因幡國:50座 大1小49


巨濃郡[コノ]:9座並小

恩志呂神社[オシロ]
恩志呂神社[おじろ]「火闌降命、大山祇命、天津日高日子番能邇邇藝能命、木花開耶姫命、火明玉命」鳥取県岩美郡岩美町大字恩志95 魁・神社巡拝記

大神社[オホワ]
美取神社[みどり]「大物主神 配 菅原道眞、三上豐範」蒲生川沿いに鎮座、川底には弥生中後期集落跡の遺跡がある。鳥取県岩美郡岩美町太田166 魁・神社巡拝記
荒砂神社[あらすな]「大物主命」鳥取県岩美郡岩美町浦富北屋敷2541 〜神社仏閣巡りと旅の風景〜
多居乃上神社[たこのうえ]「大穴牟遲命、須勢理毘賣命」鳥取県鳥取市国府町広西字梅ノ木194 玄松子の記憶

佐弥乃兵主神社[サミノヒヤウズ]
佐彌乃兵主神社[さみのひょうす]「天照大神」祭神は椎の木を嫌うので境内にはない。鳥取県岩美郡岩美町大字河崎字佐弥屋敷211 魁・神社巡拝記

高野神社[タカノ]
高野神社[たかの]「主 瓊瓊杵尊 合 國常立尊 主 天照大神、譽田別命、倉稻魂命」鳥取県岩美郡岩美町字延興寺69 

許野乃兵主神社[コヤノヒヤウズ]
許野乃兵主神社[こののひょうす]「大國主神、素盞嗚尊」古来鳥居を寄進すると不幸がおこるとか倒壊すると言われ、今でも鳥居はない。兵主大明神と称し地域の兵主神の総社であったと言われる。 鳥取県岩美郡岩美町大字浦富686 魁・神社巡拝記

二上神社[フタカミ]
二上神社[ふたかみ]「素盞嗚命」鳥取県岩美郡岩美町字岩常213

御湯神社[ミユ]
御湯神社[みゆ]「大己貴命、八上姫命、御井神、猿田彦命」大己貴命は温泉を治療保養に応用。鳥取県岩美郡岩美町大字岩井141 山陰海岸ジオパーク応援日記

日野神社[ヒノ]
日野神社「譽田別神」鳥取県岩美郡岩美町字大谷2181 〜神社仏閣巡りと旅の風景〜

甘露神社[カムロ]
甘露神社[かんろ]「大山祇命、啼澤女命」鳥取県岩美郡岩美町字陸上57 神社のある風景

法美郡[ハフミ]:9座大1小8

多居乃上神社2座[タコノウヘ]
多居乃上神社[たこのうえ]「大穴牟遲命、須勢理毘賣命」鳥取県岩美郡国府町広西字梅ノ木194 玄松子の記憶

意上奴神社[イカム]
意上奴神社[いぬがみ]「速須佐之男命」鳥取県鳥取市香取字意上谷369 神社のある風景

槻折神社[ツキヲリ]
槻折神社[つきおり]「大山祇命」鳥取県鳥取市生山字上ノ山477 魁・神社巡拝記

荒坂神社[アラサカ]
荒坂神社[あらさか]「大己貴命、少彦名命、素戔嗚尊」鳥取県岩美郡福部村大字八重原328

手見神社[テミ]
手見神社[てみ]「大山神、市寸嶋比賣命」鳥取県岩美郡国府町松尾字芋堀田341 玄松子の記憶

服部神社[ハトリ]
服部神社[はっとり]「天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命」鳥取県岩美郡福部村大字海士字宮ノ前597 魁・神社巡拝記

