播磨国:50座 大7、小43



明石郡[アカシ]:9座 大3小6

宇留神社[ウル]
春日神社「武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣神」用明天皇二年創建。
御由緒 用
明天皇二年二月十五日の創立と傳へ齋明天皇六年九月及び嵯峨天皇弘仁十二年九月 の再度社殿を再建す延喜式に明石郡九座宇留神社とあるは當社にして中世大和國春日 神社と御同體の故を以て春日神社と稱す享保六年八月社殿を再営し明治七年二月村社 に列せらる

兵庫県神戸市西区平野町宮前字宇留山57 自然と文化のお話

物部神社[モノノヘ]
可美真手命神社[うましまみこと]「可美眞手命」兵庫県神戸市西区押部谷町細田1323
惣社「大己貴尊、素盞嗚尊、經津主尊、武甕槌尊」神功皇后帰還時創建。兵庫県神戸市西区伊川谷町上脇字鬼神山1005

海神社3座[アマ](並名神大。月次新甞。)
海神社[わたつみ]「中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神」神功皇后帰還時創建。祭神については「豊玉彦・豊玉姫・椎根津彦」とする説がある。
御由緒
今から千数百年の昔、神功皇后が三韓征伐を終えてお還りの時、暴風雨のため、どう しても御座船を進めることができなくなりました。皇后が御みずから綿津見三神をお 祭りになり、御祈願されましたところ、たちまち風波がおさまり御無事に都へお還り になりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社殿を建て 、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。

兵庫県神戸市垂水区宮木町5-1 玄松子の記憶


弥賀多々神社[ミカタタ]
堅田神社[かただ]「猿田彦命、素盞嗚尊、大己貴命、皇大神」兵庫県神戸市西区平野町堅田491 神社研究部
堅田神社「大己貴命、素盞嗚尊」兵庫県神戸市西区平野町繁田558
堅田神社「大己貴命、豐磐窗命、櫛磐窗命」兵庫県神戸市西区平野町黒田392 神社研究部
林神社[ハヤシ]
林神社「少童海神 他九柱」往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、成務天皇八年風波のため赤石は海中に没した。よって翌九年正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。
御由緒
往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、人皇十三代成務天皇八年 風波のため赤石は海中に没した。
よって翌九年(西暦一三九年)正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当 社の創祀と伝えられる。
一条天皇寛弘二年(一〇〇五年)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の 四柱を合祀し上宮五社大明神と号す。
明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。
明治十四年(一八八一年)県社に列せらる。 太古より海を見おろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所明石海峡を行 き交う舟の安全を見守り給う明石で最も歴史ある神社である。

兵庫県明石市宮ノ上5-1

赤羽神社[アカハ]
赤羽神社[あかば]「天羽赤玉神、伊弉諾命、軻遇突知命、大日靈貴命」兵庫県神戸市西区伊川谷町潤和字宮の西1445

伊和都比賣神社[イワツヒメ]
稲爪神社[いなづめ]「大山祇大神、面足大神、惶根大神」
御由緒
推古天皇の御代、三韓我国を傾けんとして鉄人を大将として八千余人来攻したる際、 伊予国小千益躬、之を迎え討てとの勅命を受け、氏神愛媛県大三島大山祇神社に祈願 し、播州明石にて迎え討つ、此の時大山祇大神の瑞験によりて一天俄にかきくもり、 稲妻稲光の中に鉄人を平げることが出来た、依って大山祇大神の現われ給うた地に一 社を建て、稲妻大明神と崇め奉り、後世稲爪神社となった。
右神社創立の縁起の如く一願成就の神社である。

兵庫県明石市大蔵本町6-10 稲爪神社

稲爪神社境内摂社の稲爪浜恵比須神社[いなづめ][はまえびす]「事代主神」兵庫県明石市大蔵本町6-10
伊弉冊神社「伊弉册尊 配 素盞嗚尊 合 宇迦御魂大神、金山彦大神、大山祇命、磐長比賣命、木花咲耶姫命」崇神天皇六年勧請。
御由緒
当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて人皇十代崇神天皇御 宇六年九月十日勧請せられた式内社であり人皇四十九代光仁天皇御宇宝亀二年境内地 四丁四方赦免地となり、降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領五十石を寄進祭典 営繕に当ったと云われ、其後天正年間減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づ く(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
この頃の境内地域は東西に連る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。嘉吉年間赤松氏 の和阪ノ戦、天文年中町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火 に罹り社殿、旧記をことごとく焼失すると伝う。明治十二年七月二日県社に列せられ る。(旧明石郡にては最初なり)
昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失、昭和三十七年 社殿再建以後現在に至る。

兵庫県明石市岬町19-8
岩屋神社「伊弉諾尊、伊弉册尊、大日靈尊、月讀尊、蛭子尊、素盞嗚尊」成務天皇御宇淡路より遷座。
成務天皇十三年六月十五日勅命により、淡路島岩屋より御遷になり東播の古大社とし て古くより崇敬篤く、明石城主の産土神として尊ばれ社領十二石五斗を賜わる。亦当社は式内社伊和都比賣神社に比定される。
兵庫県明石市材木町8-10


