶋礒部神社[ミツシマノイソヘ]
水嶋磯部神社[みずしまいそべ]「武甕槌命」新潟県中頸城郡清里村梨平字磯部山2056 玄松子の記憶
水嶋礒部神社「健御名方命、天照皇大神、豐受大神、奇日方命、船玉神」新潟県西頸城郡能生町筒石464 玄松子の記憶
水嶋礒部神社「武甕槌命」新潟県中頚城郡清里村大字梨平2056番地 玄松子の記憶

菅原神社[スカハラ]
菅原神社「天穗日命、菅原道眞、天神地祇」新潟県中頸城郡清里村菅原字天神林108番地 玄松子の記憶

五十君神社[イホキミ]
五十君神社[いぎみ]「五十日足彦命」新潟県中頸城郡三和村大字所山田字鳥居場550 玄松子の記憶

江野神社[エノ]
江野神社「素佐能男命、奇稻田姫命、大己貴命、事代主命、建御名方命、大山命、彦舅命、影姫命、武内宿禰、屋主忍男武雄心命 合 産土神」大己貴命、建御名方命、建御名方命の長兄中主命の三神を合祀したのが創立である。新潟県西頸城郡名立町名立大町字明神山1335 玄松子の記憶

青海神社[アヲウミ]
青海神社[おうみ]「椎根津彦命 配 稚産靈神、倉稻魂神」新潟県西頸城郡青海町大字青海字菅峯山762 玄松子の記憶

圓田神社[マトタ]
圓田神社[まるだ]「道臣命 配 大己貴命、少彦名命」新潟県西頸城郡名立町丸田字宮ノ下476 玄松子の記憶
圓田神社[えんた]「國常立尊、大己貴尊、譽田別尊、大山咋尊」天武天皇(六七六年)己末八月十五日、勧請(社紀文書)。新潟県中頸城郡柿崎町岩手1089 玄松子の記憶
由緒
御祭神
国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神
第四十代天武天皇(六七六年)己末八月十五日、勧請(社紀文書)。口碑によれば、 神社の在りし所龍ケ峰という。大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この 円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり 。
天武天皇十三年(六八六年)己酉、地方巡察便、中臣朝臣清麿、当社に賽し、神威あ らたかと神殿を建立す。この後、巡察便来たる度、参拝し幣帛を献ずるを例とせり。
桓武天皇延歴十六年(七九四年)、坂上田村麿、奥羽征討の際宿陣し、戦勝を祈願し 、祈願文、矢二筋を奉納せり。(記録、献納品は天明火災に焼失)。
醍醐天皇延喜発亥三年(九〇三年)、圓田神社と改称す。延喜神明帳に記載あり。( 当社所蔵)。
天文十六年(一五四七年)、春日山城主長尾景虎、兄弟争の際、当社に参拝し戦勝祈 願文を奉納、後、長尾晴景を亡ぼし時、謝文、宝剣、大太刀を奉納す。(天明火災に 焼失)その大太刀を模して当社に納めあり。
天明元年(一七八六年)七月二十五日、火災。社殿、社庫焼失せり。
天明五年(一七八六年)四月、社殿建立。
嘉永八年(一八五五年)五月、現社殿建立。
昭和十九年(一九四四年)、幣殿建立。


斐太神社[ヒタ]
斐太神社[ひだ]「八千矛神、積羽八重事代主神、健御名方神」新潟県新井市宮内241  玄松子の記憶
延喜式内斐太神社御由緒
御祭神は八千矛神又御名大国主神、積羽八重事代主神(矢代大神)、健御名方神(諏 訪大神)
此の大神等が御鎮座されし其の源は遠き神代にして、大国主神が此の大八洲の国を経 営されし時、我が越の国に行幸され此の邊りを国中の日高見の国なりと仰せられ御滞 留なされ、沼河昆賣の神を御娶りまして、健御名方の神を居多の浜の西なる躬論山( 今の岩戸山と云う)に生み給う。大国主神、此の地経営の時、御子健御名方の神と田 畑・山野・道路を墾き給い田畑を作る業を教え給う。事代主神は、沼・河川を治め水 路を開き給う。
大国主神が大御功績をおへまして我魂を此の地に鎮めんと御衣を脱ぎ御劔、御鏡及曲 玉と共に残し給へるを御魂として鎮めまつりたるを斐太神社と稱へしなり。
又事代主神は河川の鎮守として岡沢山の奥に御魂を鎮めさせ給へるを矢代大神と稱へ 奉る。
健御名方神は山・谷・野の鎮守として青田村の奥山の頂上に御魂を鎮められしを、南 方明神と稱へ奉る。斯くて大同二年四月三日、由緒ありて矢代大神及南方明神を山の 社より当御社に御遷座なし、例年四月三日、現在五月三日御神事仕えまつる。
其の後延喜五年(一〇七〇年前)、醍醐天皇の詔により左大臣藤原時平が「式」の編 纂を命ぜられ、延長五年「式」の全五〇巻が完成した際、その中の「神祇式」神名帳 に頚城郡宮内鎮座斐太神社と記載された。斯く神名帳に記載された神社を延喜式内社 と呼び朝廷から特別の待遇を受けたのである。
頚城郡には関川の東に五社、川西に八社あり。之を八社五社と謂う。
上杉氏の時代、当社背後の鮫ケ尾城築城の際此の郷鎮護の総社と定め一町百二十ケ村 鎮座の祭神をも合わせ祀り宮内、雪森、籠町、乙吉、十日市、飛田、稲荷、青田の八 ケ村を神領と定め幣帛を献じ常に崇敬せられたのである。



古志郡[コシ]:6座並小

三宅神社二座[ミヤケ]
三宅神社「大彦命」以下の三論社は南北に1km間隔で並んでいる。東方の神倉山の三峰の山岳神を麓で祀ったものである。六日市の三宅神社の由来書の概要は次の通り。 孝元天皇皇子大彦命の男宮波多武日子命が新羅国の王子天日桙命の姫宮天美明命を婚り、越の国を賜ってこの地に来り、神名倉山に三つの殿を造られた。新潟県長岡市妙見町215番地 玄松子の記憶
宇都宮神社「波多武彦命」新潟県長岡市中潟町556番地 玄松子の記憶
三宅神社「波多武彦命、天美明命」新潟県長岡市六日市町1775番地 玄松子の記憶

桐原石部神社[キリハラノイソベ]
桐原石部神社[きりはらいそべ]「天日方奇日方命」新潟県三島郡和島村大字上桐シデノ木2169番地 玄松子の記憶
桐原石部神社「天日方奇日方命」新潟県三島郡寺泊大字下桐1848 玄松子の記憶

