駒ケ嶽神社頂上宮
山梨県北杜市白州町横手 ゼンリン地図

仏像

交通案内
中央本線長坂駅よりバス 横手


祭神

大己貴命

頂上付近の石碑



由緒 横手前宮境内の説明板
 神の代に建御名方命この地に至りし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、「この山はいと高く清々しき地なり。かれここにあが御親の神を祭るべし」と云うに始まる。雄略天皇の御代年六月に改めて雲州宇迦山(出雲大社)より遷祀したと伝えられている。
 祭神は国家鎮護、五穀守護の神大己貴命(大国主命)にして造化の神天之御中主神、高皇産霊神、少彦名命、素盞鳴命、保食之神等の諸神を合祀している。駒ケ嶽は甲信に誇る高山でであり、懸崖数千丈の絶壁にして、上古より神仙の集る霊山として知られ白鳳二年役の行者小角が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢とも伝えられている。往古新羅三郎義光はこの神に祈願して子を授かり、その子孫が武運に勝れ繁栄するよう、山頂の巨石に延久 主義光の五字がかすかに残っていたと社伝に伝えられている。釜無川等四川が駒ケ嶽に源を発し、その下流一体には牧場があり馬の産地であった当山の源流には神馬の精が宿っているといわれ、この水により育った馬の中から多くの名馬がうまれたと云われる。厩戸皇子の御愛馬はこの渓流によった神馬と云われ、郡名も本山により巨摩郡と称すと云う。また広大な山中には珠玉、薬草を産し、沢山の人がその恩恵に浴している。牧場からの貢馬は神前にて安全を祈願し、山中から採集された薬と共に朝廷に献上され、大同年間畏こくも天皇の病を癒し奉ったと伝えられている。文化十三年六月、信濃国の延命行者(小尾権三郎)は入山禁止の駒ケ嶽に特に許されて入山し、幾多の苦難を克服し、嶮岨なこの山に始めて登山の途を開かれた。世に駒ケ嶽開山として尊敬せられ神徳顕著により崇敬者の登山する者が多い。
 以来駒ケ岳教(神仏習合)として発展し広く県内外に多くの構社が結成され境内および御嶽には神々の石碑が奉納され文政六年元三大師を勧請の砌り東叡山の宮様より慈恵大師尊影を御下賜になり、同年神柢管領卜部朝臣良長郷より巨摩嶽神社の軸物を賜った。 また、神柢管領家より駒ケ嶽神社の額字を賜わり、刻して前宮の鳥居に掲げている。昭和五十五年、代太神楽が白州町無形文化財に指定された。
 参考 白州みちくさ案内

頂上の祠

 うつくしい三角錐の山。甲斐駒ヶ嶽の表参道は最もつらい登り道だと、『日本百名山』の深田久弥さんが書いている。


お祭り
例祭  4月 20日 横手のお神楽
開山  7月 1日  閉山  10月  1日

『平成祭礼データ』

 神の代に建御名方命この地に至たりし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、「この山はいと高く清々しき地なり、かれここにあが御親の神を祀るべし。」というに始まる。雄略天皇の御代2年6月に改めて雲州宇迦山(出雲大社)より、遷祀したと伝えられている。 古代は巨麻嶽神社と称して、医薬の神、牧場の神としても信仰され、駒形明神、巨麻の神社とも称され、又駒形神社、駒形権現とも云われていた。白鳳2年役の行者「小角」が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢と伝えられている。往古新羅三郎義光は、この神に祈願して子を授かり、その子孫が武運に勝れ繁栄するよう、山頂の巨石に「延久主義光」の五文字が微かに残っていたと伝えられている。
 この地一帯には良い牧場があり名馬を産畜し、厩戸皇子の愛馬は、この渓流に育 った神馬と云われている。
 広大な山中には珠玉、薬草を産し、牧場からの貢馬を祈願し、薬草と共に朝廷に献上され、大同年間、天皇の病を治し奉ったと伝えられている。
 明治23年神楽殿を新築し、祭典も4月20日に改め現在に至っている。
以上

『日本百名山』深田久弥から 甲斐駒ヶ岳 (二九六六米)

 東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルプスが、今やすぐ車窓の外に迫ってくる。
 甲斐駒ヶ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。釜無川を距てて仰ぐその山は、河床から一気に二千数百米も突きあげているのである。
 日本アルプスで一番代表的なビラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ケ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正な三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。
 日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。私が最初にこの峰に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六万石と称する大きな岩の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に真白な砂礫で眼映ゆいくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペットの上に、所々真紅に紅葉したクマコクモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりその白砂が綺麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂礫で美しいのは、この甲斐駒とお隣の鳳凰山だけである。
 頂上に花崗岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察しられる。祭神は大己貴命で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ヶ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口にはそれぞれ駒ヶ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。
 日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ヶ岳の表参道かもしれない。何しろ六百米くらいの山麓から、三千米に近い頂上まで、殆んど登ずくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで二千四百米の高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。木曽駒ヶ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持ってい るが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒はど一途に項上を目がけてはいない。
 甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あえるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。
 わが国には駒ヶ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は申斐駒であろう。西にある木曽駒ヶ岳と区別するために、以前は東駒ヶ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、駒域村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それに因んだものと思われる。
 甲斐駒ヶ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落さないだろう。昔から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげておこう。「駒ヶ岳ヲ望ム」 と題し、僧海量の作である。


   甲峡二連綿トシテ丘壑(キュウガク)重ナル
   雲間独り秀ズ 鉄驪(テツリ)ノ峰
   五月雪消エテ絶頂ヲ窺へバ
   青天二削出ス碧芙蓉(ヘキフヨウ)

 言うまでもなく鉄驪ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から泳じたのだが、信州側からすれば、碧芙蓉でなく白芙蓉ということになろうか。
 


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2009.9 淳子登拝