賀古郡[カコ]:1座 小

日岡坐天伊佐々比古神社[ヒオカマスアマ・・]日岡神社[ひおか]「天伊佐々彦命」聖武天皇の御代。
御由緒
何時頃から祀られたものか、創立年代は不詳であるが、奈良時代、題四十五代の聖武 天皇の御代、天平二年、約一千百五十年程前のことであると伝えられている。延喜式 の制小社に列せられ、江戸時代には、武門の崇敬を受け、板倉京都所司代より黒印領 を得、これより先、慶長七年、池田輝政の命を奉じて、若原右京亮が制札を寄せ、同 六年、五石の黒印領を奉げた。江戸時代には、正一位日向大明神と称せられ、明治七 年二月、郷社に列せられ、日岡神社と改められた。

古来より、安産の神様として、近郷にその名を馳せる播州一の大社であります。郷民 は、氏神様として仰ぎ親しみ、近時、安産祈祷で社頭を賑わせております。

大野山(日岡山)の日岡神社と、居屋河原(寺家町)の日岡神社が有り、兄弟宮とい われていましたが、昭和四十四年六月十五日の夕方の火災により、本殿が全焼し、昭 和四十六年復興の際、居家河原の神社を日岡山の日岡神社に合併し、昭和四十七年、 新しく大鳥居神社を境内社として新築いたしました。居屋河原は、旧街道に面したと ころで、江戸時代、参勤交代で諸国の大名が通るのに、鳥居があったため、一旦、馬 を降りなければならなかったので、将軍が鳥居を移転させたというような話も伝えら れています。

第六十代醍醐天皇の御代は、史上、「延喜の治」と云われるように、御仁慈な政治が 行われ、延喜格式の選定がなされました。その中に、制小社として、「日岡坐天伊佐 佐比古神社」と称せられ、記載されています。従って、「式内社」であり、由緒ある 神社であります。

昭和四十六年七月に再建された新本殿は、鉄骨コンクリート、権現造りで、屋根は銅 板で葺かれ、内装は檜造りで、縁の深い日岡山の丘に美しく調和し、参拝者の心に安 らぎを与えています。
兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山1755 神社公式


餝磨郡[シカマ]:4座 並小

射楯兵主神社2座[イタテヒヤウズ]
射楯兵主神社[いたてひょうず]「射楯大神、兵主大神」射楯大神は、伊太代神・伊達神とも書かれ、素盞嗚尊の御子五十猛命のこと。兵主大神は、大国主命(大巳貴命)のこと。
御由緒
このやしろにおまつりされてる神様は、「射楯兵主神社」という社名の通り、射楯大 神と兵主大神の二柱です。

射楯大神は、伊太代神・伊達神とも書かれ、素盞嗚尊の御子五十猛命のことを指しま すが、父神とともに新羅国に渡られたことがあるので、度津神とも呼ばれています。 天降りされるとき、多くの樹種を持って来られ、これを先ず韓国に植えられました。 しかし、そこだけでは植えきれないので、更にわが国へ持ち帰り、筑紫よりはじめて 大八州国ことごとくに植えられました。有功之神という名前は、この恩徳の広大なの を仰ぐためにつけられたもので、紀伊・丹波・陸奥には、今に「いだて」の社名を持 つ名高いやしろがあります。

兵主大神は、因幡の白兎伝説で親しみ深い大国主命(大巳貴命)のことです。この神 様は、国内の悪者を平げ、水利を便にし、田畑を開き、又、医薬の法を教えなどして 国土を経営されたので、みな、その神徳に服し、国造ノ大神、天下造らし、大神の命 、或は大国主命と申上げました。別に顕国玉ノ神という名前があるのは、国土経営の 功徳をたたえた美称であり、八千矛神というのは武勇を、葦原醜男というのは剛強を 、それぞれほめた名前です。兵主大神の名は、この八千矛神の御性格を別の言葉で言 いあらわしたもので、大和・和泉・三河・近江・丹波・但馬・因幡・壱岐などには、 同名のの神がまつられています。

このように、祭神の二柱はいずれも素盞嗚尊の御系統であり、その子孫にあたる伊和 部の一族は後に述べるように当地方を開拓したという伝承を持っています。したがっ て、樹種を育成された五十猛命の社前では、毎年二月に、盛大な植木市が開かれます 。又、あらゆる面に大きな功績をのこされた大国主命の功徳に対しては、近年、神前 結婚が多く挙行されるほか、農耕・畜産・養蚕・漁業・商工業に従事する者からの報 賽が甚だ多く、疾病治療のために医薬・温泉の道を教え、種々の災禍を払うために禁 厭の法を教えられたことに対する信仰も少なくありません。

当社本殿に於いては、東に射楯大神、西に兵主大神をまつり、二間社流れ造の形式を 持ち正面屋根上には、二祭神を象徴するように、二つの千鳥破風が右と左に並んでい ます。そして、二間社本殿正面中央には、客神のための小さな空殿が設けられ、また その前には祝詞殿と幣殿が続き、全体として、一種の権現造を想像させる特殊な形式 を持っています。戦後、再興された本殿は、元和九年につくられた形式になぞらえ再 現したもので、当社祭神の祭祀には、まことにふさわしいものです。神饌を献ずる時 に、西殿を先にし、東殿を後にするのを慣例としていることも、当社のまつり方とし ては、注意しなければならぬところでしょう。
兵庫県姫路市総社本町190 玄松子の記憶

