国玉神社
大阪府泉南郡岬町深日921番地its-mo


交通

南海線深日駅 北 500m



祭神

大國主大神、賀茂別雷神

摂社
戎神社「事代主大神、品陀和氣命、大雀命」
祓戸社「瀬織津比賣命、速秋津比賣神、氣吹戸主神、速佐須良比賣神」
五社「天照皇大御神、豐受比賣大神、大山祇大神、底筒男大神、中筒男大神、表筒男大神、息長足比賣大神、日本武命、大國主大神」

社景



由緒   昔は「九頭大明神」と称した。創建年代は不詳だが、称徳天皇紀伊行幸の際の行宮を定めたと言われる。 『続日本紀』巻第二六の称徳天皇(高野天皇)の天平神護元年(765年)十月二十六日、紀伊国からの帰路に和泉国日根郡の深日行宮に到ったとある。

 神社は七十有余の石籠が並び、その正面に本殿が鎮座。 本殿は合祀した賀茂社のもの、深日(ふけ)は京都賀茂社の社領だったそうで、その関係で賀茂社が祀られていたのであろう。


流造の本殿

由緒 平成祭礼データから

 国玉神社は第六十代醍醐天皇の御代に成った延喜式内社であり、創立年月は旧記にな く詳でありません。国内神名帳に正五位下国玉神社としてあります。
 境内三、〇四五坪を有し千歳川岸の丘麓にあり昔は樹木欝蒼として深日港を望む遠くは淡路島及摂淡連峯を望み明治六年、郷社に列記され明治四十一年、神饌幣帛料供進社に指定せられ明治四十五年五月、若宮の浜山に祭祀されてありました村社賀茂神社の御祭神を相殿とし、末社でありました、八幡社、若宮八幡、戎社の三社を元国玉神社の本殿に相殿として祭祀してあります。現在の本殿は元賀茂神社の本殿を遷座してあり梁行四間桁行三間の銅葺流造にして氏子地は深日孝子一円にわたっております。
 拝殿上の「大国玉神」の木の額は旧深日村の古事に依れば門厳の書であります。
 深日庄は第七十三代堀河天皇寛治四年より第一〇四代後柏原天皇大永年間まで京都賀茂神社の領知で元賀茂神社の隆昌繁栄に反して国玉神社は次第に衰徴し徳川時代に至っても隆昌をする事無く明治維新まで明中十五軒にて山林等を資にして祭祀・保存しておりましたものです。当下たん地にあります。
 現旧蹟跡の碑は第四十八代称徳天皇の紀州行幸の際行宮として定め給ひし処であり、続日本紀に「天平神護元年九月(閏)十月二十六日庚戌遺行宮於大和河内和泉等国以欲幸紀伊甲申致和泉国日根郡深日(フケ谷朱)行宮干時西方暗瞑異常風雨紀伊国守小野朝臣小贄従此而還詔賜アシギヌ卅疋綿弐百屯」と記されてあり、「第六十五代花山天皇の行幸の際須臾寓宮として定め給ひし」と記されてあります。
 又末社は元は小祠でありましたが、永年の風雨の為破損甚だしく神々の御神慮を恐れ、昭和四十年七月十日、境内東南側に銅葺流造の社殿に遷座祭祀せしもので、当神社は称徳天皇行宮より現在まで一千二百余年の年月を経ております。
以上



お姿 

 深日は吹飯で、名勝の地であった。 神社は千歳川の西岸の里山に鎮座、石段は長い。 樹木も多い。
 『大阪府神社史料』には「近くは深日の曲浦を俯瞰し、遠くは摂津連峰の煙霞の聞に望む」と記されている。 現在では北に関空が浮かぶ、ということ。


お祭り

 5月10日 春祭
 6月30日 大祓祭
10月 2日、3日 秋季例大祭


岬町の鍛冶屋谷

 真弓常忠氏の名著『古代の鉄と神々』に、この岬町の鍛冶屋谷のスズの話が載っている。 壺石と呼ばれる褐鉄鉱(水酸化鉄)が採取されたようで、岬町の教育委員会の里中教育長のお話では、粘土質の土壌があり、そこへ水が流れ込むと地中に吸い込まれずに貯まってきて、 水分中の様々な物が濃くなってき、核があるとそのまわりに集まって固まる、これがスズと言われるものだとの事。
 深日駅の直ぐ東に宝樹寺と言う浄土宗のお寺があり、別名を化石寺と呼ばれているが、3Fに標本室があり、この地域のもの以外にも興味ある化石や石が陳列されている。 瓜谷石と名付けられた石は多重構造で、一番中央の石は卵の殻のような薄さであった。

瓜谷石


 泉南に縁の深い五十瓊敷命が茅淳の菟砥川上宮にいて剣一千口を作り(剣の名を川上部、また裸伴という)、石上神宮に収めたと伝わるが、 ここの鍛冶屋谷のスズから採った鉄で作ったものと推測されている。
 現在、地名として鍛冶屋谷は残っていないが、その付近はまさに滋賀県日野町別所の高師小僧の碑の建つ風景とよく似ており、両方とも山間の田圃になっている。



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