眞名井神社御由緒
当社は出雲国風土記に言う眞名井社、延喜式に記す出雲国意宇郡眞名井神社であり古 い歴史をもつ意宇六社の一つである。祭神は伊弉諾尊で国土生成の大神で夫婦の道を 興し人倫の大本を定め、禊祓の神業に依り天照大神、月讀命、素盞鳴命の三貴子を生 み成し給うた。天津彦根命は天之眞名井の狭霧に成りまし、古くから当地方に居住す る山代一族の始祖であらせられる彼れ出雲国造家に伝はる火継式に当社眞名井の神水 が用いられる所以である。古文に古来朝廷を始め奉り世々の国司、領主、藩主の崇敬 篤く別して出雲国造の崇敬は深かった中近世は、伊弉諾社と称されたが明治時代に旧 号に復し村社に列せられた社殿は、本殿、中門、拝殿、神楽殿三つの境内社から成る 。本殿は大社造りで寛文2年松江藩祖松平直政に依る軸立て殿内に神仏習合の名残を 止める彩色絵があり、昭和49年県文化財の指定を見た。拝殿は昭和9年の新築で土 間床式である。背後の社山は所謂神名樋野(山)で出雲国四神奈備の一つである。そ の東南麓に眞名井の滝を存す。祭日は10月17日が例祭で、神紋は当地特有の二重 亀甲に有の字である。 |
山代神社由緒
出雲の国風土記並びに延喜式神名帳(日本で最も古い全国神社調査書)にしるされ、 意宇郡山代郷(現在の山代町、竹矢町、八幡町、矢田町、東津田町、西津田町、上乃 木町、浜乃木町、古志原町)の郷社として、もと神名樋山(今の茶臼山)の中腹に鎮 座す。(現在も此の地に岩室の古跡あり)往時古志原村に産土神社なきため、天災凶 作つづき移住者定着することなく、民生安定せずとなし、鎮守社として藩許を得て、 延宝8年(1680)現社地に奉遷す。爾来、民生安定、厄除解運、家内安全を祈念 し崇敬あつし。 |
玉作湯神社と玉造温泉之由来
一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地) 御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地 温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太・ 社、植林・殖産・産業振興の祖神)。 玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であ ります。 「貞觀十三年十一月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で 旧県社であります。 櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩 戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百 箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰 がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え 、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉 命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神 に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作にな ったものと伝えています。 天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向 に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事 し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命 之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と 記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。 社宝 二.玉造温泉
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賣布神社略記
