男明神、女明神 its-mo阿宗神社 交通 女明神の磐座がよく見える阿宗神社から林田川を渡り、福田の集落に入る。少し北側に子形部神社が鎮座している。 兵庫県龍野市誉田町福田79 its-mo 子形部神社の社殿
由緒 推古天皇の御代この福田地の丘に斑鳩寺の奥の院あり代々三百六十町歩に及ぶ土地を管理していた人々が寺院と共にお舎利さんとして奥の院の側の祠を神社として伊弉諾命・伊弉册命を勧請して祭った。その後天文十年兵火で失いし長くたえていた祭祀を村人たちの力で慶長年間に現地に社をたて再興し、小形部神社と改め、住吉を追懐して歳時をとおして祭祀するに至り里人の祈願所となしている。
兵庫県竜野市福田 鳥居、拝殿
社殿と間から見える女明神
男明神
女明神、上から。 女明神、横から。 『播磨国風土記』に佐比岡が出てくる。佐用岡のこととされる。福田の南。物語は「佐比と名づけるわけは、出雲の大神が神尾山におられた。この神は、出雲の国の人でここを通りすぎるものがあると十人のうち五人をとり殺し、五人のうち三人を殺した。そこで出雲の人たちは佐比(鋤)を作ってこの岡に祀った。だが神はこれをこころよく受納されなかった。そうなったわけは比古神(男神)が先に来たが、比売神(女神)が後になって来たので、この男神はこころよく鎮まることができずに立ち去ってしまった。そんな訳で女神はこれを怨み怒っているのである。そういうことがあって後、河内の国の茨田の郡の枚方の里の漢人がやって来てこの山の付近に住んだで、これをうやまい祭った。そこでどうやらわずかに御心をやわらげ静めることができた。この神がおられるので神尾山という。また佐比を作って祭った処をすなわち佐比の岡とよぶ。
笹山の西側の里は誉田町内山と云うがこれを麻打山からの転訛とすれば広山の里と云うことになる。もとの名を握(つか)の村と云うようで、古墳などが多い。『播磨国風土記』には「石比売命が泉の里の波多為の杜にお立ちになって矢を射られると、この場所まで地の中に落ち、一握りだけ出ていた。」との話がでているが、この石比売命との関係を『古代播磨の地名は語る』で示唆している。方手落ちに思うが・・。
鬼の足跡とリュック 男明神 上から突起を 男明神から山を下る。西播磨リハビリC.から南の福田のバス停を目指す。 兵庫県竜野市福田 神社と隣の土盛り
兵庫県竜野市福田 神社
兵庫県竜野市福田 its-mo 神社
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