行矢射楯兵主神社[いくやいたてひょうず]「射楯大神、兵主大神」兵庫県姫路市辻井4−4−3

白国神社[シラクニ]
白國神社「神吾田津比賣」景行天皇の曽孫阿曽武命がその室高富媛難産苦悩に際し蒙った神恩に報いるために創祀した古いお社と伝わる。
御由緒
当神社は凡そ千七百年の昔、景行天皇の曽孫阿曽武命がその室高富媛難産苦悩に際し 蒙った神恩に報いるために創祀した古いお社で御祭神の木花咲耶姫命は天照大神の御 孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の皇妃にましまし古事記神代巻に見える御事歴によって安産を はじめ広く女人守護の神とたたえられ歴代朝廷ならびに武門、領主の崇敬厚く古来安 産を祈請し霊護を蒙った人々は数知れず明治七年郷社に、昭和十年県社に列せられた。

兵庫県姫路市白国字山田691 神社公式

高岳神社[タカミクラ]
高岳神社[たかおか]「應神天皇、仲哀天皇、崇道天皇、事代主命、猿田彦神、住吉大神、伊予親王、藤原夫人、宇賀魂神、市杵嶋姫神、水分神」境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり。
御由緒
当社は延喜式内の社にして国内神名帳大神二十四社の内八所明神の一なる当国第五の 宮にして旧安室郷の総氏神なり時の武将世々の国司領主の尊崇厚く延暦元年坂上田村 麿幣帛を奉り寛元年中鎌倉幕府北条経時佐貫十郎を遣して祈雨祭を行い天文元年赤松 政則本殿を修復して草上の地五町を献じ寛永十八年姫路城主松平下総守神供料を寄附 し、以降累代の城主之を安堵とす。さて、初め当社は新在家八疊岩山に祀られしを天 長三年九月九日に此蛤山に奉遷す、此所は和名抄に草上郷とある所にして後安室郷と なれり。境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり、昔 土地の人此岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得しかば名付けて蛤岩と称す。当社の宝 物に蛤の化石今に伝わり明治七年二月郷社に列し、昭和七年県社に昇格す。

兵庫県姫路市今宿字村前159


揖保郡[イヒホ]: 7座 大3小4

粒坐天照神社[・・アマテラスカミ](名神大) 
粒坐天照神社[いいぼにますあまてらす]「天照國照彦火明命」

御由緒
人皇第三十二代崇峻天皇、第三十三代推古天皇の御代、播磨国現在の龍野市に伊福部 連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸 の裏によく茂った杜があって、推古天皇二年正月一日にこの社の上に異様に輝くもの が現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く 、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土 地と人々を守り給うて既に千年を越ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまし て神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。
すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体 に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。ここで使者の童子はまた 忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴す ることを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が 中心となって神社を建立奉斎し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作と なり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒、揖保、飯穂、 伊穂などいろいろな文字をあてている)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田 彦を始め人々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っ ている。

兵庫県竜野市竜野町日山463

阿宗神社[アソ]
阿宗神社[あそう]「神功皇后、應神天皇、玉依姫命」欽明天皇の御代、宇佐八幡宮の分霊を勧請。
御由緒
伝えいふ欽明天皇の御代大伴狹手彦勅を奉じて宇佐八幡宮の分霊を当村立岡の岡ノ峯 に勧請したるに初まり文治五年内山城主鹽津義綱当社を廣山村の今の地に遷座す之よ り先延喜式の制小社に列し嘉慶二年三月國司越後守顯則田地を寄進すと伝へ天文十年 十二月二日兵燹の為め社殿及び末社焼失し同十八年地頭代官周東宗次鳥居を再興す元 亀三年十月二十五日又社殿炎上し其後久しく再興を見るに至らず天正二年九月漸く再 建し寛政五年本殿の屋根替を行ひ龍野城主生駒侯御供田三反を捧げ天保三年龍野藩主 脇坂淡路守雨請祈願をなし明治七年二月(明治四年四月とも)郷社に列し同十四年六 月縣社に昇格す。

兵庫県竜野市誉田町広山字宮ノ前492

祝田神社[ハフリタ]
祝田神社[はふりた]「罔象女命」
御由緒
創立年代は不詳だが当地きっての古社で秋田の地名も祝田の転称であるともいわれる。 初めは水神である罔象女命だけを祭っていたが、のちに京都貴船神社の祭神である高 ・神命を勧請して合祀したという。
祭神にちなんで神社背後の山を貴船山、谷を美津波女谷と名付けられている。 江戸時代には藩主建部氏が累代の氏神として、いっさいの社務を扱うほどであった。
石灯篭や絵馬は藩主ゆかりの遺品も多い。境内の摂社、末社は十社を数える。現社殿 は明治二十三年の建立。

