蟻通神社
大阪府泉佐野市長滝814番地 its-mo

南側の鳥居

交通

南海本線羽倉崎駅 南2km



祭神

大国主命 『神名帳考証 蟻通は実に思兼命なるべし。』
明治末期合祀社
 春日神社「健御賀豆知神ほか」
 高木神社「天冬衣神、刺国若姫命」
 小路神社「天甕日女神」
 白髭神社「猿田彦命」
 天野神社「丹生津日女神」

拝殿



由緒

 社頭に由緒を彫った石碑がある。
 弥生中期、開化天皇の紀元九三年に創祀。稲作が始まり米が貴重な食べ物で五穀豊穣・長寿の神として祭られた。五世紀には新羅より、優秀な技術集団が渡来し、今日の条里制農地を造り、国土開発の神として崇められる。
 大国主命が鎮座していたので、新羅人が来て、国土開発をしていったということか。

 蟻通しの由緒
  昔。唐国の王がこの国の人智を試そうとして、七曲の玉瓊の細穴の通りたるを贈り来た。之に緒を貫かんとしたが、時の天皇は壮者のみを重んじ老人を捨て置いたので、それをなす人が居なかった。某中将は老父母を人知れず土窟に匿って養っていたので、このことを老父に語ると、蟻に細い糸をつなぎ、蜜を一方の口に塗り、蟻を他方の口にいれれば、みつの香りで貫いたと云う。その貫かれた玉を送り返すと、唐王は日本は賢者が居る国とし、また天皇も老人を捨てることをやめたという。(現代の自民公明政権も老人・障害者・弱者いじめはやめたほうがいい。公明党は弱者を地獄に落として創価学会に引き入れて財産を取りたいのだろうが)
 この神社の祭神は某中将だとの話が『枕草紙』に記載されている。

本殿

 『紀貫之家集』に当社のことが記載されている。
 其の当時は社もなく、しるしも見えぬ神社なりしも、紀伊国よりの帰途、馬に騎りて社前を通りしに、馬、俄に病みければ、道ゆく人に蟻通の社なりと聞きて一首の歌を詠じけるに馬の病癒え、拝謝して過ぎしと云う。

紀貫之冠之渕

お姿

 昔は東向きだったそうだが、現在は南面している。
 昭和一六年(1941)、元地付近に飛行場が作られて、神社は移転を余儀なくされた。その段階で社域は十分の一。
 その関係か、神社に多くある巨木はないが、美しく精美された社域で、実に心地よい。

 参道には仏足石道とか弁財天道があり、それぞれ小祠が祀られている。優雅な雰囲気を醸し出している。

佛足石参道と足神神社・天照大神社


お祭り

 4月 11日、10月 9日〜10日 例祭

本殿東側に石の祠が並ぶ。頭痛除けの石もある。

『平成祭礼データ』
蟻通神社 由緒書

 蟻通神社は東方字蟻通にあり、祭神は詳ならざれども、社傳には大名持命なりといひ、古来有名の神社にして、別に復た異趣の縁起を有せり。昔唐主某皇國の人智を試みんが為、、七曲の玉環の細き穴の通りたるを贈り来り、之に緒を貫かんことを求めけれども、時の天皇は壮者のみを寵して老人を捨て給ひしかば、在朝の人其の為す所を知らざりしに、某中将は私に老父母を人知れず土窟の内に養ひつゝありしかば、之を其の老父に謀り、蟻を取りて細糸を其の腰に繋ぎ、蜜を一方の穴の口に塗りて蟻を入らしめけるに、蜜の香を嗅ぎて他方の穴の口に出でけり。依て其の貫かれたるを唐主に遣わされけるに、日本は尚賢かりけるとて、其の後は去る事を止め、老人も捨て給はざるに至る。同中將歿して後神と崇められしもの即ち此の蟻通の明神なりとの事は清少納言の枕草子にも載せらる。紀貫之家集に依れば、其の當寺は社もなく、しるしも見えぬ神社なりしも、紀伊國よりの歸途馬に騎して社前を通りしに馬俄かに病みければ、道行く人に蟻通の社なりと聞きて一首の歌を詠じけるに馬の病癒え、拝謝して過ぎしといふ。岸和田藩主岡部氏は社領として貞享四年新田二町歩を寄せ、宗福院の僧祭祀を掌り来りしが、明治維新後の神仏分離に依りて寺は廃絶し、社は同五年村社に列し、同四十年九月十九日字中の宮の村社春日神社(天照皇大神・健御賀豆知神・齋主神・天児屋根命・比賣神・須佐之男命)、字高木の同高木神社(天冬衣神・刺國若姫命)、字中小路の同中小路神社(天甕日女命)、字東の同白髭神社(猿田彦命)、字天野の無格社天野神社(丹生津日女神)を合祀し、大正六年八月二日郷社に昇格し、同年九月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は紀州街道に接して三千百坪の広さを有し、本殿は南面し、拝殿・神饌所・寳蔵・舞臺・繪馬所・社務所を存す。末社に多賀神社・愛宕神社・住吉神社・五社神社・市杵島神社あり。傳豊臣秀吉寄付の石檠・岡部氏寄付の石檠及び鐵檠建てり。氏地は本村一圓にして、例祭は陰暦の八月二十七日なりしも、明治四十三年より陽暦の九月二十四日となる。
以上