美歎神社[ミタニ]
美歎神社[みたに]「經津主命、武甕槌命 合 市杵嶋姫命」鳥取県岩美郡国府町大字美歎字宮ノ前261 玄松子の記憶

宇倍神社[ウベ](名神大) 宇倍神社「武内宿禰命」因幡国一ノ宮。本殿の後阜亀金岡の雙履石は祭神の雙履の霊石と伝わる。古代文化遺跡の中心地。祭神を因幡国造の祖彦坐王の子彦多都彦命、伊福部氏の祖武牟口命、埴安姫命とする諸説がある。 鳥取県岩美郡国府町宮下字一宮651 玄松子の記憶


八上郡[ヤカム]:19座並小

大江神社[オホエノ]3座
大江神社「大己貴命、天穗日命、三穗津姫命」土師氏の末流大江氏に由来する。鳥取県八頭郡船岡町橋本734 玄松子の記憶

都波只知上神社[ツハキチノ]
都波只知上神社[つばしちがみ]「大帶日古淤斯呂和氣命、日本武尊、天穗日命」祭神を武内宿禰命、猿田彦命、大己貴命・兎神とする諸説がある。境内には椿が多く、市(マーケット)神の神木であり、伐ることはタブーである。 鳥取県八頭郡河原町大字佐貫字林ノ谷511 玄松子の記憶

鹽野上神社[シホノカミ]
塩野上神社[しおのうえ]「彦火火出見命、鹽土老翁」鳥取県八頭郡船岡町塩上287 玄松子の記憶

都波奈弥神社2座[ツハナミ]
都波奈彌神社[つはなみ]「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」祭神が笹で目を傷つけたとの伝承がある。 鳥取県八頭郡河原町大字和奈見字村ノ内475 玄松子の記憶

伊蘇乃佐只神社2座[イソノノサシ]
伊蘇乃佐只神社[いそのさき]「神直毘神、大直毘神」鳥取県八頭郡八束町大字安井宿字宮ノ後297 玄松子の記憶

多加牟久神社2座[タカムク]
多加牟久神社[たかむく]「大己貴神、事代主神」 武牟口命(伊福部系図:大己貴命十四世孫)が本来の祭神とする説がある。鳥取県八頭郡河原町大字鹿字上ノ山387 玄松子の記憶

意非神社[イヒ]
意非神社[おい]「天饒日尊」鳥取県八頭郡若桜町屋堂羅1 玄松子の記憶

賣沼神社[ヒメヌ]
賣沼神社[めぬま]「八上比賣神」八上比売の神、八上郡内に出生ありしを以て当地に鎮座す。大己貴命の数ある妃の中でも誉れ高い美女と社伝にはある。この地の特徴はヒスイの原産地にある事、また川の出会いの場所で鵜飼に関連している事が特徴である。
鳥取県八頭郡河原町大字曳田字上土居169 玄松子の記憶

和多理神社[ワタリ]
和多理神社[わたり]「左留陀比古神」南方系の海人に由来する神社である。鳥取県八頭郡郡家町大字殿字地主500 玄松子の記憶

久多美神社[クタミ]
久多美神社[くたみ]「伊弉諾尊、伊弉册尊 配 鹽土老翁」鳥取県八頭郡河原町字谷一木947 玄松子の記憶

布留多知神社[フルタチ]
布留多知神社[ふるたち]「素盞嗚尊」祭神は不々岐[ふぶき]と言う鬼を退治した。鬼は[大人]と呼ばれ、ダイダラ坊であったろうか。鳥取県八頭郡八東町重枝230 玄松子の記憶

美幣沼神社[ミテクラヌ]
美幣奴神社[みてくら]「太玉命 合 瀬織津姫神、保食神」元、灰塚に鎮座、忌部大明神。祭神は幣帛を作った神。鳥取県八頭郡郡家町篠波字奥深谷698 玄松子の記憶


邑美郡[オフミ]:1座小

中臣崇健神社[ナカトムタカタケ]
中臣崇健神社[なかとみたかたけ]「大物主命」弥生期の古郡家遺跡が近い。社地は美和古墳群の一角に当たる。この社が拝する古墳から大和との深いつながりが見える。鳥取県鳥取市古郡家字西土居161 神社探訪


