英賀神社
姫路市飾磨区英賀町2−70its-mo


鳥居


交通

JR山陽線英賀保下車 南西800m



祭神

英賀彦神、英賀姫神 配 誉田別神、菅原道真

摂社
恵美須社「事代主神」



由緒

 式外であるが、古社。『三代実録』にその名が見える。すなわち「元慶五年五月五日、播磨国正六位上英賀彦神、英賀姫神並授、従五位下」とある。 何故この古社が延喜式神名帳記載社でないのかが不思議である。寺院化していたのかも知れない。

 兵庫県の宝と言える『播磨国風土記』餝磨郡・英賀の里(しかま あが)の条に「伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。」と記されているのがこの神々である。

『播磨国風土記』には伊和大神の御子神の坐す所がいくつか記載されている。要するに支配した土地であろう。

 揖保郡・林田の里・伊勢野 姫路市林田町
山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。
『伊勢国風土記』に「伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。」 と出てくる神であり、「この神は昔、石を持って城を造りここに住んだ。阿部志彦神が来襲したが勝てずに還り去った。」伊勢から信濃へ追われた風の神である。式内社では伊賀国阿拝郡の穴石神社[あないし]「出雲建子命 またの名を伊勢津彦」、信濃國水内郡の風間神社[かざま]「伊勢津彦命」の祭神とされる。

揖保郡・出水の里(いづみ)・美奈志川(みなし)(龍野市揖西町)
伊和大神のみ子石龍比古命と妻の妹石龍比売命と二人の神が、水争いをしている。祝田神社「石龍比古命、石龍比売命」

讃容の郡・雲濃の里(うぬ)(佐用郡南光町)
(伊和)大神のみ子玉足日子。玉足比売のお生みになった子、大石命。

穴禾の郡・石作の里・阿和賀山(あわかやま)(但馬国朝来郡栗賀山)
伊和大神の妹の阿和加比売命がこの山においでになる。粟鹿神社 但馬一ノ宮
天日槍が但馬国に落ち着いたのであるが、山東町辺りには天日槍の支配が及ばなかったということだろうか。

神前の郡(かむさき)(神崎郡福崎町) 
伊和大神のみ子の建石敷命は山使の村の神前においでになる。

託賀の郡(たか)・黒田の里(くろだ)(多可郡黒田庄町)
宗形の大神奥津島比売命が伊和大神のみ子をお孕みになり、この山まで来て仰せられた。古奈為神社「木花開耶姫命、稚産靈神」
穴禾郡雲箇里の条であるが、大神の妻の許之波奈佐久夜比売は容姿端麗と出てくる。これも美人を表す一般的表現の神の名であろう。


 社伝による神社創建は713年としているが、これは和銅六年に元明天皇から『風土記』撰進の命令が出た年であり、風土記記載の神として、この年をあてたに過ぎないだろう。


拝殿内部



お姿 

 平地に南面して鎮座。木々が多い。本殿横に神木がある。 これは竹柏といい、マキ科に属し、葉脈が平行で竹の葉に似ている木。現在の木は二世であるが、かっては樹齢千年以上の巨木であったようだが昭和三十年代に枯死している。この辺りは工業地帯であり、大気汚染がひどかったのだろう。
 拝殿は大きく、絵馬が相当数掲げられている。算額もあるそうだが、良く見えない。
 英賀城の土塀が残っている。故司馬遼太郎氏は氏の先祖が英賀城に籠城していたそうで、『播磨灘物語』は、その伝承が刺激になったと言う。


