祭神
中尊 国常立尊 聖観世音菩薩 左尊 伊弉冊尊 十一面観世音菩薩 右尊 素盞鳴尊 文珠菩薩 往古より妙高山村関山三社大権現と称されていた。古来妙高山は、裸形上人によって 開かれ仏の山とされていた。神奈山には神様がおわし、和銅元年(七〇八)、悪疫流 行の年を選び、麓の関山村に里宮として前記の三神が勧請された。嵯峨天皇の御代( 八一〇)空海上人が、諸国廻歴の折りその神威を観窺し、帰京後帝へ奏上し、壮麗な る社殿を再建する。更に僧坊七十二区を栄築し、大いに仏徳を発揚する。 徳川時代になり、俊海法印が天海上人を通じ、関山霊社を中興せんことを徳川幕府へ 懇願する。家康公の台命にて大久保石見守が境内を検分の上、社領百石御朱印を下し 、妙高山始め五山とも山林竹木諸役免除を申し付けられ、再び旧時の盛観を得る。 明治維新により、朱印地は悉く上地を命ぜられ且つ、神仏混合を禁じられた為、明治 元年十月十八日、関山神社と改称する。神社の社殿は、文化五年戊辰の年(昭和六十 二年より百八十年前)に広く浄財の寄進を得、建築された。その範囲は、高田市、直 江津町、新井町始め中頚城一円、新潟市、刈羽郡、魚沼郡、東頚城郡、西頚城郡、戸 隠、野尻、針ノ木、飯山町、牟礼、柴津村、富臓村、長野市、野沢、古間の広い範囲 でありました。昭和三年十月昇格申請し、昭和六年七月十三日県社となり、終戦まで 続きました。 |
越後一の宮
一、祭神 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 一、祭典
居多神社略年表
居多神社宝物
境内社
越後七不思議
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八坂神社略記
御祭神 建御名方命 須佐之男命 大山咋命 御由緒
八坂社(祇園社 八王子社)
諏訪社
日吉社(山王権現、日枝神社)
社殿
祭典
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由緒
御祭神 国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神 第四十代天武天皇(六七六年)己末八月十五日、勧請(社紀文書)。口碑によれば、 神社の在りし所龍ケ峰という。大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この 円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり 。 天武天皇十三年(六八六年)己酉、地方巡察便、中臣朝臣清麿、当社に賽し、神威あ らたかと神殿を建立す。この後、巡察便来たる度、参拝し幣帛を献ずるを例とせり。 桓武天皇延歴十六年(七九四年)、坂上田村麿、奥羽征討の際宿陣し、戦勝を祈願し 、祈願文、矢二筋を奉納せり。(記録、献納品は天明火災に焼失)。 醍醐天皇延喜発亥三年(九〇三年)、圓田神社と改称す。延喜神明帳に記載あり。( 当社所蔵)。 天文十六年(一五四七年)、春日山城主長尾景虎、兄弟争の際、当社に参拝し戦勝祈 願文を奉納、後、長尾晴景を亡ぼし時、謝文、宝剣、大太刀を奉納す。(天明火災に 焼失)その大太刀を模して当社に納めあり。 天明元年(一七八六年)七月二十五日、火災。社殿、社庫焼失せり。 天明五年(一七八六年)四月、社殿建立。 嘉永八年(一八五五年)五月、現社殿建立。 昭和十九年(一九四四年)、幣殿建立。 |
延喜式内斐太神社御由緒
御祭神は八千矛神又御名大国主神、積羽八重事代主神(矢代大神)、健御名方神(諏 訪大神) 此の大神等が御鎮座されし其の源は遠き神代にして、大国主神が此の大八洲の国を経 営されし時、我が越の国に行幸され此の邊りを国中の日高見の国なりと仰せられ御滞 留なされ、沼河昆賣の神を御娶りまして、健御名方の神を居多の浜の西なる躬論山( 今の岩戸山と云う)に生み給う。大国主神、此の地経営の時、御子健御名方の神と田 畑・山野・道路を墾き給い田畑を作る業を教え給う。事代主神は、沼・河川を治め水 路を開き給う。 大国主神が大御功績をおへまして我魂を此の地に鎮めんと御衣を脱ぎ御劔、御鏡及曲 玉と共に残し給へるを御魂として鎮めまつりたるを斐太神社と稱へしなり。 