都野神社[ツノ]
高彦根神社「味高彦根命」新潟県長岡市宮内5丁目6番51号 玄松子の記憶
都野神社[との]「田心姫神、湍津姫神、市杵嶋姫神」新潟県三島郡与板町大字与板乙6044番地 玄松子の記憶
都野神社
与板郷総鎮守 都野神社由緒
与板郷総鎮守 都野神社(八幡宮) 元郷社 新潟県三島郡与板町大字与板鎮座

御祭神
築紫宗像姫三柱大神 田心姫神 湍津姫神 市杵島姫神
合殿 誉田別尊(応神天皇) 息長足姫命(神功皇后)

御神徳と由緒
都野神社は津の里の明神、式内社に推される。万治二年(一六五九)の記録に大津の 荘、与板村とあるように、当地は信濃川ぞいにあって、津の里とよばれ、蒲原方面か らの舟運の要地であった。当地より上流は流れも急になり、舟の運航もむずかしく、 ここからは陸上交通にうつり、北陸路、上方への道中の中継点であった。当神社の御 創建の起源は不祥であるが、裏山八幡公園の中腹から縄文式土器が出土したり、また 、今から千年ほど前に編された延喜式神名帳に都野神社の称号が登載されている(式 内社)ことから、その頃すでに与板郷の鎮守様として奉祀されていたことが推される 。その当時の社殿は裏山の頂上にあって、御神前に供える灯明が往来する舟に灯台の 役目をしていたといわれる。
道中安全の守護 水の守護 農耕、産業の守護 御祭神築紫宗像姫三柱大神の御本社 は宗像大社(元官幣大社、福岡県宗像郡玄界町田島鎮座)で、安芸の宮島厳島神社( 元官幣中社)の御祭神でもあらせられる。社記によれば、御祭神は天孫降臨のおり道 案内をつとめられた神々で、その御事蹟から、水上、陸上の交通安全の守護神、潅漑 用水、農耕、商工業の守護神として、津の里与板の地に奉祀された。また厳島信仰の 弁財天にもたとえられ、才色兼備、容貌の美、芸能の神でもあらせられる。

御神詞(汝助け奉り、斎かれよ)
相手を助けて、相手から助けられよ、互譲互助の心である。世の中のことは、まず自 分を考える前に、相手を立てることが大切である。相手はそれに応じて自分にもよく してくれるのが、人生自然の道理である。またこのことは(譲り合う心に事故はない )という安全運転の心構えにも通ずる。
八幡宮の御祭神が合祀されて、与板の八幡様 戦国時代、上杉氏の智将直江山城守兼 続、与板の城山に築城するや、九州宇佐八幡宮より御祭神(応神天皇、神功皇后)を 勧請し、八幡宮の称号も奉り、以後与板の八幡様が当神社の通称となる。御祭神は大 陸交渉の御事蹟から武の神、文化興隆の神と仰がれているが、御二柱は母子神の関係 であらせられ、母が我が子をはぐくみ育てる慈愛の信仰につながる。登り屋台で引き 手の親が子供を背負って、我が子の健やかな成長を祈るのも、この信仰のあらわれで ある。
現社殿は天保十一年(一八四O)の建築。
天保七年(一八三六)の大火で社殿類焼し、ときの第八代藩主、井伊直経公率先その 復興にあたられ、また大阪屋をはじめ豪商の奉賛をを受け再建が行なわれた。これが 現在の社殿である。そのとき、豪商のひとり丸津、中川正甫が熊谷宿小林斎源太郎な る彫師を招き、数年の歳月をかけて彫刻させたものが、現在与板町指定文化財になっ ている本殿および向拝の彫刻である。宏壮たる樹木、壮大なる社殿、総欅造り、精密 な彫刻が施された御本殿、いずれも与板郷総鎮守たるにふさわしい偉容である。やが て社殿再建百五十年を迎えるにあたり、昭和五十一年より社殿及び境内の大改修が昭 和の記念事業として、町内外多数の御奉賛をいただいて遂行された。古き歴史に輝く 文化財の保存とともに面目一新、尊厳なる規模に整備された。

本殿の構造
三間社流造、正面千鳥破風、唐破風

神事と芸能
春祭り(四月十四日〜十五日)
夏祭り(七月十五日)
神代神楽 前二祭の神賑芸能として、近郷の神楽保存会の人たちによって奉奏される 。素朴な、おおらかな神楽で、与板郷の貴重な民俗芸能である。
人形流し(六月三十日、十二月三十一日)
六月は夏を健康ですごす(夏越大祓祭)ために、十二月は新しい年を迎える(年越大 祓)ために、氏子崇敬者が心身の穢れを人形に託して神社に納め、午前O時を期して 、信濃川の清流に流す。
十五夜祭り(秋祭り、九月十四日〜十五日) 当神社の年中最大の祭りで、町主催の 与板十五夜祭りと合体して行なわれる。
神輿渡御(九月十五日) 天明七年(一七一六)京都で制作、大津、敦賀を経て新潟 、与板と舟路で届いた神輿の渡御である。神輿組の奉仕で氏子区域を巡行するが、近 年おちご様の参加がふえ、はなやかな、ほほえましい子供パレ−ドでもある。

社壇
 登り屋台 舞台(九月十四日、十五日両夜)与板の豪商が上方に商いに行ったおり 、祇園祭にヒントを得て、出したのが始まり。ときに宝暦七年(一七五七)、夜のと ばりがおりると、三台の屋台にそれぞれ百名近い青少年が乗り込み、社壇のお先祓神 楽を先導に百余名引き手がお囃子にあわせて町内を練って神社へ登る。神社の屋台坂 にさしかかると、万灯のゆらぐなか笛、太鼓の拍子にあわせて勇壮な登り行事が展開 される。まさに圧巻、観るよりも参加の祭りである。なお、大人数を動かす行事であ るため、危険防止にはいろいろな手立てが工夫され、先人の知恵がうかがえる。たと えば、一台の屋台が登りきって定位置に奉納されるまでは、次の屋台は絶対に動かし てはならぬなどの厳しいきまり、また、屋台は組み立て式で、釘を使わず、適当な遊 びをもたせるなど構造力学の妙が駆使されている。三台の屋台が奉納されると舞台で 芸能が始まる。かつては、三台の屋台にも仮設の花道をつけ、歌舞伎を上演し、観客 は回り舞台のようにぐるぐる回って観覧したものだが、今は舞台のみの上演である。