竹柏



お祭り 

  夏季大祭   7月25日  竹柏祭
  例祭  10月17日、18日  秋祭


本殿





平成祭礼データから

そもそも当英賀神社は、国史見在社でありまして、その由緒の古く正しいことにおい ては播磨国屈指の大社であります。
即ち御祭神英賀彦命・英賀姫命は平安時代の朝廷の記録、三代実録に「陽成天皇元慶 五年五月五日播磨国正六位上、英賀彦命・英賀姫命に並に従五位下を授く」とあり、 古くより皇室の尊崇を受けられ、既に神階を賜わり、ここに至って御神威愈々盛んに して更に昇叙せられ、位田奉授のことを確証しています。
又、平安時代の国府の公簿、国内神名帳には、英賀彦明神・英賀姫明神を併せて更に 英賀国主明神の尊称を奉り、国司の奉齋厳修を極めたことを記しています。
この二神御鎮座の起源は、奈良時代の地誌、播磨風土器に「英賀里(土 中の上)右 英賀と称えるは、伊和大神の子、阿賀比古・阿賀比売二柱、此処に在しき、故れ神の 名によりて里の名と為す」とあり、その創建は実に遠く神代にあります。彦姫二神は 御祖神大国主神(伊和大神)の播磨御経営に当り、英賀の地を根拠として、播磨灘沿 岸地域を開拓創始し、英賀国を修り固め成して庶民安堵の楽土を建設せられたのであ りますから、かくも古くより、朝廷の尊崇極めて篤く、国司の崇敬すこぶる深く、衆 岸地域を開拓創始し、英賀国を修り固め成して庶民安堵の楽土を建設せられたのであ りますから、かくも古くより、朝廷の尊崇極めて篤く、国司の崇敬すこぶる深く、衆 庶も亦、英賀国の総産土大神として尊信の誠を捧げたのであります。
降って室町時代の初期、三木右馬頭越智通近の英賀城主となり、大いに城郭を改修し て盛んに経倫を行なう当り、先ずその崇信する所の天満宮・八幡宮・春日宮を当社に 奉遷鎮祭して氏神と崇め奉り、敬神以て民生の安定・郷土の進展を図り、治績大いに 挙ったのであります。かくて英賀岩繋城主は代々播磨臨海地域三十六万俵を領し、播 陽の重鎮として頗る隆盛を極めましたが、歴代城主は恒に祖志を継承して、敬神の誠 を捧げ、神田を供し、奉幣を厚くし、祭祀盛儀を尽し、社殿亦輪奐の美を極めました 。然るに天正八年二月、羽紫秀吉、中国平定の途その襲撃するところなり英賀城は遂 に落城し、城主始め城下の士民は各地に離散して遠隔の氏子村落も亦分離するに至り ましたが、斯る由緒尊い神社でありますから、明治維新、社格制定に当り、いち早く 県社に列せられ、播磨の大社として面目を保ち、その後、現在の氏子並に崇敬者の至 誠と愛郷の団結により、古来の歴史と伝統を護持して今日に至ったのであります。
以上


社頭掲示

当社は国史見在社にして、播磨国風土記によれば、713年に伊和大神の御子英賀彦神.英賀姫神は、祖神の命により当地を本拠として播磨灘沿岸地域を開拓創始し、庶民安堵の国土を修理固め成された総産土大神であります。ゆえに古くより英賀国主大神として祀り、元慶5年(881年)神位従5位下に昇叙され、国司武将を始め衆庶は、創業開発の神、縁結びの神と仰ぎ尊信の誠を捧げました。三木通近が英賀城主となり、領内発展の興隆にあたり、嘉吉3年(1443年)天満天神.八幡天神.春日天神を勧請鎮祭して、領内の総氏神とあがめ、大いに治績を挙げ播陽の重鎮となった。以来歴代の城主は、祭祝盛儀を尽くし、社殿は荘厳華麗を極めました。天正8年2月(1580年)、羽柴秀吉は英賀城攻略に際し、特に当社に除火の令を出して敬神の誠を致した。かかる由緒ある神社のため、明治4年社格制定に当たり郷社に列せられ、同13年県社に昇格した。その後、氏子並びに崇敬者は古来の歴史と伝統を護持して現在に至りました。(神社前看板:姫路市教育委員会)

兵庫県神社誌(昭和十三年)
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