又事代主神は河川の鎮守として岡沢山の奥に御魂を鎮めさせ給へるを矢代大神と稱へ 奉る。 健御名方神は山・谷・野の鎮守として青田村の奥山の頂上に御魂を鎮められしを、南 方明神と稱へ奉る。斯くて大同二年四月三日、由緒ありて矢代大神及南方明神を山の 社より当御社に御遷座なし、例年四月三日、現在五月三日御神事仕えまつる。 其の後延喜五年(一〇七〇年前)、醍醐天皇の詔により左大臣藤原時平が「式」の編 纂を命ぜられ、延長五年「式」の全五〇巻が完成した際、その中の「神祇式」神名帳 に頚城郡宮内鎮座斐太神社と記載された。斯く神名帳に記載された神社を延喜式内社 と呼び朝廷から特別の待遇を受けたのである。 頚城郡には関川の東に五社、川西に八社あり。之を八社五社と謂う。 上杉氏の時代、当社背後の鮫ケ尾城築城の際此の郷鎮護の総社と定め一町百二十ケ村 鎮座の祭神をも合わせ祀り宮内、雪森、籠町、乙吉、十日市、飛田、稲荷、青田の八 ケ村を神領と定め幣帛を献じ常に崇敬せられたのである。 |
都野神社
与板郷総鎮守 都野神社由緒 与板郷総鎮守 都野神社(八幡宮) 元郷社 新潟県三島郡与板町大字与板鎮座 御祭神
御神徳と由緒
御神詞(汝助け奉り、斎かれよ)
本殿の構造
神事と芸能
社壇
その他のおもな祭事
境内社
境内規模
八幡公園
良寛詩碑
宝物
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宇奈具志神社由緒略記
一、鎮座地 新潟県三島郡和島村大字島崎四七五三番地 二、名称 宇奈具志神社 延喜式内社ー元村社(旧 出田明神…尊称 小丹生神社 ) 三、御祭神 太田命(オホタノミコト) 配祀 素戔鳴尊・大物主命・健御名方命 四、由緒 祭神太田命は猿田彦大神の御別名と申し伝えられ、創立年月日は不詳、 延喜式内神社であり、養老年間(西暦七一七〜一二七〇年前)、現地の南方八町を距 る字大田に奉斎して出田神社(ユヅリタ)と称して当村の産土神であり、今も神廟と いって水田中に石祠の古跡保存されておる。宝治二年(西暦一二四八年〜七三九年前 )、現域に遷座申し上げ、寛永七年(西暦一六三〇年〜三五七年前)、幕府より設楽 長兵衛、近山五兵衛を派遣検地の際除地二石附与。延宝六年九月(西暦一六三〇年〜 三五七年前)、設楽孫兵衛検地の際三石七斗七升一合五勺増加附与されたが、明治七 年返上する。天和元年(西暦一六八一年〜三〇六年前)、村大火の際類焼、翌二年十 一月再建する。文政十年六月(西暦一八二七年〜一六〇年前)、改築。明治三年、社 号を宇奈具志神社と改称、明治六年十一月四大区三小区の村社に列せられる。明治三 十九年十二月三十一日、神饌幣帛料供進神社に指定され、明治四十年九月二十五日、 同字、天王社、金刀比羅社、諏訪社を宇奈具志神社に合併の義許可され、同四十一年 十二月六日、合併し幣殿を造営する。 五、祭祀 例祭四月十五日(旧三月十五日)現域に遷座せし日を以て例祭日と定め る。筒粥祭一月十四日往古より伝わる神事で国民の為に五穀の豊凶を占う奉幣式であ る。六夜待祭八月十六日(元、八月二十六日) 六、境内神社
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鵜川神社案内
一、歴史 御遷座は八一一年。醍醐天皇の命により平安朝の始めの延喜年間に書物が編さんされ ました(完成九二七年)。その本の内容は、当時の諸制度や建造物に至るまで記され ました。その中に当社が入っており、遷座が弘仁二年(八一一年)、桓武天皇当時と あるところから推定されます。 二、現在の社殿以前と琵琶島城とのかかわり
三、現在の社殿
四、宝物殿にあるもの
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由緒(石碑)
徃古大国主命八世の孫稲田多彦命この地方開拓に当たり高オカミ神を奉斎し郷土興隆 を祈りしと謂う。 天和三年五月社領六石三斗五桝七合附与。 延喜式内社なり。 |
多多神社由緒