当社は出雲風土記に賣布の社、延喜式神名帳に賣布神社と列記され、社記及び世人に は白潟大明神、或は橋姫大明神とも称されてきた社であります。主祭神=速秋津比売 神の御鎮座は、神代においてその御孫神の櫛八玉神が御祖神として、又海河港湾の守 護神としてお祭り祈願なされたのに始まっています。境内摂社=和田津見社(海の若 宮、漁宮ともいう)には、古来当社の古伝祭の神事等、この神の御事蹟に縁がありま す。又、本殿合殿の三神は第20代安康天皇御宇2年秋八月朔日勧請と旧社記にあり ます。当社は古来意宇郡松江村の氏神様で白潟大明神と申すのは往古この一帯は海で あったが、次第には白砂が積って潟地形が出来たという意によってか、地名を白潟と 名づけ、いつの頃よりか地名を冠して白潟大明神とも称え奉るに至り、当社の御神徳 の発展と共にこの地いよいよ拓けたのであります。又、松江は湖川をはさんで南北に わかれ、古くは白潟と末次の往来は舟を用い、不便であったのを御神託により橋が架 けられた為、人々はこれを喜び、橋の守護神としても尊崇し橋姫大明神とも称したの であります。古来、国主より累代特別の御崇敬がありましたので、神領、宝物等の御 寄附が少なくありません。文禄年間には豊臣秀吉の立願により社殿を改造されたこと もあります。 |
石宮神社由緒・沿革
古老伝に曰く、神氏に大己貴命の御狩を成し給いし時猪を追いし犬即ち石となりしと 云う伝あり。何れの時代にや、その石に大己貴命の御分霊を齋き奉りて当地の産土神 と為したりと。故に社殿なし。只石の井垣ありて、その内に犬のうずくまりたるさま の石の神躰あるのみ。然るに明治五年神社の改正より村社となれり。明治三十九年勅 令第九十六号により大正二年五月十七日島根県告示第百七十三号を以て神饌幣帛料を 供進することを得べき神社に指定せらる。 |
揖夜神社御由緒略記
謹みて按ずるに當社は 伊弉冉命 大巳貴命 少彦名命 事代主命 の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へど も、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年 (紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布 夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清 和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三 年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に 出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他 に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は 太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出 東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前 )毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾 吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠 晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は 舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十 二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を 執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社とし て同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉 仕ありき。明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神 社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。 當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神 社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。 大祭 例祭 十月十九日
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意多伎神社(オタキジンジャ)
安来市飯生(イナリ)町鎮座 意多伎神社由緒略記 (一)御祭神 本殿 大国魂命、大田命 若宮 倉稲魂命 (二)由緒
意多伎神社の祭神・大国魂命
御譯神社の祭神・大田命(相殿)
若宮稲荷にます倉稲魂命
(三)境内、山林、その他
(四)祭礼
秋・十月九日 大祭
当地開拓の祖神、大国魂命を産土の神として主神に、そして大業補翼の神大田命、又 衣食住の神として、うがのみたまの命、これら三神が、ゆかりも深い意多伎の山に鎮 座ましますことは、当然のことであり、又神話の実証としてもまことに尊い極みであ る。このようにして大神の神話や伝説がこの地に、ゆたかに語りつがれて行くことは 、在住の人々の誇りでもあり、この里々に今も尚、神々の生活の息吹が、身近に感じ られるゆえんである。宮司神白明尚記 |
