陶荒田神社 
大阪府堺市中区上之1215



鳥居


交通

泉北高速泉ヶ丘 北東1.5km mapfan



祭神

高魂命、劔根命、八重事代主命、菅原道真公
摂社
山田神社「活玉依姫命」
戎殿「八重事代主命」
弁天社「市杵嶋姫命」
太田神社「太田々弥古命」 玉の緒神社「天御中主命」

由緒

 かっての住居表示は陶器村大字太田字上之である。陶器はスエキと訓む。
 この神社の森は太田の森と言う。『崇神紀七年』の大和の三輪の神大物主神を祀った陶村の大田田根子命に関わる地名である。大田田根子の父は大物主神、母は陶津耳の娘の活玉依姫命。『古事記』では大物主神の四世孫。



拝殿


 大和巻向の大田に鎮座する神社は式内社の天照御魂神社に比定されている。紀の国名草の大田には日前国懸神宮が鎮座、共に日の神と由縁が深い。大田命は猿田彦神とかその後裔とされるが、やはり日の神を祀り、移動を助けた神である。「大田」と日の神、この陶器邑の大田田根子命も三輪の大神を祀ったとの強い伝承が残っている所から見ると、三輪の神も日の神の片鱗があったものと思われる。現に、大和の幾つかの神社配置と三輪山からの日の出についての関連はつとに指摘されている。
 この陶荒田神社と配置と三輪山とはどのような関連が見て取れるのだろうか。参詣時には直接には三輪山を見ることはできなかった。それよりも金剛、葛城、それから思ったより離れて二上山がよく見えた。二上山の南側に竹内街道が通るが、遮る山のないこの峠越に三輪山が見えても不思議ではない。 
 三輪山が見えるライン上の高地で、かつ陶器生産の適地(粘土、木材)に神社が出来たと言うことであって、それがここの神社の神主だった大田田根子命が三輪山の祭祀に招かれた伝承となったのではなかろうか。渡来人の陶器をよくする技術者達を配下に組み入れるべく、三輪君や鴨君が赴いたのであろう。

 『古事記』によると大田田根子命は三輪君や鴨君の祖となっている。
 大田田根子命は河内の美努村にいたことになっている。この神社は上之でその東に見野山と言う地名が残る。陶器生産の遺跡が多い。また八尾市上の島町に御野県主神社が鎮座、この辺りとも言われているが、三輪山が見える訳でもない。 どうやら、時のハイテク生産基地の見野山付近でいいのだろうが、面白いのは「上之」「ミノ」が共通に出てくる

 荒田であるが、葛城国造の祖である「葛城の土神の劔根命」を祖とする荒田直を思わせるが、鴨氏の本拠地は葛城であり、地縁で結びついているとの『日本の神々3』で大和岩雄氏は述べておられる。



本殿


 初詣の為の準備と整美作業が女性陣の手によって行われていた。 神社の森は遠目にも濃密に見えている。社域も広く、おだやかな佇まいを感じる。


摂社 太田神社、玉の緒神社
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 入り口に万葉歌碑が出来ていた。
  梓弓 末のはら野に 鳥猟する 君が弓弦の 絶えむと思へや (巻十一 二六三八)
 末のはら野 の「末」を「陶」として、当地で詠われたものとしたようだ。

由緒 平成祭礼データから

  陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)
 陶荒田神社は崇神天皇の七年(西紀前九0年)の創建にかかり、延喜式(西紀九0五 年制定)にも載っている古社であります。素盞嗚命十世の孫大田々禰古命が勅命を奉 じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられました時に、祖先の神霊を斎き祀る ため、この陶村すなわち茅淳県(今の堺市付近)陶器郷の大田森に社を建立されたの が当社の起源であります。当社の付近に古代人の集落の跡や、付近に住んだ豪族たち の墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが、現在は泉北ニュータウン等の土地 開発によりその一部しか残されていません。陶荒田神社は陶器の守護神としても、こ の陶邑重要の地に鎮座ましましたことが推定されるのであります。社名陶荒田の由来 は祭神高魂命五世の孫剣根命の後に「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につと められたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたので あります。以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる 業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿 として祭祀を続けております。


お祭り


10月10日 3日間 例祭  だんじり


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