その他のおもな祭事
歳旦祭(一月一日)
月次祭(毎月一日、十五日)
初午祭(二月)
天神講祭(二月二十五日)
みたまとうろう祭り(八月十五日、靖国慰霊、平和祈願祭)
初穂講祭(十月)
金山祖神祭(十一月八日)
七五三祭(十一月十五日)
除夜祭(十二月三十一日)

境内社
神明宮(天照大神)
 唯一神明造 天保年間再建 南新町、北新町鎮守神
金山神社(金山彦命、彦火々出見命、見野命)
 与板町の特産打ち刃物の祖神を祀る創祀昭和五十二年、南宮大社より勧請。
金比羅宮(大物主命)
 金山神社に合斎。かつて与板の舟運盛んなりしとき、讃岐本宮より勧請。
天満宮(菅原道真公)
 学問、文化の神として、天保年間、京都北野天満宮より勧請。
稲荷社(宇迦之御魂大神)
 京都伏見稲荷大社より勧請。横町鎮守神。
城山稲荷社里宮(総御影石造)
 本宮は城山山頂鎮座。乙部地区農家鎮守神。
午頭天王社(建速須佐之男命)
島虫様 鮮魚組合鎮守神

境内規模
広さ 一二七七坪(四二二一平米)ほかに裏山八幡公園 二反八畝二十歩(二八四三 平米) 慰霊碑 祖国の万世太平を築かれた与板出身の御英霊を祀る

八幡公園
文久元年(一八六一)の開設 老松あり、桜あり、竹林あり、自然の風致にすぐれ与 板町民いこいの名所である。頂上に上水道の配水池があり、与板西山ハイキングコ− スの起点でもある。戦後、篤志家の寄進により復活、現在氏子有志により築庭事業が すすめられている。
書家の訪れがたえない境内

良寛詩碑
良寛生誕二百年を記念して、昭和三十三年、公園中腹に建立、格調の高い名碑である 。進斎八尾先生之碑
中村梧竹書 明治二十二年十月建立
道祖神碑
貫名苞書 安政己末六年仲春建立

宝物
五十嵐俊明筆・双額・菅原道真公自画像・本殿欄間彫刻(熊谷宿 小林斎源太郎作) 与板町指定文化財


都野神社「八幡大神、大山命」新潟県長岡市芹川町2767番地 玄松子の記憶

小丹生神社[オニフ]
宇奈具志神社[うなぐし]「大田命」摂社又倉神社「大地主神 配祀 須勢理比賣神、沼奈川比賣神」新潟県三島郡和島村大字島崎4753番地 玄松子の記憶
宇奈具志神社由緒略記
一、鎮座地 新潟県三島郡和島村大字島崎四七五三番地

二、名称  宇奈具志神社 延喜式内社ー元村社(旧 出田明神…尊称 小丹生神社 )

三、御祭神 太田命(オホタノミコト) 配祀 素戔鳴尊・大物主命・健御名方命

四、由緒  祭神太田命は猿田彦大神の御別名と申し伝えられ、創立年月日は不詳、 延喜式内神社であり、養老年間(西暦七一七〜一二七〇年前)、現地の南方八町を距 る字大田に奉斎して出田神社(ユヅリタ)と称して当村の産土神であり、今も神廟と いって水田中に石祠の古跡保存されておる。宝治二年(西暦一二四八年〜七三九年前 )、現域に遷座申し上げ、寛永七年(西暦一六三〇年〜三五七年前)、幕府より設楽 長兵衛、近山五兵衛を派遣検地の際除地二石附与。延宝六年九月(西暦一六三〇年〜 三五七年前)、設楽孫兵衛検地の際三石七斗七升一合五勺増加附与されたが、明治七 年返上する。天和元年(西暦一六八一年〜三〇六年前)、村大火の際類焼、翌二年十 一月再建する。文政十年六月(西暦一八二七年〜一六〇年前)、改築。明治三年、社 号を宇奈具志神社と改称、明治六年十一月四大区三小区の村社に列せられる。明治三 十九年十二月三十一日、神饌幣帛料供進神社に指定され、明治四十年九月二十五日、 同字、天王社、金刀比羅社、諏訪社を宇奈具志神社に合併の義許可され、同四十一年 十二月六日、合併し幣殿を造営する。

五、祭祀  例祭四月十五日(旧三月十五日)現域に遷座せし日を以て例祭日と定め る。筒粥祭一月十四日往古より伝わる神事で国民の為に五穀の豊凶を占う奉幣式であ る。六夜待祭八月十六日(元、八月二十六日)

六、境内神社
十二社 祭神大山祇神他十一神。創立宝永七年二月(西暦一七一〇年〜二七七年前) 。例祭六月十二日。
神明社(伊勢社) 祭神天照皇大神・月讀尊。創立弘化元年五月(西暦一八四四年〜 一四三年前)。例祭七月二十四日。
稲荷社 祭神宇加魂命。創立年月日不詳大正三年八月一日社殿改造。例祭二月初午の 日。
七、良寛歌詩
良寛さまが出田宮を詠じたものに次の歌詩がある(境内に建立)。
(詩)いづれの処にか蒸炎を消さん/ひとり愛す出田宮/民々耳に盈(ミ)つる蝉/ 冷々林を出づる風(歌)みはやしは/いづくはあれど/越路なる/三島の里の/出田 の宮
(昭和六十二年六月吉日宇奈具志神社社務所)


小丹生神社[おにふ]「波多武日子命 配 天美明命、建速須佐之男命、建南方命、天照皇大神」通称:熱田神社。新潟県見附市木野町1359番地 玄松子の記憶

宇奈具志神社[ウナクシ]
金峯神社[きんぷ]「金山彦命」和銅二年大和の吉野より蔵王権現を勧請と伝わる。しかし、大和の金峰山の蔵王権現が勧請されるのは平易安中期以降である。新潟県長岡市西蔵王3丁目1番5号 玄松子の記憶
宇奈具志神社[うなぐし]「天穗日命」新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 玄松子の記憶


三嶋郡[ミシマ]:6座並小

御嶋石部神社[ミシマノイソベ]
御嶋石部神社[みしまいそべ]「久斯比賀多命、武甕槌命」新潟県柏崎市北条304番地1 玄松子の記憶
御嶋石部神社[みしまいしべ]「大己貴神」新潟県刈羽郡西山町大字石地字二田添1258番地 玄松子の記憶