兵庫県姫路市林田町上溝字上弓矢199 兵庫紀行

阿波遲神社[アハチ]
中臣印達神社に合祀「大鹿島命、大香山戸臣命」兵庫県竜野市揖保町中臣字宮ノ下1360

中臣印達神社[ナカトミインタチ](名神大) 
中臣印達神社[なかとみいだつ]「五十猛神」宝亀元年六月。

御由緒
当社は宝亀元年六月十五日の創立と伝へ延喜式の制名神大に列せしも中古より両部神 道の為め修験者が社務に干與するにおよびて社背の山上にありし十二所権現と唱ふる 木像を本社に合祀の結果近世に至るまで社名をも蔵王権現とのみ称するに至る明治十 年十月十日願済の上創立当時の社名即ち中臣印達神社に復称し同年同月(明治十二年 五月とも)縣社に列せらる。

兵庫県竜野市揖保町中臣字宮ノ下1360 

夜比良神社[ヤヒラ]
夜比良神社[やひら]「國作大己貴命」
御由緒
創立年月不詳なれども播磨風土記に祭神の又の御名たる葦原醜男命此地に天穂日命と 國占の論ありしより見れば早くより此地開拓の祖神として祀られしものならむ
延喜式 の制小社となり明治七年二月郷社に列せられ同二十四年拝殿を新築し大正七年二月縣 社に昇格す。

兵庫県竜野市揖保町揖保上391 兵庫紀行

家嶋神社[イヘシマ](名神大)
家島神社[いえしま]「大己貴命、少名彦命、天滿大神」
御由緒
当神社は、神倭磐彦命(即位して神武天皇)御東征の砌り、御寄港室の内の如く静か なるを以て家島と名付け、天神を祀り、皇師の武運長久と海上安全を祈願し給うとぞ 、又神功皇后三韓御門出の時天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にも よまれ、朝廷の御崇敬篤く、第四十八代称徳天皇天平宝字八年三月七日揖保郡福井庄 家島の高島に支那福州の賊船襲来屯す、時の国司藤原朝臣貞国下知して、戦勝を祈願 せしめ、これを撃退神威毫し衰へず播磨を往来する船舶は、風波の難を祈り、崇敬怠 る事なし。故に仁明天皇承和七年六月官社と為り、醍醐天皇延喜の制に式内名神大社 となる。此の大神は国土を開墾し、海運、漁業、医薬、禁厭酒造の方法を定め、温泉 を開発人畜の病に悩むを助け給ふ最も尊き神に坐す故に、大己貴神は大国様、少彦名 命は薬神様として崇めたる。

兵庫県姫路市家島町宮字天神鼻1


赤穂郡[アカホ]:3座 並小

伊和都比賣神社[イワツヒメ]
伊和都比売神社「伊和都比賣大神」祭神はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ、また播磨国一宮の伊和大神即ち大穴牟遅神の比売神とも云われ古くから御崎明神と称せられた赤穂民族の祖神である。
御由緒
当社は今を去る一千余年前平安朝の延喜式神名帳にその名を記載する古社で伊和都比 売大社はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ、また播磨国一宮の伊和大神即ち大 穴牟遅神の比売神とも云われ古くから御崎明神と称せられた赤穂民族の祖神である。
もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上にお祀りしてわったのを天和三年(一六八三 年)浅野内匠顕長矩が現在の地にお移ししたもので「播磨なる御崎の石だたみ海の底 まで行くぞ見る」と歌われているように奇岩の上に老松が舞い岩礁の地である。
かつては日本海々戦の勇将東郷平八郎元帥を始め歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚くし ばしば艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝し、現在でも船員漁師など航海安全と大漁 祈願はあとをたたず遠近からの信仰は盛んである。
なお特に珍しいのは古くから若き男女による姫神信仰が盛んで、縁結び或いは恋人を 得るにご利益のある「姫守」をうける人が多く御崎の景色と共に近時有名である。 以上

兵庫県赤穂市御崎字三崎山1 玄松子の記憶



八保神社[ヤホ]
八保神社[やお]「豐受姫命」兵庫県赤穂郡上郡町八保乙809 玄松子の記憶
鞍居神社[クラヲキ]
鞍居神社[くらい]「帶中津比古命、息長足姫命、譽田別命」桓武天皇の御代。
御由緒
人皇第五十代桓武天皇の御代皇子神野親王の御病気平癒のため宇佐八幡宮に御ありし とき金出地に紫雲の靉くこと日久しく宇佐八幡宮を勧請すべき瑞相の地として勅命に より勧請されたと伝う天下泰平、五穀豊穣工商繁栄、安産の守護神として往古瑞験い ともあらたかなり。

兵庫県赤穂郡上郡町金山地字金山910 玄松子の記憶


宍粟郡[シサハ]:7座 大1小6

伊和坐大名持御魂神社[イワニイマスオホナモチミタマ](名神大)
伊和神社[いわ]「大己貴神 配 少彦名神、下照姫神」大己貴神は国土を開発し、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終った「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。
この神社の周辺は縄文早期の遺跡を始め中期後期に及ぶ一連の縄文土器が出ている。また銅鐸が後背の山麓から出ている。
御由緒
大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて、治 病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事 業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終った 「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営 んで奉斎したのが当神社の創祀であります。
その御神徳により、古来、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、福の神、病気 平癒の神、又、交通安全の神として崇敬されております。
一説に、成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(一四四年)、或は欽明天皇二十五年甲申歳 (五六四年)の創祀とも伝えております。

