播磨国風土記の旅

−家島の神々 西島のコウナイの石−


西島 コウナイの石its-mo

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交通

飾磨港→船30分→家島の宮→5分→割烹旅館志みず→船20分→西島

  神奈備の今回の西島への渡航は、姫路市の土井眼科の院長さんのお誘いにより、割烹旅館志みずを拠点としてそこの船で西島へ渡りました。西島への渡航につきましては、志みずさんにおたずね下さい。商いかも。


 西島への海の中から、島の石の削り残った山頂にポコンと飛び出た石の姿が見える。採石場の港からは無舗装の作業道を登る。

コウナイの石


西島を去る船上から 左の丘上の粒 地図では「頂の岩」と言う。

疣の様に見えたので、揖保郡の名?・・・?。乳首?



コウナイの石の50m程の手前 「おぬしら、なにもんじゃ」


 コウナイの石については、直接にこれを語る伝承が伝わっていない。しかし西島には、マルトバ積墳群があり、7世紀頃の石積墳丘墓で、首のない人骨、須恵器、不思議なことに縄文土器などが発掘されているとのこと。(『国生みの島』高島一彰著)

 『播磨国風土記』の揖保郡の條から
 
伊刀島
 もろもろの島を総称した名。
 品太天皇が狩りをされた際、牡鹿が海に入り、伊刀島に渡った。翼人は「鹿はとうとうあの島に到り着いてしまった」といった。だから伊刀島と言う。
 伊刀島をもろもろの島の総称としている所から現在の家島諸島と見ていいのだろう。また、島の石を切り売りして「夕鶴の住む島」と形容された男島島(タンガ)がある。その名は牡鹿が泳ぎ渡った島にふさわしい名。現状の姿は到底鶴とは言えない膚が剥き出しの醜い島。

 『播磨国風土記』の揖保郡浦上の里の條から
 
家島
 人々が家を作って住んでいる。だから家島とよぶ。竹、黒葛などが生えている。

 神島 ここに石神の話がある。
 伊刀島の東。この島の西に石神がおいでになる。形は仏像に似ている。この神の顔に五色の玉がある、また胸には流れる涙があり、これも五色。この石神の泣くわけは、品太天皇のみ世に、新羅の客人が来朝した時、この神が非常に立派なのを見て、世の常ならぬ珍しい宝玉と思い、その顔面を切りさいてその一つの眼玉をえぐりとった。それによってこの神はないている。さて、神は大いに怒り、暴風雨をおこしてその客船を破壊した。船は高島の浜の南に漂流して沈没し、全員ことごとく死んだ。その浜を韓浜という。

 韓荷の島
 韓人の破船の漂流物が漂着した。だから韓荷の島とよぶ。

 高島
 その高さが付近のどの島よりすぐれている。だから高島という。

 コウナイの石が神島の石神であれば、話はそれでいいのだが、西島には今は削られてなくなっているが、家島諸島随一の高い山があったと言う。素直にはコウナイの石のある西島が高島の事のようだ。
 また伊刀島の東とある神島は、伊刀島とは家島諸島か男鹿島のこととすれば、上島が東数kmにあり、その位置は風土記にあい、かつ『国生みの島』(高島一彰著)によれば、風土記通りの石神が鎮座しているとのこと。


神戸新聞の「海のロマン:上島」の記事中の写真

土井医師より。サイトへのアップは神奈備の責任。

   所が、『姫路市医師会報』に投稿された土井治道医師(石ではない)によれば、「上島には、神島の片目伝説の石神は大正時代に出現した。」と2000.4.1付けの探訪記2に記載されている。また上島は大本教の聖地となったこと、その大本教が「ありがたい神が出現した」と表現したことと符合している。この記事を書いた小河正一記者は明治や大正に現れたのではないと明言している。よくわからない石。