高草郡[タカクサ]:7座並小

伊和神社[イワ]
伊和神社「大己貴神」岩室大明神とよばれ岩室山に隣接して神社岩と言う大岩があり、当社の旧跡とされる。縄文期には海に浮かぶ島であった。鳥取県鳥取市大字岩吉249 神社探訪

倭文神社[シトリ]
倭文神社[しとり]「經津主命、武甕槌命 配 武葉槌命、大己貴命」鳥取県鳥取市大字倭文字家ノ上548-1

天穂日命神社[アマホヒノ・]
天穂日命神社[あめのほひのみこと]「天穂日命」因幡氏は天穂日命を祖とする出雲臣、土師臣につながる氏族であろう。鳥取県鳥取市福井字宮ノ谷361 玄松子の記憶
日吉神社摂社天穂日命社「天穂日命」保比呂五輪を形代にする説がある。鳥取県鳥取市布勢1

天日名鳥命神社[アマヒナトリノ・]
天日名鳥命神社[あめのひなどりのみこと]「天日名鳥命、素盞嗚命」天日名鳥命は天穂日命の子神である。鳥取県鳥取市大畑字森崎874 玄松子の記憶

阿太賀都健御熊命神社[・・ミクマ・・]
阿太賀都健御熊命神社[あだかつたけみくまのみこと]「御熊命」玄武岩岩脈に六角柱状の節理が発達した自然の階段を社殿に登る。鳥取県鳥取市大字御熊612 玄松子の記憶

大和佐美命神社[オホワサミ]
大和佐美命神社[やまとさみのみこと]「大和佐美命」鳥取県鳥取市上砂見字縄手674

大野見宿禰命神社[オホノミノ・・]
大野見宿禰命神社[おおのみすくねのみこと]「野見宿禰」土師氏の祖神。常緑広葉樹に覆われた小山に鎮座、シイ・ブナ・モチなどの原生林がある。鳥取県鳥取市大字徳尾80 神社探訪
大野見宿禰命神社
「相撲(角力)の神さま」
鳥取市街地から行徳を経て、千代橋を渡り、更に西へ進むと大正橋にさしかかる。橋 の上から前方を見ると、小高い丘を包むようにこんもりとした森が目につく。この道 はその森の麓を通りまっすぐに村落を貫き白く西に延びている。その昔、夜更けにな ると一陣の風と共に大坊主が大木の陰からぬっと現われ、旅人を怖がらせたという所 謂「徳尾の大坊主」なる咄のでた所である。この森は全体が神域であり、丘の頂上に は御祭神野見宿禰命をお祭りする大野見宿禰命神社が御鎮座座している。当社は戦国 時代しばしば兵火に遇い、社殿の創立年月を詳らかにすることはできないが、延喜式 (宮中の年中儀式、百官の儀、国々の諸式、作法等を漢文で記した書、西暦九〇五年 )神祇の巻に「因幡国五十座略高草郡七座大野見宿禰命神社」とあり、又倭名類聚抄 (わが国最初の分類体漢和辞書、醍醐天皇の御代)に「因幡国高草郡野見郷」とある 。貞観、延喜よりはるか古代より信仰の対象として崇敬されていたのです。古文書に よると、姫路城より池田光政公九才にして鳥取城へ三十二萬石の大名としてご転封に なる元和三年(西暦一六一七年)から明和四年(西暦一七六七年)までに数回社殿の 建造がなされている。現在の本殿は安政五年(西暦一八五八年)五月に建てられたも ので、弊拝殿は昭和十六年(西暦一九四一年)に新築され今日に至っている。次に、 御祭神、野見宿禰命について、当社の由緒から要約して記す。「天穂日命十四世の孫 である野見宿禰命は垂仁天皇の御代(約二千年前)に出雲国より召されて京に上がり 、当代随一の豪の者当麻の蹴速と力競べを行い、蹴速を倒し殺す。宿禰は勇力を賞さ れ京に留まり朝廷に仕える。これが相撲の始祖と呼ばれる理由である。この時代に高 貴な人が死亡した時は側近に奉仕していたものを、主人の亡骸と共に墳墓に埋める慣 わしがあった。時に皇后日葉酢媛命が亡くなられ、宿禰は人、馬等の土偶を造り共に 埋め、生人を埋めない事に改めるよう献言する。天皇のお許しが出た上で、出雲より 土師を多数呼び寄せ、種々の土偶を造り用いた。天皇はこれを賞され土師部の職を定 め野見宿禰にこれを与えた。」野見宿禰命は土師部の始祖であり、相撲の守護神であ り、野見の郷を主領す産土神である。野見宿禰の後裔である出雲大社千家尊福大宮司 (大教正従五位)は明治十年七月参拝奉弊された。当神社境内にはシイ、タブの木、 モチの木から海浜植物のトベラに至るまで繁茂し、植物生理学上からみて貴重な原生 林であること、更に境内地の頂上で、本殿の北西方の上段に円墳があること、東方下 段に副葬遺跡があることにより社叢全域にわたり、昭和九年八月文部省により天然記 念物の指定を受けている。往古より野見宿禰の御墓所として遠近よりの尊信を厚くし ている。



