日向國:4座 並小
◎恋の願いが叶い良縁に恵まれる 特殊神事〃更衣祭〃
◎伊弉諾尊とオノゴロ島
◎高千穂の峰と神の都
◎創建
◎神石と安産の神産婆祖母様
◎十握剣と橘の木
◎梵鐘
◎扁額
◎東霧島神社のおみこし
兒湯郡[コユ]:2座小2
都農神社[ツノ]
都農神社[つの]「大己貴命」
都農神社は古来日向国一之と称え、御祭神は御神徳の高い大己貴命(又の御名大国主
命)を奉斎する古社であります。当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の
宮を御進発になり、途中此の地において国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為
、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十
四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代
清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳
には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向
国一之宮であります。
当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥
居は十五〜六丁、第二鳥居は六〜七丁の間に亘って建立せられた古跡が今尚認められ
、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文
書等烏有に帰し、以来社殿境域次第に縮小の止むなきに至りました。
明治天皇御践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの
大典を挙げ給う。茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国幣社
に列せられたのであります。昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当り、記
念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状
態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。
御祭神大己貴命は国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は
申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神更には医療の神、縁結びの神
、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります。
元は土地の神を祀った。神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えるが付会であろう。 宮崎県児湯郡都濃町大字北13294 日向国 一之宮 都農神社 玄松子
都萬神社[ツマ]
都万神社[つま]「木花開耶姫命、一説には柧津比売命」
都萬神社案内記
◎天孫降臨と都萬神社 恋にやさしい縁結びの神
当都萬神社は大山祗神の娘木花開耶姫命をお祀りする延喜式内のお宮で妻萬宮とも申
します。天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人
により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を送られた処と伝えら
れ、サクヤ姫は結婚一夜にしてご懐妊されたので、天孫ニニギの尊ははたして自分の
子供であろうか?と疑われたのを恥給い、木花開耶姫命は身を以て貞節を示さんもの
と〃無戸室〃産殿に火を放ち「もし貴方の子供でなかったら私は焼け死ぬでありまし
ょう、貴方の子供であれは火に害のう事なく無事に生まれましょう」と誓いをたてら
れ、無事に三人の皇子(火闌降命、彦火火出見尊、火明命)をお生みになり女性とし
ての純潔を示されたところと伝えられます。そのことは『日本書紀』に次のように記
されています。
天孫瓊々杵尊曰く「汝は(サクヤ姫に対し)霊異しき威有し。子等復倫に超れたる気
有り」と仰せになり木花開耶姫命をいたわり敬愛の情をお示しになっています。三皇
子の御名は火の中でお生まれになったので火の字が附してあります。尚無戸室産殿で
お生まれになった三皇子の産湯をお使いになった〃児湯の池〃が史跡として保存され
ています。
さて無事に御生まれになった三皇子をお育てになるに母乳で足りない分を補うため一
方ならぬ御苦心の程が伺われます。西都原よりわき出づる水を利用して狭名田と言う
細長い田を作り、その田の稲(お米)で甘酒えお造り、その甘酒を以て三人の皇子を
御養育されたと伝えられています。都萬神社では今尚秋の大祭には必ず甘酒を神前に
お供えしてお祭りをすることになっています。又『日本書紀』に木花開耶姫命「卜田