多多神社の創立年代は天正年間の兵火による社殿、諸記録類の焼失で不明確となる。 しかし口伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊の御東征の際、吉備武彦に随従して 遣わされた、多臣襲木彦が此の地の里長の女を娶り、此の地に留まりて御祖神、神八 井耳尊を斎奉り、神日本磐余彦尊を配祀し奉り、多多神社と称したと云う。 現存する本殿は、天正年間焼失後、末社の社殿を移建されたものであるが、棟札によ つて永正十六年(一五一九)に建てられたことが明確である。流れ造りの小さな社殿 で、覆屋で保護されてきたため、建立当時の姿が完全に残されている。身舎の間口は 一.七米、奥行は一.〇六米で正面と側面に縁と高欄をめぐらしている。面、大取り の向拝は柱に頭貫をとおし、三斗を用いて桁をうけ、向拝柱とのつなぎには、海老虹 梁をかけ、ARUKIは二軒、身舎の正面と向拝の斗KYOの間には彫刻、蟇股をもちい、 妻には、大瓶束に笈形をかけ、柱上部の頭貫や、つなぎ紅梁の先端には、木鼻をほど こしている。流れ造りの正統をふむ室町時代中期のすぐれた社殿であり、部分的には 鎌倉時代の古調が残り、宝珠や木鼻彫刻に地方色がうかがわれる点も注目される。昭 和三十一年三月、新潟県文化財指定、昭和三十三年、国の重要文化財の指定を受ける 。昭和五十二年国費二千八百萬円をかけて根本的な解体修理とあわせて防災工事も終 えている。 以上 (注)文中のTARUKIは、「木」偏に「垂」です。KYOは、「木」偏に「共」です。 |
延喜式内社三島神社の由緒
祭神。大山祗命。当社は奈良時代の天平一三年(七四一年)愛媛県越智郡の三島大明 神、現在の大三島の大山祗神社の別幣帛を勧請したに淵源し延喜式(九二七年撰上) に三島神社と記録されている。往古刈羽郡は三島郡(みしまぐん)と呼称したがその 郷社として郡民権門武将らに篤く崇敬されてきた。明治六年県社となり戦後の変遷を 経て今に栄える。以上 |
石井神社の由来
越後国の国司として中央より派遣された貴族猪名真人大村卿(いなまのひと)が、大 阪市住吉の住吉大明神を柏崎の地に奉遷した年月は不詳ではありますが。 慶雲二年(七〇五)に北夷征討鎮護の祈願を行い、又慶雲三年(七〇六)には旱魃甚 だしく、農作物は勿論人畜にまで影響するに至り、雨乞いの祈願をしたところたちま ち、霊顕著しく篠つく雨が降ったという事であります。宝亀九年(七七八)勅令によ り大祓が執行されました。今尚続いている当神社特有の輪くぐりの神事は当時の古式 に依るものであります。 延暦八年(七八九)、強震により社地陥没し、翌年石井の岡に遷宮しました。之が現 在位置の石井神社であります。創立の際は住吉大明神と称したのでありますが、石井 の岡に遷宮したことにより、地名に因み氏子は石井神社とも称するようになりました 。延喜式神名帳に御記載ある石井神社が即ち当社であります。 延暦十二年(七九三)、坂上田村麿東夷征討の途次特に参篭して凶賊の殲滅を祈り、 祈願文を奉納せられたのを始め武将の参拝多く、元亀年間(一五七〇〜一五七三)に は上杉謙信佐渡征伐の途次海上御守護の御神である当社を参拝して奉幣並びに木製の 獅子一対奉納せられました。 宝暦元年(一七五一)四月、社殿類焼し獅子一対の外は、悉く灰燼となりました。文 政七年(一八二四)四月、再び社殿炎上。明治十三年(一八八〇)八月、三度炎上。 此の時の大火災を酢屋火事と称し、八四二戸焼失しました。之は当時の柏崎の戸数約 一八六〇戸の半数近くが罹災したことになります。 明治一六年(一八八三)四月、用材は桧材とし、本殿屋根は銅板ぶきとして造営の工 を起こし、同年竣工しました。大火のあとわずか三年後の復興は明治時代の氏子の神 社に対する信仰の深さをまざまざと感じさせるものがあります。 石井神社の祭神は、住吉大社と同じく、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命 (なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三神で、住吉神社は他 に神宮皇后が石井神社には息長帯姫尊が配祀されています。記紀神話によれば、イザ ナギノカミがなくなられたイザナミノカミを訪ねて黄泉(よみ)の国へ行き穢れを受 けて逃げ帰り日向の国で海中に入って禊をした時に生まれたことから、三神は、祓の 神、海の神、歌道の神、国家守護の神として信仰されています。 昭和三十年(一九五五)九月十八日に1250年祭が執行されました。従って、慶雲 二年(七〇五)を以て創立の年としていることになり、平成十七年(二〇〇五)が一 千三百年祭に当たります。 |