兵庫県姫路市一宮町須行名407 玄松子の記憶

御形神社[ミカタ]
御形神社 「葦原志許男神 配 高皇産靈神、月夜見神、素戔嗚神、天日槍神」
御由緒
当社のご祭神は葦原志許男神と申し、又の御名を大国主神とも申し上げます。志許は 、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生をも 定められて、今日の基礎を築いて下さいました。

しかし、その途中に天日槍神が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛を三條づつ足 に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へ ます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりに なり、今に出石神社と申します。

やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形 見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。以て、当社の社名「御 形」は、形見代・御形代より起こりました。

その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。 やがて奈良朝の宝亀三年(七七二年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社 の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらう との事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。 御本殿は、三間社流造、檜皮葺、大永七(一五二七)年の建立で、昭和四十二年重要 文化財に指定され、昭和四十六、七年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の 見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。
兵庫県姫路市一宮町森添280

庭田神社[ニハタ]
庭田神社[にわた]「事代主命」
古伝(播磨風土記)に大名持大神(大国主大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地 で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係はれる諸神を招集へて酒を醸し山河の清 庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなし給えりし霊跡なるにより、社殿 を造り奉りて其の御魂を鎮祭れりと云う。又当社安永縁起に、人皇十三代成務天皇の 御代甲申二月十一日は(一三一年)神託により神祠を建て崇敬せらる。後神功皇の時 に殊に霊験有るをもって、本殿及諸殿を造営とあり、社殿の興廃は度重なるも明らか でないが、寛文十一年八月(一六六三年)本殿をはじめ修営なるも文久三年十一月( 一八六三年)に焼失せしにより村民等議りて明治四年十二月(一八七〇年)に社殿等 再建さる。昭和四十三年四月幣殿改築、昭和四十九年十月十八日御鎮座一八〇〇年祭 執行記念事業として拝殿及末社等改築落成現在に至る。
兵庫県姫路市一宮町能倉1286 玄松子の記憶

雨祈神社[アマコヒ]
雨祈神社[あめのり]「高神」兵庫県姫路市山崎町千本屋89 玄松子の記憶

與比神社[ヨヒ]
與位神社[よい]「素盞嗚命、稻田姫命」兵庫県姫路市山崎町与位129 玄松子の記憶

大倭物代主神社[オホヤマトノモノシロヌシ]
大倭物代主神社[おおやまとことしろぬし]「大名貴神、事代主神、大物主神、健御名方神」
御由緒
当社は創立年代不詳にして社名を延喜神名式の制に大倭物代主神社として小社に列格 せられ、明治七年二月郷社に列格、中古以来師衆又は諸守神社と称え祀られるを明治 六年中大倭物代主神社と社名改称の儀旧飾磨県へ届出の処明治十四年六月十日付けを もって許可せられた、創立以来の社殿は天正八年長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い 利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う・・・因って御神霊は現在の佐 用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約百年後 の天和二年八月再び現在の社殿を造営し祀られるものにして時の棟札は当社本殿に宝 物として今猶保存されている。
兵庫県宍粟市山崎町下牧谷宮ノ谷299 ミーのお散歩日記

迩志神社[ニシ]
邇志神社[にし]「伊弉諾命、伊弉册命、須佐之男命」兵庫県姫路市波賀町皆木字宮ノ谷196 玄松子の記憶


佐用郡[サヨ]:2座並小

佐用都比賣神社[サヨツヒメ]
佐用都比売神社[さよつひめ]「市杵嶋姫命 配 素盞嗚尊、大國主命」
御由緒
播磨風土記に見ゆる佐用都比売命にして大己貴命の妃にして此地方開拓の祖神なり仁 明天皇嘉祥二年十一月官社に列せられ延喜式の制小社となり永享年間、別所敦範、本 郡佐用庄、豊福庄を領し利神山に築城せしより崇敬殊に深かりき天正五年羽柴秀吉中 國征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ降って池田輝政播備淡の三國を領し姫路に 居城するや其崇敬社となり一族池田出羽守利神城を再築するに至りて同氏の崇敬を受 け慶長十五年領主良照院之を崇敬せり次いで徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り 一萬石を領し其後数代を経たる松下石見守萬治二年拝殿を再建せり之より先寛永十七 年松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め孫松平久之丞に至り元禄十四年九月上米十五 石金子百両を捧げて現今の社殿を再建し当時用ひたる葛紋附の瓦を今に存す寶永二年 、享保五年に本殿を建立す明治七年三月神饌所を新築し同年七月郷社に列し同年神饌 所を新建す同三十年本殿の屋根替を行ひ四十四年社務所を新築し大正三年幣殿を建替 へ同十三年二月縣社に昇格す同十五年幣殿拝殿を改築せり猶明治大正の間に於ける合 祀神社は明治四十年に合祀したる荒神社以下八社なり。
兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261 玄松子の記憶 風姿