勝日高守神社
当社の由緒 延喜式上名帳に云う勝日高守神社、出雲風土記に云う加豆比高社是れなり、社殿は富 田月山の頂上にあり祭神記に述ぶるが如く大己貴命其幸魂の神に御遇い玉いしはすな わち此の地なり。故に幸魂神を山上に祀りて奥宮勝日高守神社とし、山麓に大己貴神 を祀りて里宮勝日神社とす。月山原と勝日山と云う境内に「かがみ石」と号する巌石 あり、命此の地に於いて神光を見玉いしにより如斯号けしものなり、此の処より北に 海洋を眺め山麓は当時入り海なりしと。今山麓に塩谷と云う氏子地あり往昔海湾なる の一証なり。 |
由緒
当社は、延喜式内社であって出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されています 。主祭神は伊邪那美命でありこの比婆山は、伊邪那美命の御神陵地としても有名で社 殿奥の御陵がそれである。また尼子・松平(母里藩)の崇敬社として栄えてきたが時 に子授・安産・子育ての守護神として出雲・伯耆など近在はもとより全国各地からの 参詣者が多く人々の信仰を集めている。 |
布自伎美神社由緒
本社は延喜式所載の古社にして、都留支日子命を鎮祭す別に合殿あり式内多気神社は 大已貴命を祭るその他合祀紙式内門江神社小祀縁結社あり出雲風土記に「須佐男命ノ 御子、都留支日子命ノ詔リタマワク吾敷キマセノ山口ノ処ナリト詔ヒテ山口ト負ハセ 給ヒキ故山口トイフナリ」とあり「風土記ニ布自伎爾社トアリ又布自伎美山モアリテ 其山二座神ナリ東川津村ノ山高ナル嵩大明神是也大穴持神ヲ祭ル」といえり社伝の古 文書によれば都留支日子命布自枳美山に宮所を領め吾吉所なりと詔り玉ふとあり社伝 に「おいて」創筆の由来を見るに最初は素より社殿なく大神は此山全体に清清しき神 奈備に御親ら御開顕玉える幽宮にし鎮座ましましと活気勇ましく嵩の神山を命の光輝 くたる神威により永久に領有き給いて神代より鎮り玉ふ後世に至り雄略天皇(第21 代)の御宇に初めて顕宮を建立したものと考察される。なほ、寛永年間(江戸時代1 624年)頃までは山7分以上社有であった多気神社後方弥仙に影向石としょうする 石神体の小祀あり世、俗、石の宝殿としょうす、式にも風土記にも布自枳美社、多気 社と2社ありと見れば往古には2社あれど天永2年(平安1110年)に1社を建立 して合殿したとある。本社は明治初年郷社に列せられ大神の御神徳は高大で武徳の守 護神として御霊験顕著なり国司崇敬社にして松平家の尊信厚く鼓の奉納あり弓矢の大 神として武人の崇拝頗る盛んなり又神社縁記に「藩士松平氏の客家老三谷半太夫の祖 正徳4年(江戸1711年)当社大神の神助により一命を助かり為に神社を再建し宝 剣を納め代々信仰す」とあり由緒異常なる古社にて棟札に「天永二辛卯歳神主吉岡次 郎左衛門」とあるは現宮司(吉岡惇雄)の祖先にしてなんじ子孫相次いで当社に奉仕 している。布自伎美峰山は海抜326〓にして山頂めがけて四季の眺望最高にして境 内より東へ十歩淡彩をこらせる中海の海波慢々として東南の山麓お洗ひ富士を思わせ る小さな出雲富士きぜんとして東天に天橋立を模して拡大なる如き夜見ヶ浜の延々な る清影の水に映して横斜せるを見る西は松江市及び静に美容を装したる女性湖水に嫁 島眼下に眺め遠くは斐川平野より出雲石見の境なる佐比売山を双眸の中に収むべく又 せみ色に覆われ高低参差たる雲南群山の遠影を隅なく展望する更に眺望すれば日本海 面双眸掠め晴天の日には隠岐の国をも煙波の中に望まるるのみならず鑑識家の言にい わく嵩山は山体の幾何的体式と山容の美術的形式と樹林青々の美彩とを巧に調和して 一種の山岳美を具象せる之をハルマントンの所謂第一次形式美の点より観察すれば土 壌安排の様式円滑にして山じわを畳める細大斜線の配合また最隠和なれば大いに静的 量美の発揮に成功せり伝伝と実に神人の感賞措かざるまのあるも宜なりというべし。 |
法吉神社御由緒
延喜式内社出雲風土記所載の社にして主祭神宇武加比比売命は大国主の兄八十神の厄 に遭い火傷をされた時に神産巣日命の大命を蒙り支佐賀比比売命と共に降臨、協治療 の大功を奏し給ひ、後此地に法吉鳥(鶯)と化して飛び渡り給う、古来宮所を鶯谷と 称す。創立は白鳳年間と言う。永禄年間現在地に造営、城主の崇敬厚く明治5年郷社 に列す。昭和56年島根県特別神社に指定せらる。杜域の樹木大木たるが故に大森大 明神と称し奉りき、一の古伝に往古奉幣使参向の事あり、その時菊花御紋章を神紋と なす事を許され給ひしとて今尚これを用ふ。合祀2栓の当地関係由緒詳ならざれども 人皇48代称徳天皇の御宇天平神護元年乙巳九月朔日の勧請と伝う。 |
美保神社略記