参拝のしおり
平安朝の昔、椎根津彦命の後裔が越後国蒲原郡に封ぜられ、蒲原の津(港)に土着し て、蒲原郷の総鎮守を創設し郊外の金鉢山に鎮座した。日本海の青い海を眺望する影 勝の地に位していたので青海神社と言い『延喜式』に青海神社二座と記載されている 。式内社が本社の前身であった。 本社は鎌倉時代まで栄えていたが、南北朝時代に下越後の南朝方が蒲原の津を根拠地 と定め、金鉢山に蒲原津城を築いたので、本社は否応なしに南北戦争に巻きこまれ、 その結果北朝方の完勝で戦争が終結した時、本社は敵側の神社として廃滅処分され、 その神官も全員追放処分された。神官たちはその後中国伝来の五行の五神を祀り「五 社宮」と称して辛うじて生き残ったと推考される。 戦国時代末期に新発田重家が信長と結んで上杉影勝に背き越後の覇権を争った時、金 鉢山に青海神社の生残りがいることを知り、その社殿を建築してやり、自らも新社に 参詣して戦勝祈願文を奉納し、社領十町歩と太刀等を寄進し、在世五年間に五社宮に 種々貢献したので、廃社寸前の神社は摂社末社四十余社を支配する神社に復興するこ とができた。 その後江戸時代初期には、数十年続いた稀有の大川欠け災害に遭遇し、蒲原村も金鉢 山もみんな流失し、五社宮は山ノ下の台地に避難紺困窮の末、元禄三年(一六九〇) 藩主の救助により新生の蒲原村(現在地)に再度復活し、明治の御代に至った。明治 維新政府は神道を国教と定め、神社制度を制定して本社の正式社名を「五社神社」と 改めて現在に至ったが、昭和五十八年、現宮司は昔から里人が蒲原の神社と呼び習わ してきたのをとり、「蒲原神社」と正式に改正して現在に至った。 |
御由緒
当神社は天正年間(一五七三〜一五九一)までは、船江神社・神明宮ともに各々が境 内を持つ独立した二つの神社でした。明暦年間(一六五五〜一六五八)以降に、同じ 境内地の内にそれぞれのお社が並列して建てられ、「船江神明」と称されておりまし た。その後安政五年(一八五八)に現在のように合祀されました。 船江神社は、崇神天皇十年六月(西暦二四〇ころ)に建立されました。当時、この里 がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで 見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、 船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねました ところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これ より末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠され ました。これに驚き、また大変喜んだ村人たちは、この船魂「猿田彦大神」をお祭す るため早速お社を建立し、大切にお守り致しました。この時の船は新潟の船の起源と され、また地名も船得郷と改められ、その後「得」を「江」に転じて船江大神と崇め られました。延長五年(九二七)、延喜式神明帳に越後の式内社と記載され、神祇官 から官幣をいただいております。 神明宮の創立は不詳でありますが、天正十九年(一五九一)四月二十八日、上杉家よ り米四斗七升二合、社地二千坪の寄進と共に直江山城主兼 より真筆の「高天ケ原」 額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が神明宮の神職として任命されました。またこの 黒印書の由来から、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されておりました。 元禄年間(一六八八〜一七〇三)のころから船江大神宮と称せられ始めました。 