物部神社[モノノヘ]
物部神社「二田天物部命 合 物部稚櫻命、健御名方命」聖武天皇天平年間。二田物部は饒速日命の降臨に供奉した五物部にある。弥彦神社祭神の天香語山命に供奉し当地に至ったとされる。新潟県刈羽郡西山町大字二田字入の沢602番地 玄松子の記憶

鵜川神社[ウカハ]
鵜川神社[うかわ]「彌都波能賣命」山宮である。里宮を黒姫神社と呼ぶ。水神であり、機神でもある。黒姫大明神は、景行天皇御宇武内宿彌が黒姫山に登った時彌都波能賣神が出現し、その神託によって祀ったと伝えられる。新潟県刈羽郡高柳町大字高尾字黒姫山3620
鵜川神社「鵜葺草葺不合尊、品田和氣尊」新潟県柏崎市宮場町4-9 玄松子の記憶
鵜川神社案内
一、歴史
御遷座は八一一年。醍醐天皇の命により平安朝の始めの延喜年間に書物が編さんされ ました(完成九二七年)。その本の内容は、当時の諸制度や建造物に至るまで記され ました。その中に当社が入っており、遷座が弘仁二年(八一一年)、桓武天皇当時と あるところから推定されます。

二、現在の社殿以前と琵琶島城とのかかわり
鵜川は昔、鵜川神社と鵜川八幡社とに分けられており、別々に造営されておりました 。そしてこれらのお社は応安元年(一三六八年)に宇佐美祐益が伊豆の国から琵琶島 城に入って以来、当社が城の東北に当たるため鬼門と称しあつく信仰し、武将の守り 神として丁重に扱ったのです。参道の関町口の方は馬場としても使用していたようで す。(鳥居馬場)もちろん当時は戦乱の世、兵火(放火を含む)にもさらされ天文二 年(一五三三年)の秋には僅かな宝物を残して焼失、更には天文四年(一五三五年) の落雷?により宝物・記録がことごとく消えてしまったのです。そしてその後、再興 はされましたが完全にもとどおりの社殿には至らなかったのです。

三、現在の社殿
多くの人々の信仰心と篤志等により、文化六年(一八一〇年)に本殿が、そして翌年 には拝殿が完成し二社を合併して「鵜川神社」となったのです。パンフレットのはじ めの文字は現在正面の額となってさがっている大切なもので当時のもの。なお松平氏 の当社に対する理解と信仰は再建に大きな役割を果たしました。

四、宝物殿にあるもの
現存するものは天文四年以降のものがほとんどです。 宇佐美の軍刀・上杉為景(謙信の父)の起請文(天文二年)・謙信の高札の原稿・そ の後の武将たちの寄進状など・後陽成天皇の短冊・光格天皇の所持品の一部・松平定 信の社名の額文字・船絵馬(住吉丸)−−−柏崎市指定文化財・その他棟札など


鵜川神社「譽田別尊」新潟県柏崎市大字新道5127番地 玄松子の記憶
鵜川神社「美都波能賣命」新潟県柏崎市大字野田982番地 玄松子の記憶

多岐神社[タタイ]
多岐神社[たき]「高神」新潟県刈羽郡西山町大字別山字多岐ノ脇5362番地 玄松子の記憶
由緒(石碑)
徃古大国主命八世の孫稲田多彦命この地方開拓に当たり高オカミ神を奉斎し郷土興隆 を祈りしと謂う。
天和三年五月社領六石三斗五桝七合附与。
延喜式内社なり。

多多神社「神八井耳命 配 神日本磐余彦尊」新潟県柏崎市大字曽地1325 玄松子の記憶
多多神社由緒
多多神社の創立年代は天正年間の兵火による社殿、諸記録類の焼失で不明確となる。 しかし口伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊の御東征の際、吉備武彦に随従して 遣わされた、多臣襲木彦が此の地の里長の女を娶り、此の地に留まりて御祖神、神八 井耳尊を斎奉り、神日本磐余彦尊を配祀し奉り、多多神社と称したと云う。
現存する本殿は、天正年間焼失後、末社の社殿を移建されたものであるが、棟札によ つて永正十六年(一五一九)に建てられたことが明確である。流れ造りの小さな社殿 で、覆屋で保護されてきたため、建立当時の姿が完全に残されている。身舎の間口は 一.七米、奥行は一.〇六米で正面と側面に縁と高欄をめぐらしている。面、大取り の向拝は柱に頭貫をとおし、三斗を用いて桁をうけ、向拝柱とのつなぎには、海老虹 梁をかけ、ARUKIは二軒、身舎の正面と向拝の斗KYOの間には彫刻、蟇股をもちい、 妻には、大瓶束に笈形をかけ、柱上部の頭貫や、つなぎ紅梁の先端には、木鼻をほど こしている。流れ造りの正統をふむ室町時代中期のすぐれた社殿であり、部分的には 鎌倉時代の古調が残り、宝珠や木鼻彫刻に地方色がうかがわれる点も注目される。昭 和三十一年三月、新潟県文化財指定、昭和三十三年、国の重要文化財の指定を受ける 。昭和五十二年国費二千八百萬円をかけて根本的な解体修理とあわせて防災工事も終 えている。 以上
(注)文中のTARUKIは、「木」偏に「垂」です。KYOは、「木」偏に「共」です。


三嶋神社[ミシマ]
三島神社「大山祇命」新潟県柏崎市剣野町2-18 玄松子の記憶
延喜式内社三島神社の由緒
祭神。大山祗命。当社は奈良時代の天平一三年(七四一年)愛媛県越智郡の三島大明 神、現在の大三島の大山祗神社の別幣帛を勧請したに淵源し延喜式(九二七年撰上) に三島神社と記録されている。往古刈羽郡は三島郡(みしまぐん)と呼称したがその 郷社として郡民権門武将らに篤く崇敬されてきた。明治六年県社となり戦後の変遷を 経て今に栄える。以上