天一神玉神社[アマノ・・]
天一神社[てんいち]「天之御中主大神 配 天目一箇神」
御由緒
創立年代不詳なれど延喜式神名帳に佐用郡二社佐用比売神社・天一神社とあり延喜年 代の宮席あり、正しくは天一神社と云う。
鍛冶の神、職業神、銅剣(県指定重要文化財)は明治二十年頃平松の「ゴロウ」と呼 ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来たもので圃場整備の時に数々の 土器が発見された。
兵庫県佐用郡佐用町(旧南光町)東徳久1644  玄松子の記憶


美嚢郡[ミナキ]:1座並小

御坂神社[ミサカ]
御坂社「八戸掛須御諸命 配 大物主命、葦原志許男命」兵庫県三木市志染町御坂243 御坂神社公式
美坂社「國常立神、伊弉諾神、伊弉册神」兵庫県三木市別所町東這田712 播磨
三坂社「天照皇大神、豐受大神、天兒屋根命、氣長足姫尊、應神天皇」兵庫県三木市加佐911 加佐
三坂神社「天御中主尊、中筒男命、大山命、市杵嶋姫命、齋主命、日本武尊、大己貴命」
御由緒
創立年月不詳にして傳へいふ長保五年悪疫流行の時冷泉家より再建し長享元年簀子橋 西南の地浸水の憂あるにより今の地に遷座せらる明和二年社殿を改築し天保元年炎上 せしかば嘉永三年再築す明治七年二月村社に列し大正五年幣殿、拝殿を改築せり。
兵庫県三木市細川町豊地589
御酒神社[みさか]「大日靈貴命、大己貴命、天兒屋根命」兵庫県三木市垂穂字前田581 バラ色!


神埼郡[カムサキ]:2座並小

新次神社[ニヒスキ]
新次神社[にいすき]「葛城大神」兵庫県姫路市豊富町御蔭2477 兵庫紀行

田川神社[タカハ]
田川神社[たがわ]「息長帶姫命 配 大年神」
御由緒
神功皇后棚原山にて天神地祇と祀り給いし時にこの地にて禊をされた故事により創建 された神社で、延喜式神明帳に記載のある古い社です。
兵庫県姫路市香寺町須加院字北川1440 続・神々の坐す杜


多可郡[タカ]:6座並小

荒田神社[アラタ]
荒田神社[あらた]「少彦名命、木花開耶姫命、素盞嗚命」 天平勝宝元年創建。周辺の地名には鍛冶関係が多い。
御由緒
当社は、延喜式にも掲載されている式内社で、少彦名命、木花開耶姫命、素盞嗚命の 三神が祀られている。社伝によれば、天平勝宝元年(七四九年)五月七日、少彦名命 が村内の福原字神丘に天からお降りになり、その夜、村内に大雨が降った。村人は雨 があがるのを祈ったところ願いがかない、これに感激して村内字野尻に小社を建て、 荒田神社と称したと伝えられている。あるいは、「播磨国風土記」にみえる天目一箇 命、道主日女命を祀った社が当社であるともいわれている。
また、平安時代には坂上田村麿の崇敬を受けたと伝えられているのをはじめ、播磨国 二宮として、多くの崇敬を集めてきた。
建物は、檜皮葺流造の本殿と檜皮葺入母屋造の拝殿があり、宝物として剣、古刀、宝 鏡などがある。それと、県指定の天然記念物「勅使の杉」があったが、昭和四十年の 台風二十三号の襲来によって倒伏した。
兵庫県多可郡加美町的場145 北はりま

兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうす]「大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命」 延暦三年大和穴師の兵主神を勧請。
御由緒
「兵主神社勧請に関する旧記」には、天児屋根命に始まる藤原氏の系譜がまず記され 、鎌足・不比等房前・真楯・内麿・「大和守長岡」(内麿の第六子。嘉祥二年八四九 年没)と史書の上にもなじみ深い人物の世系が示され、長岡の子の「大和守恒岡」に いたる。
それに続いて左のように記している(原漢文) 「従五位下大和掾恒岡は、大和国の南都の岡本に住す。臣知恒は恒岡の次男にして、 ここに宝亀五年正月十日始めて播磨掾を拝す。同年三月播磨国多可郡大志野の岡城に 赴く。延暦元年正月、城の南に森四町余を開く。同三年甲子六月十四日兵主五社大明 神を勧請せり延暦三年十月岡本修理大夫藤原知恒誌す」
岡本修理太夫の子孫とみられる末流は本町、氷上郡氷上町、氷上郡山南町及柏原町に 住居せられているようです。
当社は延喜式神名帳に登録された式内社であります。
兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2

古奈爲神社[コナヰ]
古奈爲神社[こなえ]「木花開耶姫命、稚産靈神」
御由緒
創立年月日は不詳なれど、延喜式神名帳搭載の神社にして御祭神の産室の御神威を崇 敬して安産の神と尊信されている。丹波の国の篠山川と佐治川が合流して加古川に流 入する地が鎮座地であり丹波国と播磨国の分岐点である。
兵庫県西脇市黒田庄町小苗字前田82