文政六年(一八二三)二月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統轄する吉田家より 船江神社の社号を、また安政五年(一八五八)には、船江大神宮の社号を、栽司され ました。明治元年に村社に列し、同五年三月、新潟総鎮守として全市民の氏子札を届 けてあります。新潟縣初代縣令正三位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、現在も拝殿 に掛けられております。昭和二年、第二十五・二十八代内閣総理大臣若槻禮次郎氏よ りの社名石柱が奉納されました。 当神社は古典にその社名をみることのできる新潟で一番の歴史を持ち、総鎮守として 尊崇される神社です。 |
由緒
天保年中境内外に三十三観音の石像を建立したるも維新の際、神仏混淆を区別し石像 を除去し式内社に列せられる。延喜式の越後五十六座に石井神社が記されている。 |
越後國磐舟郡式内社石船神社参拝のしおり
由緒 御祭神伝説 石船神社(イワフネジンジャ)は、平安時代、醍醐天皇の延喜年間の勅命によって定 められた法制四部のひとつ延喜式神名帳(九二七年)に、越後國磐舟郡筆頭のお社と して記載されており、古くから郡内広く信仰されてまいりました。 御祭神の饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこ の地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれま す。また水波女命・高・神・暗・神は京都の貴船神社の御祭神で、おもに水や舟を司 ります。現在でも、明神様と呼ばれるのは、貴船大明神に由来いたします。 日本書記、孝徳天皇の条に、大化三年(六四七年)に淳足柵が、翌四年には磐舟柵が 蝦夷征討の前進基地として築かれたとあります。既にこの頃から、磐舟という地名が 存在しており、社伝にも石祠があったといわれます。この磐舟柵の築かれた場所に関 しては、学問的には未だ解明されてはおりませんが、この神社の丘陵地一帯にその遺 構が眠っているものと思われます。また、眼下に流れる石川はかつて琵琶潟と呼ばれ た潟の名残であり、これも日本書記、斉明天皇の条で、朝廷に遣わされた越の国守阿 倍比羅夫が、蝦夷征討のため百八十艘の軍船を率いて出発した、という史実の根拠地 として可能性が高いと思われます。現在、地名として残っている岩船郡は磐舟柵・石 船神社がもととなって成立したのです。 その後、大同二年(八〇七年)秋篠朝臣安人が北陸道観察使としてこの地に下向した 際に、社殿を建立し、越後國北方の鎮護の神として京都の貴船神社の御祭神を勧請し たと伝わり、鎌倉時代以降は平林城主、色部氏、江戸時代以降は歴代の村上藩主にも 崇敬されました。 正徳四年(一七一四年)宣旨により正一位の神階が授けられており、明治五年には県 内でも二番目に縣社に列せられました。 例祭日は十月十八・十九・二十日で、今日のように御神輿と御舟をはじめとする屋台 で賑わうようになったのは江戸時代中期頃からです。昭和六十二年、この岩船まつり が県無形民俗文化財に指定されました。 神社の社叢はヤブツバキの群生地として、昭和三十三年、県天然記念物にも指定され ております。 或る年の冬の淋しい晩であった。遥か沖合から、異様の舟で異様の人が濱を目指して
漕いで来る。見れば、珍らしい石の舟に乗っている人は、如何にも神々しい姿であっ
た。舟を乗り捨てると、其の人は藤のつるに掴まり、漸く濱の村に上がった。其の旅
人は一軒の家を訪ね一夜の宿を頼むが、鮭の酢漬つくりに忙しい其の家では旅人に耳
を傾けはしなかった。旅人が別の家を訪ねると、其の家の妻は身篭もっていたが旅人
を心づくしのもので饗してくれた。
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西奈彌神社
瀬波河三面川下流は、鮭漁により平安の昔から遠く都にも知られていた。 その頃、祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお 着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。 祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。 延喜式にも記録されている古い神社で、例祭は九月四日である。 |