御祭神 三穂津姫命(みほつひめのみこと)別号大御前(おほごぜん)左殿(向って右の御殿 ) 事代主神(ことしろぬしのかみ)別号二御前(にのごぜん)右殿(向って左の御殿) 。 事代主神
三穂津姫命
御神徳
沿革
文化財
末社・其他
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佐太神社御由緒(社頭掲示用)
御祭神 北殿 天照大神、瓊々杵尊 中殿 佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉之男命 南殿 素盞鳴尊、秘説四座 御神徳・沿革
主祭神は佐太大神、日本海に面する加賀の神碕潜戸にご誕生になり、古の狭田国開拓 の祖神であり、出雲四大神の一柱として崇められ、家内安全、交通安全、五穀豊穣、 地鎮、海上安全、厄除等の諸願成就の神として古来深く信仰されてきたのである。 くだって、延喜式では、佐陀大社と記され、出雲二宮として仰がれ、後宇多院御領目 録によれば佐陀神領7百貫、鎌倉将軍家御教書によれば佐陀神主領2百80町歩とあ り、出雲国内諸社の間に特殊の地位を占めてきたのである。 御社殿
文化財
佐陀神能
摂末社
佐太神社御由緒略記(社頭配布用)
主祭神佐太大神は、世にいう猿田毘古大神で、出雲風土記によると加賀の神碕に御誕
生になり、佐太地方一円の祖神であり、古来福神、導の神として、交通安全の守護神
、船玉神、海上守護の神、寿守の神、地鎮の神として世上の信仰深く、清和天皇の貞
観年間には従四位下に叙され、後鳥羽院の頃には神門に勅額を掲げられたと伝えられ
る。また、後宇多院の時には神領7千貫で、神職224人と定められていたという。
延喜式(延長5年=927)には佐陀大社と記され、また出雲二宮と仰がれて出雲国
内諸社の間に特殊の地位を占めて来たのであります。佐陀大社御神事帳を始め、社記
古縁起によれば、当社年中の祭祀は75度あったといわれるが、そのうちの主なもの
は次の諸祭祀である。
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国司神社由緒
当社勧請年暦不詳。慶長年間に旧社地本国司より現今の社地へ奉遷し、天正7年秋鹿 鰐尾城主大廻三郎右衛門清長大に社殿を興し奉る。以来御社頭顕著なる変革なく、慶 長3年永禄2年天保2年の梁簡を存す。明治5年村社に列せられ同41年神饌幣帛料 供進の指定を受け、明治42年4月23日西長江鎮座新宮神社東長江鎮座姫二所神社 を始めて天森神社日御埼神社を合祀した。中にも新宮神社は既に古昔垂水神社を合祀 す。右は式内垂水神社にして出雲風土記に在神祇官と挙げられ、神階正六位上に坐し 延喜の官社に列せられ足日山の南麓なる河畔に鎮座ありしを河水漲溢して社地を冒し 依て新宮神社に合祀し奉る。其の旧地は猶祭壇を存し例規の祭典を怠らず。 |
許曽志神社由緒略記
御祭神猿田毘古命は「狭田国=さだのくに」の開発の祖である佐太大神と同一神であ り、その御神績から、産業振興、農耕の守護神として、記紀に記された天孫降臨の道 案内を務めたことから「道しるべ」−交通安全の守護神として、また、この時に出会 われた天宇受賣命と結ばれたことから「縁結びの神」−結婚安産の守護神として、ま た、古くから「白鬚大明神」とも称し奉り延命長寿の守護神として尊崇されている。 創祀年代は不詳であるが、「出雲風土記」には「許曽志社−在神祇官」と記され「延 喜式」には「許曽志神社」として記されている古社である。古くは現鎮座地の南方約 300メートルの地(記念碑建立地周辺−地名を「元宮」という−昭和60年圃場整 備事業により畑地が田地にかわった)に鎮座されていたが貞享元年(1684年)現 鎮座地「松尾山」へ奉遷した。創祀以来当地方民はもちろん、歴代国主の崇敬篤く、 多くの神領があったが中古没収されてわずかとなり、その名残りが地名に残っていた 。(宮田、神楽田)松平家が藩主となってから更に敬神の志篤く、初代直政公も度々 参詣したとの文書が残されている。三代綱近公は眼病の平癒を祈って自作の天満宮木 像を奉納、同時に公の夫人は羽子板を寄進した。この木像と羽子板は当社の社宝とし て保存されている。また、社殿の建立修復に際しては藩費の支出、貸与、収益興行の 免許等の特権の付与のあったことも諸文書に記されている。明治5年3月「村社」に 列せられ、大正11年7月には由緒の古いことから一躍「県社」に昇格になった。昭 和59年は現「松尾山」へ奉遷以来300年に当たる年であったので松尾山奉遷30 0年祭を斎行、元の宮地址へ記念碑を建立し、「許曽志神社由緒記」を刊行した昭和 63年4月には社務所を建て替え新築した。次期修復遷座祭は平成10年の予定であ る。 |
大野津神社由緒
