丸笠神社
大阪府和泉市伯太4丁目its-mo

鳥居と丸笠山古墳の石標


交通

JR信太山駅 東1500m



祭神

御諸別命、素戔嗚尊   明治初年には伊邪那美大神。


古墳内の鳥居



由緒

 和泉国和泉郡の式内小社。
 現在は西方1kmに鎮座する伯太神社の飛び地境内社。
 社伝によれば、神功皇后が小竹宮の行宮に遷られた時、勅命を受けて国内平定につくした武将小竹祝丸、天野祝丸の墓二つを造ったので、境内は車塚となった。この地に御諸別命を(和泉国皇大神)を祀った。後、白河上皇が熊野御幸の折、当地で休まれ、ここで熊野を遙拝して平癒を祈念されたところ、恢復できたので、寄進されたといふ鳥居、影向石、磐境、御車駕等の跡がある。この由縁により素戔嗚尊を合祀したといふ。
 『和泉市史』によれば、藤原康基が編述した明徳三年(1392)八月付の「松笠神社縁起」には、もと当社は南池田地区の宮里(国分、平井、黒石地区の古い地名)にあったものといふ。建武中興の折、後醍醐天皇が奉塀され、境内を殺生禁断の地とし、東は大臣山の峯、南は伏見岸、西は河北、北は玉園小川を限り、その内の田畑山林を勅施入したといふ。国分町から槙尾川の豊橋を渡って北行すると、丸笠の地名が現存し、ここを囲んで宮脇の地名のあることから、当社は元来宮里の地に鎮座していたものであろう。

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』によれば、「本社、現在の地点は、禅宗新宮山龍雲寺のありし所なり。其の新宮山と称する見れば、熊野と関係あるものの如し。当時丸笠神社は、同所の東南飛龍ヶ池を隔つる高地今小松の茂る辺りに在りしを寺廃して後移りしなり。かって伯太神社等当社に合祀し。遷座式を行ひし後、内務省伯太神社の移転を許可せず、故にそれを原に復し、大正五年に至り当社を伯太神社に合祀することとし、尚境外別社として旧地に置く」として両社間のいきさつを述べている。(『式内社調査報告第五巻』井岡歌一)

 小竹宮 この近くの信太村に小竹神社が鎮座していたそうだが、『日本書紀』では、神功皇后が紀州にいた時に語られる神社であるので、御坊市の小竹八幡神社か紀の川市の志野神社がこれに比定されている。
 小竹祝丸と天野祝丸についても、小竹祝(はふり)、天野祝(はふり)の二人の神職が同じ墓に葬られ、それで世の中が暗くなったとの話が語られる。天野祝とは丹生都比売神社の祝のことであり、距離感で云えば小竹祝とは志野神社の祝のことだろう。

社殿(近所の老婆は祠と言った。)

古墳の風景



たたずまい

  丸い笠の形をした古墳と言えそうだ。 壇を思わせるニ個の平たい大石がある。古墳には珍しい。 池もある立派な前方後円墳のようです。4世紀後半の造営と見られているようで、神功皇后の時代にあっている。


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