西奈彌羽黒神社
当社は、村上市村上羽黒町に鎮座しており、奈津比売大神、倉稲魂大神、月読大神を お祀りしています。 社伝によれば持統天皇の元年(六八七)に西奈弥山に鎮座の由とありますので、延喜 式の西奈弥神社との関係が考えられます。往時、西奈弥羽黒山三社大権現と称してい たのは、天正十六年(一五八八)に当村上の城主本荘繁長公が、出羽庄内(今の鶴岡 市附近)の最上氏や東膳寺氏を攻めた時その地の羽黒山大権現に戦勝を祈願し、めで たく庄内地方を平定して手中に収めたので、凱旋の際に羽黒山の御分霊を勧請して、 この地方の総鎮守として祀られたからです。始めは今の庄内町の地にありましたが、 その後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松という処に移され、元和四年(一六一八) に堀丹後守直奇公が村上城主となられて、城郭と城下町の構築を大々的に行われた際 に、総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、新田町の清浄な高台(現在の 場所)に社殿を造営し、寛永十年六月七日に御遷宮されました。 当社は歴代の藩主の信仰が厚く、社領田や社料米の御寄進があり、社殿の造営や修理 はすべて藩の仕事として行われてきました。明治維新以後は村社から郷社に、そして 県社となり村上はもとよりこの地方の人々の崇敬厚い神社でした。その事は戦後の混 乱期も現在も変ることがありません。 摂社の神明宮は寛文十二年(一六七二)に藩主榊原熊之助政倫公の勧請です。この社 殿は元禄三年(一六九〇)五月に時の藩主榊原式部大輔勝乗公が羽黒山三社大権現の 御本殿として建てられたものです。明治十二年から現在の羽黒神社の社殿の造営が行 われたとき、神明宮の社殿とされました。昭和四十四年に新潟県文化財として指定さ れ、翌年八月から解体復元工事を、県と市の補助金を仰ぎ氏子はじめ各方面から寄進 された浄財で行い、昭和四十六年五月二十四日に元禄の昔の華麗な姿に復しました。 社殿の前の、新潟県文化財神明宮社殿の石柱は、新潟地震で大破した大鳥居(享保十 四年に前藩主間部公が越前鯖江から寄進)の柱の部分を用いたものです。 当神社の祭礼は七月七日に行われます。これは寛永十年の御遷宮の日の六月七日を毎 年の祭礼日としてきたのですが、明治になって新暦に改められてから七月七日とした ものです。 この祭礼には三基の神輿が町中を御巡行になります。神輿は寛文九年(一六六九)に 榊原家から御寄進になり、嘉永五年(一八五二)に時の藩主内藤信親公が大修造をさ れ、去る昭和四十八年に氏子の御寄進によって再度大修復が行われました。 神輿の御巡行には、庄内町の少年が奉仕をする荒馬十四騎が前駆し、十九台の華麗な 屋台が供奉します。 屋台は全部で十九台。うち六台は囃車(おはやし)・八台がシャギリ車で、いづれも 村上の工匠たちが腕を競って作ったもので、彫刻と漆の技術の粋を結集したものです 。その半数以上が明治以前のもので二百年を越すものが三台もあります。 荒馬は本荘繁長公が羽黒山の御分霊を奉じて凱旋された姿を模したものです。それぞ れの武将の旗印を背に立て、浅葱染の衣装に古羅紗の腹掛、手甲脚絆の姿も凛々しく 、白馬・黒馬・鹿毛・栗毛の轡をならして、掛声勇ましく行進する姿は圧巻といえま しょう。 |
多伎神社
多伎神社は延喜式記載のお宮で千二百余年の歴史がある。 祭神は、多伎津姫命であろうと言われている。神社のそばに滝があり、そこに滝不動 の小祠もあったことから、瀬波のお滝様とも呼ばれ人々に親しまれてきた。 又、源義経主従の奥州落ちにまつわる伝説がある。一行がここで一息ついた時、弁慶 が日本海の波の様子を眺め、「さても麗しき景色かな」と嘆賞し、社の扉に「観潮閣 」と書き、また、「弘道」と書かれた板も明治の初期まで残されていたという。社の 近くに、弁慶の硯り石、と名づけられている岩もある。 背後の社叢は、魚つき林、として保護されている。 |