石井神社[イハヰ]
石井神社[いしい]「石凝姥命」新潟県刈羽郡西山町大字石地字十二1045 玄松子の記憶
石井神社[いわい]「大國主尊」新潟県三島郡出雲崎町石井町583 玄松子の記憶
石井神社[いわい]「神石井彦命」新潟県三島郡三島町上岩井3255 玄松子の記憶
石井神社[いわい]「譽田別尊、氣長足姫命、天照皇大神 配 寒川比古命、玉依姫命」新潟県柏崎市大字北条宮ノ入1180 玄松子の記憶
石井神社[いしい]「上筒男命、中筒男命、底筒男命」新潟県柏崎市西本町2丁目3-6 玄松子の記憶
石井神社の由来
越後国の国司として中央より派遣された貴族猪名真人大村卿(いなまのひと)が、大 阪市住吉の住吉大明神を柏崎の地に奉遷した年月は不詳ではありますが。
慶雲二年(七〇五)に北夷征討鎮護の祈願を行い、又慶雲三年(七〇六)には旱魃甚 だしく、農作物は勿論人畜にまで影響するに至り、雨乞いの祈願をしたところたちま ち、霊顕著しく篠つく雨が降ったという事であります。宝亀九年(七七八)勅令によ り大祓が執行されました。今尚続いている当神社特有の輪くぐりの神事は当時の古式 に依るものであります。
延暦八年(七八九)、強震により社地陥没し、翌年石井の岡に遷宮しました。之が現 在位置の石井神社であります。創立の際は住吉大明神と称したのでありますが、石井 の岡に遷宮したことにより、地名に因み氏子は石井神社とも称するようになりました 。延喜式神名帳に御記載ある石井神社が即ち当社であります。
延暦十二年(七九三)、坂上田村麿東夷征討の途次特に参篭して凶賊の殲滅を祈り、 祈願文を奉納せられたのを始め武将の参拝多く、元亀年間(一五七〇〜一五七三)に は上杉謙信佐渡征伐の途次海上御守護の御神である当社を参拝して奉幣並びに木製の 獅子一対奉納せられました。
宝暦元年(一七五一)四月、社殿類焼し獅子一対の外は、悉く灰燼となりました。文 政七年(一八二四)四月、再び社殿炎上。明治十三年(一八八〇)八月、三度炎上。 此の時の大火災を酢屋火事と称し、八四二戸焼失しました。之は当時の柏崎の戸数約 一八六〇戸の半数近くが罹災したことになります。
明治一六年(一八八三)四月、用材は桧材とし、本殿屋根は銅板ぶきとして造営の工 を起こし、同年竣工しました。大火のあとわずか三年後の復興は明治時代の氏子の神 社に対する信仰の深さをまざまざと感じさせるものがあります。
石井神社の祭神は、住吉大社と同じく、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命 (なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三神で、住吉神社は他 に神宮皇后が石井神社には息長帯姫尊が配祀されています。記紀神話によれば、イザ ナギノカミがなくなられたイザナミノカミを訪ねて黄泉(よみ)の国へ行き穢れを受 けて逃げ帰り日向の国で海中に入って禊をした時に生まれたことから、三神は、祓の 神、海の神、歌道の神、国家守護の神として信仰されています。
昭和三十年(一九五五)九月十八日に1250年祭が執行されました。従って、慶雲 二年(七〇五)を以て創立の年としていることになり、平成十七年(二〇〇五)が一 千三百年祭に当たります。



魚沼郡[イオノ]:5座並小

魚沼神社[イヲヌ]
魚沼神社[うおぬま]「天香語山命」崇神天皇御代。上弥彦神社と称した。小千谷は東北関東中部と北陸・日本海文化の集合拠点であった。
新潟県小千谷市土川2丁目12番22号 神社 玄松子の記憶
魚沼神社「天兒屋根命、譽田別尊、中筒男命」新潟県南魚沼郡湯沢町大字神立字宮林487 玄松子の記憶

大前神社[オホサキ]
大前神社[おおさき]「豐宇氣毘賣神 または天津彦火瓊瓊杵尊 配 大宮比売、倉稻魂命、大田命、大己貴命、神功皇后」背後には聳える霊峰八海山が聳える。修験道との関わりが深い。新潟県南魚沼郡大和町大字大崎字大門4042 玄松子の記憶

坂本神社[サカモト]
坂本神社「天津彦火瓊瓊杵命、木花開耶姫命、彦太忍信命、紀ノ白絲姫命、國狹槌尊」新潟県南魚沼郡大和町大字大倉字布場864 玄松子の記憶
日吉神社「大己貴命、大山命、瓊瓊杵命、建御名方命、八坂刀賣命、菅原道眞」新潟県南魚沼郡六日町大字田崎763-2 玄松子の記憶
坂本神社「瓊瓊杵尊、木花之開耶姫」新潟県南魚沼郡六日町大字宮590 玄松子の記憶

伊米神社[イメ]
伊米神社[いめ]「天香語山命」新潟県小千谷市大字桜町1314 玄松子の記憶
清水河辺神社[しみずかわべ]「建御名方命」新潟県北魚沼郡小出町小出島647 玄松子の記憶
諏訪神社「建御名方命」新潟県北魚沼郡小出町大字虫野85 玄松子の記憶

川合神社[カハアヒ]
川合神社「天水速女命」新潟県北魚沼郡川口村大字川口川口1979番地43 玄松子の記憶


蒲原郡[カムハラ]:13座大1小12

青海神社2座[アヲミ]
青海神社[あおみ]「椎根津彦命、大國魂命、賀茂別雷命、賀茂建角身命、玉依姫命」通称:加茂の明神さま。新潟県加茂市大字加茂字宮山229 玄松子の記憶
蒲原神社「椎根津彦命」新潟県新潟市長峯町3-18 玄松子の記憶
参拝のしおり
平安朝の昔、椎根津彦命の後裔が越後国蒲原郡に封ぜられ、蒲原の津(港)に土着し て、蒲原郷の総鎮守を創設し郊外の金鉢山に鎮座した。日本海の青い海を眺望する影 勝の地に位していたので青海神社と言い『延喜式』に青海神社二座と記載されている 。式内社が本社の前身であった。
本社は鎌倉時代まで栄えていたが、南北朝時代に下越後の南朝方が蒲原の津を根拠地 と定め、金鉢山に蒲原津城を築いたので、本社は否応なしに南北戦争に巻きこまれ、 その結果北朝方の完勝で戦争が終結した時、本社は敵側の神社として廃滅処分され、 その神官も全員追放処分された。神官たちはその後中国伝来の五行の五神を祀り「五 社宮」と称して辛うじて生き残ったと推考される。
戦国時代末期に新発田重家が信長と結んで上杉影勝に背き越後の覇権を争った時、金 鉢山に青海神社の生残りがいることを知り、その社殿を建築してやり、自らも新社に 参詣して戦勝祈願文を奉納し、社領十町歩と太刀等を寄進し、在世五年間に五社宮に 種々貢献したので、廃社寸前の神社は摂社末社四十余社を支配する神社に復興するこ とができた。
その後江戸時代初期には、数十年続いた稀有の大川欠け災害に遭遇し、蒲原村も金鉢 山もみんな流失し、五社宮は山ノ下の台地に避難紺困窮の末、元禄三年(一六九〇) 藩主の救助により新生の蒲原村(現在地)に再度復活し、明治の御代に至った。明治 維新政府は神道を国教と定め、神社制度を制定して本社の正式社名を「五社神社」と 改めて現在に至ったが、昭和五十八年、現宮司は昔から里人が蒲原の神社と呼び習わ してきたのをとり、「蒲原神社」と正式に改正して現在に至った。