加都良乃神社[カツラノ]
加都良神社[かつら]「加都良命、高皇産靈命、天忍穗耳命」兵庫県多可郡中町間子631 兵庫紀行

大津乃命神社[オホツノミコト]
大津神社「大津乃命、品陀別命、氣長足姫命」
御由緒
延喜式帖神祇ノ十、神名ノ下、多可郡六座の内並小大津乃命神社とあり国内神名帳に は大津明神といい、萬治三庚子年再建し慶安元年徳川家光将軍より朱印領十二石を寄 せられ文化五戌辰二月社殿を修復し爾後多少の修理を加えたるも其形状に於ては変遷 以て今日に至る播磨風土記に附近なるこの比也山のほとりを應神天皇巡幸せらると伝 えたれば其由縁により早くより創立せられたるものなるべし。
兵庫県西脇市島239 播州祭り見聞記

天目一神社[アメマ・]
天目一神社[あめのまひとつ]「天目一箇命」JR鍛冶屋線沿いに鎮座する鍛冶にゆかりの神社の一つである。神社の北に城山、西はチバ山、南は神成山を望む。いずれも頂上には環状列石状の巨石群があり古代の磐境と思われる。
兵庫県西脇市大木町新田648 新・しゅらくの独り言


賀茂郡[カモ]:8座並小

崇健神社[タカタケ]
高峯神社[たかみね]「國常立尊、伊弉那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、月夜見神、稚産靈神」兵庫県加西市畑町字宮ノ下
礒崎神社[いそざき]「市杵嶋姫命、湍津姫命、田心姫命」兵庫県加西市下道山町字崇礒559-1 兵庫紀行

石部神社[イソヘ]
石部神社[いそべ]「市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命」
御由緒
当神社の創立は、往昔人皇四十四代元正天皇の御宇養老三年芸州(広島県)宮島より 勧請したもので、その由来は養老元年二月元正天皇の皇女勅を奉じて宮島の厳島神社 へ参詣され、三十七日二十一夜の祈祷を終えられ海路ご帰還の砌り風波強くご遭難甚 しく播州室津に上陸せられ、この地に至りご静養せられしも遂に崩御遊ばされたるを 以って、里人等は三津山の山頂に御葬り奉り同山腹の地に神社を創建し、皇女崩御の 際「身が守護神は伊知岐島姫命なり、これを迎えて此の地の産土神と崇め祀れ」とご 遺言遊ばされたるにより、そのご遺言を体し宮島のご分霊を勧請し産土神として奉斎 し、そのご神徳を仰ぎ奉れるものなりと伝えられ、神社創建の往時には神式に畏くも 勅使のご参向ありたる尊厳なる由緒深き神社なりとせられ、醍醐天皇の延喜年間に「 式内社」として神名帳にも所載せられ慶安二年八月徳川将軍家光社領朱印五石を寄進 し、境内山林竹木の諸役を免除され爾来将軍家の崇敬厚く維新まで続いたが明治元年 五月還納した。又鎮座地の在田郷は播州赤穂浅野家の領地であったため、浅野家の崇 敬亦格別であった趣で正保年間浅野長直公巡歴の際、本神社及び神護寺の為に特に添 挙状を書かれ将軍家へ差し出される等の事あり、現在拝殿正面に揚出されている黒馬 の額は浅野家の献納と伝えられている。
明治七年二月郷社に加列せられ、同四十五年三月神饌幤帛料供進神社に指定さる。昭 和二十一年十月兵庫県知事より「県社に当然列格せらるべきものたりしことを認む」 との指令を受ける。
兵庫県加西市上野町71 山猿の思うこと

坂合神社[サカアヒ]
坂合神社 兵庫県加西市北条町北条1315 未確認。北条1318に住吉神社「住吉三神」、北条1254に礒部神社「四王子命、五王子命」が鎮座。
佐保神社「天兒屋根命、比売大御神、大名牟知命」養老六年。兵庫県加東市社町東実34
佐保神社「天兒屋根命、天照大神、大己貴命」
御由緒
佐保神社は、最初、名前を坂合神社と呼んでいました。ところがこの呼び名が、時代 と共に変わり、佐加穂となり、更に現在の佐保神社となりました。
御祭神は中央の御殿に天児屋根命、東側の御殿に天照大神、西側の御殿に大己貴命( 大国主命)の三神で、別名三社大明神と呼ばれていたのは、このためでまた佐保大明 神とも称されるようになりました。

次に当神社の歴史について少し説明したいと思います。
先ず、いつ頃から現在の場所に鎮座されていたかと申しますと、記録によれば、奈良 時代の初め(元正天皇の治世)今から約百二十年前の養老六年(西暦七二二年)三月 に神託(神の御告げ)を受けた阿倍野三郎太夫(社町野村小部野の人と伝えている) という翁が、加西の鎌倉峰よりお遷し申し上げたとのことです。