土井医師の「コウナイの石」姫路市医師会報「コウナイの石」探訪記
探訪記1
探訪記2
探訪記3
探訪記4
探訪記5

 風土記に記載されているのか、いないのか、よくわからないコウナイの石なのだ。


 伊刀島と言う名であるが、魏志倭人伝に登場する伊都国は、この国の古代史上に現れた初期の”都”であり、大陸・半島からの文明の入り口であった。天日槍の末裔が県主を行っていたことが『筑前国風土記』(逸文)に記載されており、伊都の人々の移動は天日槍の移動としてとらえられていたのであり、『播磨国風土記』の揖保の里の説話の「海水を掻き回して宿った」のは、この伊刀島ではなかろうか。葦原志挙乎命がびっくりしたたけだけしさとはコウナイの石を剣のごとく回したと聞いたからである。


すこし穏やかな表情の真南からのコウナイの石 手前に三角点。



 海抜181m。高さ8m、胴回り25m。これらの石群の周辺からは縄文土器や貝殻が発見されているとか。針磁石は乱れる。風土記や記紀編纂時に、その伝承がとぎれていた祭祀場なのかも知れない。もしくは、吉備の高島とはこの島のことだ、いやオノゴロ島だ、天の沼矛だ、客神の天日槍が海水を掻き回して宿った剣だ、など仮説と検証に人々を向かわせる謎の巨石。


南東からコウナイの石を見上げる。

 ここの石は青石とよばれ、粉砕してコンクリート用として大阪などに売却されている。家島の自治会である区会の持ち分として区会に年間拾数億円の収入となると言う。区民一人あたり70万円を分配してニュースとなったようだ。さらに、家島の資本は運搬船に投資し、二重三重に儲かっているようだ。 


コウナイの石の場所から西の院下島 北側の小ヤケ島(こうない嶋)
 


 この写真からもよくわかる通り、削られて削られての島。コウナイの石の西側は自然な急勾配になっているが、その先は削られた山膚が剥き出しになっている。それは北側も同様だが、北側の山膚には草が若干生えている。しっかりと木々に包まれた状態に戻ることはもはや永久にないのかも知れない。この石の周辺を削らずに保存へと、家島の真浦区会が決めたそうだが、時既に遅い。多分、自然崩落を見越して、保存を決めたのではないだろうか。銭の魔力に聖地を売った区民との批判をかわすためで、本音は自然に崩落してもらい、”銭”になればと思っているのだろう。 その証拠は、年々大金が入ってくるのに保存の為の措置は何もしていないことに出ている。速くしないと”神罰”がくだり、魔浦になる。


西からのコウナイの石。風土記の神島に比定の上島の形に似ている。





 家島の神々
宮港 its-mo


家島神社
神奈備の家島神社を参照下さい


海神社
兵庫県飾磨郡家島町宮


海神社


祭神 綿津見神
由緒 宮浦神社の摂社になっている。
 宮の港から家島神社の方への道筋に崖側に鎮座。地蔵尊などの祠も多い。すべからく新しい。


宮浦神社
兵庫県飾磨郡家島町宮字中之町970


鳥居


祭神 猿田彦神、天照皇大神、武甕槌神、底筒男神
由緒   境内に白髭霊嗣の刻印の石碑が立っている。
 社伝によfれば、元慶七年(883)比叡山の西塔実相院の覚円僧都は衆会学席の相論により、武家に背く事になって播州家島に追放されたと言う。僧都は近江の郡主である高島内蔵之助秀成の三男であり、其の弟四郎秀景は家兄を愁い、相共に来往し、永く子孫を此の島に残した。
 覚円同僧数十人別れを惜み後を追いて来り、渡海し、今の坊勢に住居をかまえる。山従集り住し故にこの島の名となった。
 僧都はある夜に不思議の霊夢を見た。白髪大明神を南の湾江を故郷の琵琶湖になぞらえて、社を造建し、勧請したので宮浦と号すと言う。
 誠に当国大小神社一七四社の内にあり、当宮は大神二四の其の一。


宮浦神社の神木と本殿



祭日 11月 2日、3日 例祭


水天宮
兵庫県飾磨郡家島町真浦


どんがめっさん

由緒 その昔、大海亀が主人の帰りを待ち続け、長い歳月のうちに石になってしまったと伝えられています。

 『播磨鑑』には、神武天皇の水先案内の椎根津彦を思わせる翁を亀が待っていたような記載があるようです。


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