を以て狭名田と曰う、その田の稲を以て天の甜酒を醸みて新嘗す、渟浪田の稲を用て
飯に為しぎて新嘗す」とあります。是が地上における新嘗祭の起源ともなっています
。甜酒美酒のことなりとあり、我国で始めてお米を以て造られたお酒の発祥地は西都
市であり、木花開耶姫を祀る都萬神社であることが『日本書紀』により証明されてい
ます。都萬神社南西に当たる処に現に酒元と云う部落がありバス停留所もあります。
都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍しい祭典行事であります。祭神木花
開耶姫命が天孫瓊々杵尊に逢初川のお見逢いによって長狭神の媒介によりお嫁入りさ
れる時の古事そのままの姿をおつくりする神事で、晴れの婚礼衣裳をサクヤ姫の御神
像にお着せ申し、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になられる有様を
生でじかに行うゆかしい神事であります。この神事が我が国婚姻儀礼のハジメである
と社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御
遷座申し上げ、その間一般参拝者に拝観が許されます。良縁に恵まれ仕合せな結婚が
出来た人。又良縁に恵まれたい人の参拝が多く、殊にお母さん方のお参りが多いのは
母親の愛情から女性の守り神として崇敬が厚いからでありましょう。青年男女のお参
りは特に正月の年頭参拝は押すな押すなの盛況ぶりで最近は東京方面からの女性参拝
も多くなっています。
社伝では、天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を送られた処と伝える。宮崎らしいのである。 宮崎県西都市大字妻1 玄松子 日向国 国府物語
宮崎郡[ミヤサキ]:1座小
江田神社[エタ]
江田神社[えだ]「伊邪那岐尊 配 伊邪那美尊」
江田神社由緒記
本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古
来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて
、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際天照皇大神、月讀尊、素佐嗚尊と住吉三神
の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、則ち上代における中ツ瀬と称せる御
池本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人
俗に当社を産母様と称えて今日に至る。
五四代(一一四三年前)仁明天皇承和四年丁巳八月官社に列せられ、五五代(一一二
六)文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下を授けられ、五六代(一二一八)清和天皇貞
観元年己酉十月従四位上に進められ、その後五四代(一〇〇七年前)円融天皇天禄元
年二月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位八回に及び、正一位に昇階ありしと云う。六
〇代(一〇七三年前)醍醐天皇の延喜年間に於いて、延喜式内社日向四座の一社とし
て神明帳に登載せられ祈年新嘗の奉幣を承け居りしが、一一二代(三二〇年前)後西
院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来し、ついに一村落の産土神と同様の取扱を承
けるに至れり。
明治維新に際し、明治六年五月二十五日に社格県社に列せられ、同四十年二月九日神
饌幣帛料共進を指定されて今日に至る。
尚、当神社の御祭神は皆様ご存じのように、みそぎ祓の祝詞にあります諸々のお祓い
の神でありますと共に、世の中で始めて夫婦のいとなみを始められた神でもあり、天
照皇大神をはじめ月讀尊、素佐嗚尊、住吉三神の尊い神々の親神でもあります。古く
より近郷近在の人々が当社を産母様(ヤボサマ)と尊称してお祓い縁結び安産の守護
神として最も崇敬しているお社であります。
此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられている。
宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127-イ/ロ 宮崎観光写真 玄松子
諸縣郡[ムラカタ]:1座小
霧嶋神社[キリシマ]
霧島岑神社[きりしまみね]「瓊瓊杵命、木花咲耶姫命、彦火火出見命、豐玉姫命、草葺不合命、玉依姫命」
往古霧島岑神社は高千穂峰の中腹瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊、木花咲
耶姫命、彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊、玉依姫命の六柱の神々である。
承和四年(八三七)日向国諸県郡霧島岑神は官社に預かり、のち従五位上を授けられ