氣多郡[ケタミ]:5座並小

利川神社[ハヤカハ]
利川神社[はやかわ]「速開津比命、速佐須良比命、瀬織津比命、素盞雄命、保食神」鳥取県気高郡青谷町早牛855 玄松子の記憶

幡井神社[ハタヰ]
幡井神社[はたい]「天照大御神、幡千千姫命、須佐男命、保食神、事代主命、天熊人命」鳥取県気高郡青谷町絹見802 玄松子の記憶

加知彌神社[カチミ]
加知彌神社[かちみ]「彦火火出見命、鵜萱葺不合命、玉依姫命」鳥取県気高郡鹿野町寺内155-1 玄松子の記憶
氏子のしおり
加知弥神社は気高郡鹿野町寺内飯田の森にある。祭神はひこほほでみのみことと、う がやふきあえずのみこと、たまよりひめのみことで創立年月はつまびらでないが、延 喜式神名帳にのっている式内の古社でむかし勝宿(かししゅく)大明神といい、旧社 地は宮谷あるいは明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬があつく、永録8年 (1565)には武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8年(15 80)には吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。なお元春の祈願状、寄進状2 巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。社伝によると天正年中豊臣 秀吉は防己尾(つづらお)城落城のとき社領を寄進したとのことである。また元和9 年(1623)には池田光政が社殿を修理し、寛永10年(1633)国主池田光仲 はあらためて社領39石6斗9升3合を寄進したが、そのご累代の藩主も崇敬あつく 社殿の営繕あるごとに金殻木材を寄進し幣帛(へいはく)を奉納した。明治4年には 県社になり同40年3月、神饌幣帛共進神社(しんせんへいはくきょうしんじんじゃ )に指定された。大正2年11月には、当社の摂社(せっしゃ)および付近の神社1 4社を境内に合祀(ごうし)して1社をたて、あらたに勝宿神社ととなえた。例祭日 は10月21日である。寺内部落の薬師堂付近には、塔礎とみられる礎石がある。遺 瓦は奈良後期のもので、むかし勝宿大明神の別当寺の旧跡だといわれている。


板井神社[イタヰ]
板井神社[いたい]「天明玉命、倉稻魂命」板葺大明神と称した。祭神を稲霊(豊受気姫命)とする説があり、地形、玉造の伝承のなさから有力視されている。鳥取県気高郡気高町奥沢見1292 玄松子の記憶

志加奴神社[シカヌ]
志加奴神社[しかぬ]「大己貴命、素盞嗚尊、少彦名命、保食神」 往古鹿野に鎮座。勝島大明神と称した。鳥取県気高郡気高町宿527 玄松子の記憶


H24.1.23
延喜式神名帳目次

神奈備にようこそへ戻る