それ以来、当神社は、社町・滝野町・小野市の一部にまたがる広い範囲にわたり、氏 神様として人々の深い信仰を集めてきました。とりわけ、鎌倉時代には尼将軍として 有名な北条政子が当神社を崇敬し、本殿の再建や四方に八基の鳥居を建てさせたりし ている事実から、当時では既にかなり著名な神社であったことがわかります。江戸時 代に入り、数回本殿の建て替えが行なわれ、現在の建物は、延享四年(西暦一七四七 年)八月に再建されたものです。
兵庫県加東市社町社777 〜神社仏閣巡りと旅の風景〜

住吉神社[スミヨシ]
住吉神社「上筒之男命、中筒男命、底筒男命、息長足姫命」兵庫県加東市社町上鴨川571 神戸観光  上鴨川住吉神社神事舞
住吉神社「?」兵庫県加東市社町下久米字宮山67 兵庫紀行
住吉神社「表筒男命、中筒男命、底筒男命」兵庫県小野市垂井町字宮ノ上908 兵庫紀行

菅田神社[スカタ]
菅田神社[すがた]「天目一箇神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、氣長足姫命、大山神」兵庫県小野市菅田町字源太夫垣内568 我が心の旅路

木梨神社[コナシ]
木梨神社[こなし]「八十枉津日神」兵庫県加東市社町藤田字北山473 兵庫紀行

垣田神社[カキタ]
垣田神社「表筒男神、中筒男命、底津男命 配 神功皇后」
往昔、現在の小野市小田町字神ノ木に鎮座、この神ノ木は四方を眺望する高台で高地性遺跡的性格をもそなえているため、神社の創建は弥生時代初期か、あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています。
御由緒
当社は、往昔、現在の小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の 山の中腹の高台地に祭られていました。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社の あるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわしています 。もちろん、この地方、つまり東条川流域に人々が住みついたのも、この神ノ木の垣 田の神を齋きまつる氏子の人々が最初で、当然に、この東条の町や村はここから別れ ていった氏子らが開拓したものなのです。

そのことを裏付けるかのように、氏子区域内から弥生時代遺跡が三箇所発掘されてい ます。したがって神ノ木は東条地方の発祥の地といってもよいでしょう。

然も神ノ木の山麓は古古墳群が続き、南の小野市中谷町の愛宕山古墳、東の東条町松 沢の横山古墳、西の小野市船木町芝打野一帯から北山を経て中番町東野に展開する船 木古墳群の、ちょうど要の位置にあります。その上、この神ノ木は四方を眺望する高 台で高地性遺跡的性格をもそなえているため、神社の創建は弥生時代初期か、あるい は縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています。また、垣 田神社の祭祀圏内に住吉神と密接な関係をもつ船木族の住みついた船木村や金属技術 集団の菅田族の氏神である式内菅田神社をもつことも歴史の古さを物語っています。 そして、現在の小野市小田町字住社に奉遷されたのが平城天皇の大同二年九月で、お そらく、東条川の水流の固定化により、小田という地名がしめすように、湿地帯が沢 山の水田にかわり農業の発展を促したため、氏子の人々の住居も高台の神ノ木から沢 や谷の附近に移転したからではないでしょうか。当社の神宮寺だといわれている西の 小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は平安時代 末期の頃でしょう。

その平安の初期の醍醐天皇の昌泰二年に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がお こなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれています。つまり延喜元年に 神功皇后を配祀したため、垣田住吉大神ととなえられていたのを勅号の垣田大神と称 するようになったのです。播磨國の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向 の官社に加列されたのもこの頃です。

また当地方(加東市、加西郡、美嚢郡と多紀郡、多可郡、加古郡、印南郡、神崎郡、 明石郡の一部)が、大阪の住吉大社の神領に組み込まれた際、東条地方の管理を依託 されたためでしょうか、一時期、東条別宮と称えていたといわれています。今でも別 宮さんという呼び名が残っています。字の住社もこの住吉神を祀り、住吉大社との深 いかかわりをしめすものでしょう。

戦国時代の天正七年、三木城合戦の際、その支城の小田城の兵乱により社殿ならびに 古文書、宝物を悉く焼失、このため羽柴秀吉は託状文を書き神田二段余を奉納してい ます。江戸時代は小田の地が姫路藩の領地になったため城主の酒井家は、姫路藩内の 名社として定紋付高張提灯一双を奉献し、加古川の渡場に垣田神社の社名を刻した標 柱を建て、藩主交替のたびに名代を差遣して代拝させました。
明治六年十一月郷社に列し、大正十二年五月県社に昇格しました。
当社は昔から交通安全の神、清祓の神、安産の神として氏子はもとより遠近の信者の 尊崇をうけていますが、最近では、神功皇后の御神徳にあやかり必勝の神として受験 生やスポーツマンの信仰をもあつめています。
なお、当社の祭祀を司どる社家の垣田家は神社の草創の古代から今日まで、その運命 を共にし、当地方はもとより広く加古川流域で最古の家系を伝えています。
兵庫県小野市小田町字住社1649 兵庫紀行

乎疑原神社[ヲキハラ]
乎疑原神社[おぎはら]「大國主命、少彦名命、菅原道眞」兵庫県加西市繁昌町529 兵庫紀行


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延喜式神名帳目次

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