る(続日本後記)天安二年(八五八)従四位下に叙せられ(三代実録)とあり、延喜
式神名帳には日向国式内四座の一つであると記されている。天慶天暦(十世紀)の頃
性空上人が霧島岑神社に参篭の折、山麓四方に夷守神社外四社を創建し、本社である
霧島岑神社(別名霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。天永三年(一一
一二)韓国岳噴火、仁安二年(一一六七)大幡山噴火し相次いで神殿を焼失したが、
その都度元の地に再建された。文暦元年(一二三四)には至近の火常峯(御鉢)が噴
火し社殿は焼失、この地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の
辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと四八〇余年、享保元年
(一七一六)新燃岳の噴火により社殿は焼失、御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野
村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は全く荒廃したので、享保十四年(一七二九)
夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を今だに築地という。
明治五年(一八七二)県社に列せられ、翌六年細野村に合祀の世論起こり夷守神社を
先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社跡地(現在地)に霧島岑神社を
奉造して今日に至る。
往古霧島岑神社は高千穂峰の中腹瀬戸尾の高地に鎮座していた。 宮崎県小林市大字細野4937 玄松子の記憶
東霧島神社「伊弉諾尊」
神々のふるさと東霧島神社由来記
天地が開け万物が成長し初めた頃、高天の原に天御中主神を初め五神の別天神が現わ
れ、つづいて神世七代と呼ばれる神々が生まれたのでありますが、そのとき男女一対
の偶生神であり天地創造の神である伊弉諾尊、伊弉冊尊が誕生されました。
この二神様に天の神が矛を授け二神様が天の浮橋(神社の背後に連なる長尾山脈)に
立ちただよえる国に矛をおろし、かきまわし、そして引き上げ矛の先から滴り落ち固
まったのがオノゴロ島(現在の日本国土・別名大八島国)の誕生であるといわれてお
ります。
高千穂の峰は南九州の中央部にそびえ、伊弉諾・伊弉冊二神の御子天照大神が御孫の
天津彦火瓊々杵尊に御神勅と三種の神器をあたえて天降りを命ぜられた、山容の秀麗
な霊峰であります。
現在山頂に奉祀してある天の逆鉾で伊弉諾・伊弉冊神がオノゴロ島をつくられたので
あります。山麓一帯は霊地が多く霧島神宮(元は高千穂河原に鎮座してあった)以外
の霧島六所権現宮は宮崎県側に鎮座してあり、なかでも伊弉諾尊を祀る神社は霧島東
神社と当社だけで、当社は神世の皇都でありまた霧島山の四方門では東方発心門にな
ると由来記にあります。
宇宙の創世とともに八百神様が大八州島国の国造と政事を重ねられ「まつり」として
数千年来祖達から受け継がれた遺産が祭祀の遺跡として、現在では生活の古典になっ
ているのであります。
このように当社は、はじめ北諸地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ
、のちに人皇第五代孝昭天皇の御代(昭和五十年から逆算して二四〇〇年の昔)に創
立されたものと伝えられております。
その後、村上天皇の御代応和三年(昭和五十年から逆算して一〇一二年の昔)に京都
の性空上人が巡錫参篭し噴火噴出土で焼失し埋没した当神社を再興し霧島六所権現東
御在所としました。江戸時代になって島津藩主家久のとき東霧島大権現宮ととなえる
ようになりました。宝物を拝観して感ずるように、特に当社は歴代島津藩主の崇敬が
厚く祈願奉賽や寄進、造営が度々行なわれております。
神石の別名を裂盤又は魔石と呼び故有谷の小池のなかにあり、数多くの神々をつくら
れた伊弉諾・伊弉冊の二神は、伊弉冊命が火の神、軻遇空智(火皇産霊命)を難産し
身が焦けて世を去ってしまわれたので、このことを怒り悲しまれた伊弉諾尊が十握の
剣で石と化した火の神を三段に切られた。このときそのうちの一片は遠く宮崎の大島
平原村に飛び去ったということであります。
東諸県郡高岡町に去川という地名があるのはこの飛び去った神石の一片のことを示し
たもので、古文書の延喜式に去飛、神石云々とあります。亡くなった伊弉冊尊を祀る
伊弉冊神社が神石の近くにあり俗に産婆祖母様といってお参りした婦人が故有谷の水
を呑んで帰れば安産するとのことから「坂の下詣り」といって古来から婦人の参拝者
が多いのであります。
御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀した
もので、四指の握りで十握りの長さの剣ということであります。
平安時代の頃の度重なる霧島山の噴火のため火災や噴出土の堆積がひどく神社の荒廃
とともに社宝が行方不明になってしまったのであります。