宇都良波志神社[ウツラハシ]
中山神社に合祀 式内中山神社(五泉市)に掲載
八幡宮・白山神社合殿「合 八衢比賣神、久那斗神、神直日神、大直日神、速秋津比賣神、速佐須良比賣神、彌都波能賣神、迦具土神、埴山比賣神  主 譽田和氣命、氣長足姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命 合 白山比賣命、天兒屋根命、大名持命、少彦名命、天香語山命、大物主命、大山祇命、健御名方命、八坂戸女命、天津麻良命、石凝姥命 、表筒男命、中筒男命、息長足比賣命、神大市比賣命、大己貴命、大國主命、少彦名命、八衢比古神」新潟県五泉市大字宮町5-46 玄松子の記憶

伊久禮神社[イクレ]
伊久礼神社[いくれ]「埴安神、譽田別尊、闇御津羽神」新潟県三条市大字井栗字西屋敷409 玄松子の記憶

槻田神社[ツキタ]
槻田神社「津之大神、建御名方大神、大山祇大神、少彦名大神、立石大神」新潟県三条市大字月岡930 玄松子の記憶
槻田神社「譽田別尊」新潟県三条市大字荒町222-1 玄松子の記憶

小布勢神社[オフセ]
小布勢神社[こぶせ]「大比古命、譽田別命」新潟県三条市大字上保内丙1288番地 玄松子の記憶

伊加良志神社[イカラシ]
五十嵐神社「五十日帶日子命」五十日足彦命の宮跡と言う。新潟県南蒲原郡下田村大字飯田2383 玄松子の記憶
八木神社「倉稻魂命、豐磐間戸命、櫛磐間戸命 ほか」新潟県南蒲原郡下田村大字北五百川字宮地37 玄松子の記憶

伊夜比古神社[イヤヒコ](名神大)
彌彦神社「天香山命」越後一の宮。角田山塊の主峰弥彦山は越後を代表する霊山である。山麓には縄文・弥生・古墳時代にわたる遺跡が点在する。弥彦山周辺には神社、銅山、伝承が多い。新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 玄松子の記憶 神社公式

長瀬神社[ナカセ]
長瀬神社「伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命」新潟県加茂市大字宮寄上1557 玄松子の記憶
長瀬神社「瀬織津姫命、譽田別命、氣長足姫命」新潟県加茂市大字上条895 玄松子の記憶

中山神社[ナカヤマ]
中山神社「大己貴命 配 大山命 合 少名彦名命、天穗日命、建御名方命」新潟県五泉市大字橋田字中山戊398 玄松子の記憶
中山神社「國常立尊、健御名方命、木花咲屋姫命」新潟県三条市大字西大崎2137 玄松子の記憶

旦飯野神社[アサイノ]
旦飯野神社[あさいいの]「譽田別男命 配 豐受姫命、天照皇大神、天兒屋根命」長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年八月十五日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て旦飯野神社と号し奉祭。新潟県北蒲原郡笹神村大字宮下195番地 玄松子の記憶
旦飯野神社「譽田別命、健御名方命」新潟県新津市朝日535 玄松子の記憶

船江神社[フナエ]
神明宮「天照皇大神」新潟県新潟市赤塚7034
神明宮「天照大神、豐受大神、猿田彦大神、大彦命」新潟県新潟市古町通一番町500 玄松子の記憶
御由緒
当神社は天正年間(一五七三〜一五九一)までは、船江神社・神明宮ともに各々が境 内を持つ独立した二つの神社でした。明暦年間(一六五五〜一六五八)以降に、同じ 境内地の内にそれぞれのお社が並列して建てられ、「船江神明」と称されておりまし た。その後安政五年(一八五八)に現在のように合祀されました。
船江神社は、崇神天皇十年六月(西暦二四〇ころ)に建立されました。当時、この里 がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで 見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、 船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねました ところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これ より末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠され ました。これに驚き、また大変喜んだ村人たちは、この船魂「猿田彦大神」をお祭す るため早速お社を建立し、大切にお守り致しました。この時の船は新潟の船の起源と され、また地名も船得郷と改められ、その後「得」を「江」に転じて船江大神と崇め られました。延長五年(九二七)、延喜式神明帳に越後の式内社と記載され、神祇官 から官幣をいただいております。
神明宮の創立は不詳でありますが、天正十九年(一五九一)四月二十八日、上杉家よ り米四斗七升二合、社地二千坪の寄進と共に直江山城主兼 より真筆の「高天ケ原」 額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が神明宮の神職として任命されました。またこの 黒印書の由来から、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されておりました。
元禄年間(一六八八〜一七〇三)のころから船江大神宮と称せられ始めました。
文政六年(一八二三)二月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統轄する吉田家より 船江神社の社号を、また安政五年(一八五八)には、船江大神宮の社号を、栽司され ました。明治元年に村社に列し、同五年三月、新潟総鎮守として全市民の氏子札を届 けてあります。新潟縣初代縣令正三位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、現在も拝殿 に掛けられております。昭和二年、第二十五・二十八代内閣総理大臣若槻禮次郎氏よ りの社名石柱が奉納されました。
当神社は古典にその社名をみることのできる新潟で一番の歴史を持ち、総鎮守として 尊崇される神社です。


土生田神社[ツチフタ]
土羽田神社[はにうだ]「埴安姫命」潟県南蒲原郡田上町大字羽生田乙629番地 玄松子の記憶


沼垂郡[ヌタリ]:5座並小

大形神社[オホカタ]
大形神社[おおがた]「大己貴神」大同年間の創立。新潟県新潟市河度字本屋敷巳790 玄松子の記憶

市川神社[イチカハ]
稲荷神社「宇賀魂命」新潟県新潟市松浜町2972 玄松子の記憶
市川神社[いちかわ]「素盞嗚尊 配 譽田別尊、水波能賣命」新潟県北蒲原郡聖篭町大字亀塚1番地1 新潟県神社探訪

