桜井神社・上神谷八幡宮
堺市片蔵645番地 mapfan

神門


交通

泉北高速泉ヶ丘 バス片蔵下車



祭神

譽田別命、足仲彦命、息長帶比賣命(江戸時代以降は八幡宮)
武内宿禰命(創立時)
摂社 稲荷神社「保食神」、戎神社「蛭子神、言代主命」

由緒
 『社伝』によれば、推古天皇五年の創祀と云うが確証がない。この地域に居住の桜井朝臣一族が、その祖神である武内宿禰を祀った。
 『和名抄』には、大鳥郡に上神郷があり、カムツミワから転訛してニワと読むようになっている。
 元禄四年(1691)には八幡宮社となっているのは、織田信長の時期、兵火に罹り社殿は荒廃したが、上神谷八幡宮とも称して元の隆昌に戻ったと云う。
 明治末期の神社合祀で、多くの近隣の神社を当社に合祀している。国神社と山井神社である。国神社で行われていた「鼓踊 こをどり」は当社の神前に奉納される。

拝殿

割拝殿


お姿

 拝殿は鎌倉前期の建立と推定される。割拝殿で架構方法は二重虹梁蟇股と云われる奈良時代以来の伝統的な形式となっている。大正六年国の特別建造物に指定された。神社拝殿最古の遺構として貴重な建物。

本殿


お祭り

10月 7日 例祭
10月第一日曜 こおどり奉納

摂社 稲荷神社  戎神社
 


桜井古跡

 桜井井戸と呼ばれ、悠久の昔より桜井神社御祭神に深い縁故を有し、古来夏祭りに御神幸あり、和泉名所図会にも搭載の古跡である。
 常に清水湧きだして枯渇することがなかったが、明治十八年(1885)の大洪水により河川氾濫して埋没、大正四年(1915)御大典記念に三十年ぶりに復活、さらに平成元年(1989)妙見川拡幅、宮橋架け替え工事の竣工により、整備保存されたが、井戸は現存しない。

桜井古跡

平成祭礼CDから

 桜井神社由緒略記

 当社の創立は悠遠の時代で、社記及び諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。推古天皇五年(五九七)に八幡宮を合祀され上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(九六七)には官幣社に列せられた。歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領として荘田を寄進せられた。中世武家の尊崇深く、建武四年(一三三七)上神城主上神常儀は社殿を造営し、元亀二年(一五七一)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。また南北朝時代(一三三六)には、当社及び氏子は南朝に属し、上神・和田・桜井・木寺等の武将は、度度戦勝の祈願をこめ、御供田を献納して当社の奉護に尽した。中世神宮寺建立以来、神仏習合の霊場として近郷はもちろん、河内・堺方面より参詣者が続いて隆盛を極めた。今当社に残る古文書や石燈篭には、これら篤信者の名が記されている。神域広大で社殿また荘厳を極めたが、天正五年(一五七七)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。その後、天正十六年(一五八八)加藤主計守清正の発願により、先ず阿弥陀堂が再建せられ、(最近棟札写し発見)次いで元禄十五年(一七0ニ)神門を再建、更に享保十六年(一七三一)には鐘楼と宝蔵が再建せられ、漸く旧観に復した。慶応四年(一八六八)神仏分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺へ譲渡した。又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。明治五年郷社に列し、同四十一年から四十三年には旧上神谷村内の国神社他九社を合併した。大正六年拝殿が特別保護建造物に指定せられ、昭和三年にはその解体修理が行なわれた。又同六年には中門と透塀を新築し、更に十六年には社務所の移転改築と境内の整備を完成し、社頭の面目を一新した。翌十七年には府社に昇格せられ、一層神威の尊厳を加えた。戦後昭和二十六年文化財保護法の施行に基き、当社拝殿は昭和二十八年十一月十四日大阪の神社では住吉大社本殿四社とともに国宝建造物に指定をうけ、昭和五十三年屋根葺替等保存修理が行なわれた。
 以上


神奈備にようこそに戻る