『枕草紙』

  蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌よみ奉りけむ、いとをかし。
 この蟻通しとつけけるは、まことにやありけむ、昔おはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、失はせ給ひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、中将なりける人の、いみじう時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持たるに、かう四十をだに制することに、まいておそろし、とおぢさわぐに、いみじく孝なる人にて、遠き所に住ませじ、一日に一たび見ではえあるまじとて、みそかに家のうちの地を掘りて、そのうちに屋をたてて、こめ据ゑて、いきつつ見る。人にも、おほやけにも、失せかくれたる由を知らせてあり。などか、家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。この親は上達部などにはあらむにやありけむ、中将などを子にて持たりけるは。心いとかしこう、よろづのこと知りたりければ、この中将もわかけれど、いと聞こえあり、いたりかしこくして、時の人におぼすなりけり。
 唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ち取らむとて、常にこころみごとをし、あらがひごとをしておそり給ひけるに、つやつやとまろにうつくしげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかた。」と問ひに奉れたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとにいきて、「かうかうの事なむある。」といへば、「ただ、速からむ川に、立ちながら横さまに投げ入れて、返りて流れむかたを末としるして遣はせ。」と教ふ。
 参りて我が知り顔にて、「さて、試み侍らむ。」とて、人と具して、投げ入れたるに、先にしていくかたにしるしをつけて遣はしたれば、まことにさなりけり。
 また、二尺ばかりなるくちなはの、ただおなじ長さなるを、「これが男女。」とて奉れり。また、さらに人え見知らず。例の、中将来て問へば、「二つを並べて、尾のかたにほそきすばえをしてさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ。」といひける、やがて、それは内裏のうちにてさしけるに、まことに一つは動かず、一つは動かしければ、またさるしるしつけて、遣はしけり。
 ほどひさしくして、七曲にわだかまりたる玉の、中通りて左右に口あきたるがちひさきを奉りて、「これに緒通して賜はらむ。この国にみなしみなし侍る事なり。」とて奉りたるに、「いみじからむものの上手、不用なり。」と、そこらの上達部、殿上人、世にありとある人いふに、また行きて、「かくなむ。」といへば、「大きなる蟻をとらへて、二つばかりが腰にほそき糸をつけて、またそれに、いますこしふときをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ。」といひければ、さ申して、蟻を入れたるに、蜜の香をかぎて、まことにいととくあなたの口より出でにけり。さて、その糸の貫かれたるを遣はして後になむ、「日の本の国はかしこかりけり。」とて、後にさる事もせざりける。
 この中将をいみじき人におぼしめして、「なにわざをし、いかなる官位をか賜ふべき。」と仰せられければ、「さらに官もかうぶりも賜はらじ。ただ老いたる父母のかくれうせて侍るたづねて、都に住まする事を許させ給へ。」と申しければ、「いみじうやすき事。」とてゆるされければ、よろづの人の親これを聞きてよろこぶこといみじかりけり。
 中将は上達部、大臣になさせ給ひてなむありける。
 さて、その人の神になりたるにやあらむ、その神の御もとにまうでたりける人に、夜現れて宣へりける、
 七曲にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとは知らずやあるらむ
 と宣へりける、と人の語りし。
以上

和泉名所図会から

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