石井神社[イシヰ]
石井神社[いわい]「倉稻魂命」新潟県新発田市五十公野4685 神社
由緒
天保年中境内外に三十三観音の石像を建立したるも維新の際、神仏混淆を区別し石像 を除去し式内社に列せられる。延喜式の越後五十六座に石井神社が記されている。


美久理神社[ミクリ]
白山神社「菊理媛命」新潟県新潟市沼垂東1丁目1-17 玄松子の記憶
二王子神社「大國主大神 配 豐受姫大神、一言主大神、熊野加布呂大神」新潟県新発田市田貝2010 玄松子の記憶
藤戸社「宇多天皇、天照皇大神、大國主大神」新潟県新発田市東宮内藤戸山441 玄松子の記憶

川合神社[カハアヒ]
神明宮「天照大神」新潟県北蒲原郡黒川村大字熱田坂字落合421 玄松子の記憶
川合神社「多奇波世神、熊野加夫呂岐櫛御食野命、湍津姫命」新潟県北蒲原郡黒川村大字熱田坂663 玄松子の記憶


磐船郡[イハフネ]:8座並小

石船神社[イハフネ]
石船神社[いわふね]「饒速日命、水波女命、高神、闇神」御祭神の饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます。村上市教育委員会では「伝説から考えて、饒速日命の大和朝廷に恭順したさい、一部はよしとせずに安住の地を求めて来た人達か、蘇我氏との崇仏排仏の争いに敗れた物部氏の一統がたどり着いて遠祖饒速日命を祀り、天の石樟舟の伝説を残したのではないか」と述べている。新潟県村上市岩船三日市9番29号 玄松子の記憶
越後國磐舟郡式内社石船神社参拝のしおり
由緒
御祭神伝説
石船神社(イワフネジンジャ)は、平安時代、醍醐天皇の延喜年間の勅命によって定 められた法制四部のひとつ延喜式神名帳(九二七年)に、越後國磐舟郡筆頭のお社と して記載されており、古くから郡内広く信仰されてまいりました。
御祭神の饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこ の地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれま す。また水波女命・高・神・暗・神は京都の貴船神社の御祭神で、おもに水や舟を司 ります。現在でも、明神様と呼ばれるのは、貴船大明神に由来いたします。
日本書記、孝徳天皇の条に、大化三年(六四七年)に淳足柵が、翌四年には磐舟柵が 蝦夷征討の前進基地として築かれたとあります。既にこの頃から、磐舟という地名が 存在しており、社伝にも石祠があったといわれます。この磐舟柵の築かれた場所に関 しては、学問的には未だ解明されてはおりませんが、この神社の丘陵地一帯にその遺 構が眠っているものと思われます。また、眼下に流れる石川はかつて琵琶潟と呼ばれ た潟の名残であり、これも日本書記、斉明天皇の条で、朝廷に遣わされた越の国守阿 倍比羅夫が、蝦夷征討のため百八十艘の軍船を率いて出発した、という史実の根拠地 として可能性が高いと思われます。現在、地名として残っている岩船郡は磐舟柵・石 船神社がもととなって成立したのです。
その後、大同二年(八〇七年)秋篠朝臣安人が北陸道観察使としてこの地に下向した 際に、社殿を建立し、越後國北方の鎮護の神として京都の貴船神社の御祭神を勧請し たと伝わり、鎌倉時代以降は平林城主、色部氏、江戸時代以降は歴代の村上藩主にも 崇敬されました。
正徳四年(一七一四年)宣旨により正一位の神階が授けられており、明治五年には県 内でも二番目に縣社に列せられました。
例祭日は十月十八・十九・二十日で、今日のように御神輿と御舟をはじめとする屋台 で賑わうようになったのは江戸時代中期頃からです。昭和六十二年、この岩船まつり が県無形民俗文化財に指定されました。
神社の社叢はヤブツバキの群生地として、昭和三十三年、県天然記念物にも指定され ております。

或る年の冬の淋しい晩であった。遥か沖合から、異様の舟で異様の人が濱を目指して 漕いで来る。見れば、珍らしい石の舟に乗っている人は、如何にも神々しい姿であっ た。舟を乗り捨てると、其の人は藤のつるに掴まり、漸く濱の村に上がった。其の旅 人は一軒の家を訪ね一夜の宿を頼むが、鮭の酢漬つくりに忙しい其の家では旅人に耳 を傾けはしなかった。旅人が別の家を訪ねると、其の家の妻は身篭もっていたが旅人 を心づくしのもので饗してくれた。
翌朝、冬には珍しく晴れ渡った日であった。今日こそは大漁であろうと村の漁民達は 沖に出ようとした。すると旅人は、今日は不漁なり、出るだけ骨折りなり、と云う。 此の意外の言にも漁民達は耳を傾けなかった。しかし漁より帰った漁民の魚籠は軽か った。
其のまた翌朝、近頃になく海は荒れた。漁民達は誰一人沖に出ようとしなかった。そ の時例の旅人は、今日こそは漁あらん、出漁してみよ、と云う。半信半疑の漁民達は 前日の事もあり、不漁覚悟で沖に出てみた。然るに沖はそれほど荒れてはおらず、魚 籠を重くして濱の村に帰ってきた。それからというもの濱の村では此の不思議が喧傳 され、漁民達はこの旅人にその日の漁の如何を訪ねるようになった。そして其の旅人 の云うことが百発百中であることに何人も驚き、果てはこれこそ漁の神ではあるまい かと、崇敬下へも置かなかった。そればかりか其の旅人に製塩・農耕・養蚕等の万事 について迄、遠く訪ねて来る者もあった。
暫くして例の旅人は此の地を去ることになった。村の人々は、とどまってほしいとた って願ったけれどもそれはできない相談であった。旅人が、今後若し漁不漁の事を聞 きたからば山上の観音を拝すべし、然る時は自ら体得することあるべし、と一言を残 し、飄然として此の村を何處ともなく去った。其の後、漁民達は出漁毎に其の観音を 詣でたが不思議に其の日の出来が首肯かれた。人々は先の旅人が今更に神であったこ とに心附き、社を建て厚く之を祀った。
これが、今の石船明神であって、磐舟(岩船)の名は勿論、神様が石の舟でこの地に 漕ぎ附けた事から名づけられたものです。また此の言い伝えから、神様はお産を嫌い ませんし岩船の人達も神様がお掴まりになった藤のつるを大切にし、焼かないことに しています。そして石川にのぼった鮭をとりませんし、鮭の酢漬けもつくりません。