性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見す
ることができなかったのであります。ある日、上人の修業中にどこからともなく飛ん
できた一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じよ
うなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中
に石の梢に納まった剣が発見され曇りひとつないほどに輝いていたということであり
ます。このようなことから神社地一帯を鳩園とよんでおります。
島津宗藩第十九代の藩主、島津家久公が慶長二十年の春、大阪夏の陣に出陣するとき
に、御家長久、子孫繁昌、武運自在、国家太平、万民快楽等の諸祈願のために、霧島
山大権現に奉納したものである。
家久公は大権現の大檀主であり祈願主には勅詔院の性隆法印がなっており、梵鐘の銘
文には島津家につかえる戦国武将や助力衆、作者、銘書者など当時の有名人が名を連
ねている。旧島津藩内の社寺にはこれより古い作りのものはなく、格式の高かった東
霧島山大権現宮を証明する第一級の文化財である。
古代祭祀遺跡が散在する東霧島神社に性空上人が別当寺を建立して壱千弐拾有余年の
ちに天皇の勅許、勅詞により院とともに権現宮の名が授けられたのである。
応永十六年島津久豊公が知行のなかから十町歩を寄進した願文書の中にも権現宮名が
でている。
この東霧島大権現宮の大扁額も横一四〇糎、巾五五糎でその木質の風化状態からみて
、かなり古く四〇〇年以上は経過しているもので、またきわめて達筆な揮毫からみて
島津藩主の書とも考えられる。これもいかに東霧島神社が祈りの宮として歴代藩主の
信心が厚かったかが偲ばれる。
春の例大祭で行所までの浜下りの神事におみこしの行列があるがこのおみこしの天井
に墨書で次の記録がある。「寛永十六年家久公御建立所及大破故嘉永二巳酉矢守斉興
公御再興天下太平国家安全五穀成就萬民豊楽奉再興薩隅日三州大守御当家二十九代斉
興邦君御息災延命御武運長久ニ御願令成就故也」このことは寛永年間に島津十九代家
久公が建立したが破損したもので、諸々の祈願をこめて二十九代斉興公が修理したも
のということになる。庄内の乱で本陣となった勅詔院に家久も居住し、日夜参詣した
ものと考えられる。家久は東霧島神社にはいろいろの寄進をしていることから歴代藩
主でも特に信仰が厚かったものであろう。おみこしの奉納は三四〇年位前のことであ
る。天井部分を修理したことは古さや材質の違いでわかり、床面には神社の別当寺で
ある東霧島山金剛仏作寺勅詔院住職の墨書もある。
宮崎県北諸県郡高崎町大字東霧島1560-イ 神社 玄松子の記憶
霧島東神社「伊弉諾尊、伊弉冉尊 配 天照大神、瓊瓊杵尊、天忍穗耳尊、彦大大出見尊、草葺不合尊、神日本磐余彦尊」宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田6437 玄松子の記憶
霧島神宮「天饒石國饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊」
霧島神宮由緒略記
当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽)を奉持し高千
穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしている
お社です。旧記によると欽明天皇の御宇(西暦五四○年)、はじめ高千穂峰のほど近
く脊門丘に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から五百
年前現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第二十一代藩主島津吉貴公が
正徳五年(一、七一五年) に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅
使殿等その配置はまさに輪奐の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗
りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。明治七年二月「霧島神宮
」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。
畏くも昭和天皇陛下には二度にわたる御親拝を賜っております。平成元年五月国の重
要文化財の指定を受け、海抜五○○米の此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺
望が実に雄大であります。高千穂峰(標高一、五七四米)頂上には神代の旧物“天の
逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。
霧島山連峰を信仰の対象としたのが起源である。
鹿児島県姶良郡霧島町田口2608-5 玄松子の記憶
H24.1.23