蒲原神社[カマハラ]
蒲原神社[かんばら]「天照皇大神」新潟県岩船郡山北町大字碁石803 玄松子の記憶
八幡宮「應神天皇 配 草野姫命、天照皇大神、大山祇命」新潟県岩船郡山北町大字勝木字筥竪[はこがた]山1411-甲

西奈弥神社[ニシナミ]
西奈彌神社[せなみ]「保食神」新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16 玄松子の記憶
西奈彌神社
瀬波河三面川下流は、鮭漁により平安の昔から遠く都にも知られていた。 その頃、祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお 着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。
祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。
延喜式にも記録されている古い神社で、例祭は九月四日である。

西奈彌羽黒神社[せなみはぐろ]「奈津姫命、倉稻魂命、月讀命」新潟県村上市羽黒町6-16 玄松子の記憶
西奈彌羽黒神社
当社は、村上市村上羽黒町に鎮座しており、奈津比売大神、倉稲魂大神、月読大神を お祀りしています。
社伝によれば持統天皇の元年(六八七)に西奈弥山に鎮座の由とありますので、延喜 式の西奈弥神社との関係が考えられます。往時、西奈弥羽黒山三社大権現と称してい たのは、天正十六年(一五八八)に当村上の城主本荘繁長公が、出羽庄内(今の鶴岡 市附近)の最上氏や東膳寺氏を攻めた時その地の羽黒山大権現に戦勝を祈願し、めで たく庄内地方を平定して手中に収めたので、凱旋の際に羽黒山の御分霊を勧請して、 この地方の総鎮守として祀られたからです。始めは今の庄内町の地にありましたが、 その後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松という処に移され、元和四年(一六一八) に堀丹後守直奇公が村上城主となられて、城郭と城下町の構築を大々的に行われた際 に、総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、新田町の清浄な高台(現在の 場所)に社殿を造営し、寛永十年六月七日に御遷宮されました。
当社は歴代の藩主の信仰が厚く、社領田や社料米の御寄進があり、社殿の造営や修理 はすべて藩の仕事として行われてきました。明治維新以後は村社から郷社に、そして 県社となり村上はもとよりこの地方の人々の崇敬厚い神社でした。その事は戦後の混 乱期も現在も変ることがありません。
摂社の神明宮は寛文十二年(一六七二)に藩主榊原熊之助政倫公の勧請です。この社 殿は元禄三年(一六九〇)五月に時の藩主榊原式部大輔勝乗公が羽黒山三社大権現の 御本殿として建てられたものです。明治十二年から現在の羽黒神社の社殿の造営が行 われたとき、神明宮の社殿とされました。昭和四十四年に新潟県文化財として指定さ れ、翌年八月から解体復元工事を、県と市の補助金を仰ぎ氏子はじめ各方面から寄進 された浄財で行い、昭和四十六年五月二十四日に元禄の昔の華麗な姿に復しました。
社殿の前の、新潟県文化財神明宮社殿の石柱は、新潟地震で大破した大鳥居(享保十 四年に前藩主間部公が越前鯖江から寄進)の柱の部分を用いたものです。
当神社の祭礼は七月七日に行われます。これは寛永十年の御遷宮の日の六月七日を毎 年の祭礼日としてきたのですが、明治になって新暦に改められてから七月七日とした ものです。
この祭礼には三基の神輿が町中を御巡行になります。神輿は寛文九年(一六六九)に 榊原家から御寄進になり、嘉永五年(一八五二)に時の藩主内藤信親公が大修造をさ れ、去る昭和四十八年に氏子の御寄進によって再度大修復が行われました。
神輿の御巡行には、庄内町の少年が奉仕をする荒馬十四騎が前駆し、十九台の華麗な 屋台が供奉します。
屋台は全部で十九台。うち六台は囃車(おはやし)・八台がシャギリ車で、いづれも 村上の工匠たちが腕を競って作ったもので、彫刻と漆の技術の粋を結集したものです 。その半数以上が明治以前のもので二百年を越すものが三台もあります。
荒馬は本荘繁長公が羽黒山の御分霊を奉じて凱旋された姿を模したものです。それぞ れの武将の旗印を背に立て、浅葱染の衣装に古羅紗の腹掛、手甲脚絆の姿も凛々しく 、白馬・黒馬・鹿毛・栗毛の轡をならして、掛声勇ましく行進する姿は圧巻といえま しょう。



荒川神社[アラカハ]
荒川神社「水波之賣命、應神天皇」新潟県岩船郡神林村大字小岩内字川端463 玄松子の記憶
荒川神社「菊理姫命」新潟県岩船郡山北町大字荒川542 玄松子の記憶
荒川神社「天鈿女命」新潟県北蒲原郡中条町大字桃崎187 玄松子の記憶

多伎神社[タキ]
多岐神社「湍津姫命」新潟県村上市大字岩ヶ崎字多伎山787 玄松子の記憶
多伎神社
多伎神社は延喜式記載のお宮で千二百余年の歴史がある。
祭神は、多伎津姫命であろうと言われている。神社のそばに滝があり、そこに滝不動 の小祠もあったことから、瀬波のお滝様とも呼ばれ人々に親しまれてきた。
又、源義経主従の奥州落ちにまつわる伝説がある。一行がここで一息ついた時、弁慶 が日本海の波の様子を眺め、「さても麗しき景色かな」と嘆賞し、社の扉に「観潮閣 」と書き、また、「弘道」と書かれた板も明治の初期まで残されていたという。社の 近くに、弁慶の硯り石、と名づけられている岩もある。
背後の社叢は、魚つき林、として保護されている。

多岐神社「湍津姫命」新潟県新潟県村上市岩ヶ崎字多伎山787 玄松子の記憶
河内二柱神社[かわうちふたはしら]「太郎宮、次郎宮 合 玖志大神、大山祇命、素盞男命」新潟県岩船郡朝日村大字高根1984 人里の社
大山祇神社「大山積神」新潟県村上市指合961ノ甲 玄松子の記憶
河内神社[かわうち]「三宮川内大明神」新潟県岩船郡朝日村大字小川1035 玄松子の記憶

漆山神社[ウルシヤマ]
漆山神社[うるしやま]「雷神、竜神、大山祇神」矢葺明神と呼ぶ。新潟県岩船郡朝日村大字葡萄字矢吹1154-1 ggg神社

桃川神社[モゝカハ]
桃川神社「譽田別尊」新潟県岩船郡神林村大字桃川字住吉949 玄松子の記憶

湊神社[ミナト]
湊神社「速秋津彦神、速秋津姫神」新潟県岩船郡神林村大字七湊字後山418 玄松子の記憶


H24.1.23
延喜式神名帳目次

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