当社は式内の古社で(今から一千年前延喜式神名帳登載)この地方に人が住みついた 古い時代から里人が奉祝崇敬した名社である。大野灘は大昔から湖北の重要な港であ ったので「津」という名が起こり、当社はまさに海陸交通の守護神でアった。風土記 の神話にある内神社の神が大野で狩りをされた頃もここから上陸されたであろうし、 中世大野城が湖北大野の地に築かれたのもこの港があったからであろう。昔から稲作 に最も大切なものは水であったがたまたまおとずれる干天続きの年には当社の「蛇骨 」を湖上に奉斎して雨乞のお祭りが斎行され、近郷近在の人々が大勢参拝して盛大に 行われた。当社は、かく農耕の守護神として、また、厄除安全の祈願所として古来人 々の畏敬信仰の深いお社である。寛永9年7月16日、米国の神道研究者メーソン博 士が社参、社伝、「雨乞神事」等を調査海外に紹介された。現在では、祭神の御神徳 を敬仰して年頭に厄災退散・交通安全の祈願祭を斎行している。 |
松尾神社(佐香神社)御由緒略記
出雲国風土記(天平5年2月)に、「佐香郷。都家の正東四里一百六十歩なり。佐香 の河内に百八十神等集い坐して、御厨立て給いて、酒を醸させ給いき。即ち百八十日 喜讌して解散坐しき。故、佐香という。」とある。 現在、当神社が鎮座されている小境は、出雲国風土記の「佐香」が転訛して、「古佐 香井・古酒井・古酒恵・濃酒井」となったものといわれている。 主祭神の「久斯之神」は、いわゆる、「薬師の神」であり、さらに、出雲国風土記の 古事にあるように、「酒造の神」でもある。また、「醸す」とは、ただに、酒を醸造 することのみでなく、醤油・米酢・味噌等を醸造することでもある。 一方、大山咋命は、世に言う「山を護る神様」で、森林業、鉱山業の守護神である。 そして、配祀神である天津彦彦火瓊瓊杵尊は、「海を護る神様」で、漁撈豊漁の神で
あるとともに、海上運航安全の神として広くあがめまつられている。
木花咲耶姫之命は、縁結びの神であり、安産の神である。
社殿の造営には、古来より、国造・国主の命によってなされており、国造・国主はも
ちろんのこと、藩主松平公ならびに、巡見使等、ことのほか崇敬されていた。これは
、現在、社宝とされている鎧一領および文箱一式が、松平家より奉納されていること
でもうかがわれる。
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出雲大社の由緒
八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られておりますのは神代の神々をまつ る古い神社が今日も到る処にあるからであります。そして、その中心が「だいこくさ ま」をおまつりした出雲大社であります。だいこくさまは「天の下造らしし大神」と も申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓 され、国造り、村造りに御苦心になり、農耕・漁業をすすめて人々の生活の基礎を固 めて下され、殖産の法をお教えになりましたし、医薬の道をお始めになって、人々の 病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのであります。だいこくさま は救いの親神さまであると共にすべてのものが自然の姿にあるように護って下さる親 神であります。 また、だいこくさまといえば出雲の神さま、出雲の神さまといえば縁結びの神さまと
申しますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が
立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるようにすべてのものが幸福で
あるようにと、お互いの発展のためのつながりが結ばれることであります。だいこく
さまが福の神と慕われ、すべての人々から広く深く信仰をおうけになっているのも、
この「むすび」の御神徳、即ちいいかえますと、我々に愛情を限りなく注いで下さる
神さまであるからであります。だいこくさまは私達の家庭の親が、子供の幸福を願っ
て教導保護するように、人間の幸福の「縁を結んで下さる」親神さまであります。
本殿は大国主神の御事蹟に対して建てられた宮であり、御神徳にふさわしい比類のな い日本一の大規模な木造建築であったと古事記・日本書紀という日本最古の書物にし るされています。九五〇年頃(平安時代)に出来た口遊という本によりますと、高さ は東大寺の大仏殿十五丈をこえる一六丈にも達した日本最大の建物であったようであ ります。一二〇〇年頃(鎌倉時代)になってからは規模を小さくし、現在の本殿は高 さ八丈六間四面で、一七四四年(延享元年、江戸時代)再建されたのであります。各 神社の本殿中、最古の甚だ特異な様式であり「大社造」と呼ばれています。本殿の白 木造りで簡素な直線的気高い姿は、今日でも壮観で圧倒的に印象を与えています。今 よりも更に高大であった鎌倉時代以前の偉容は想像をこえたものであったでしょう。 「雲にわけ入る千木」とか「この世のこととも覚えず」と当時の参拝者は驚異の眼を みはっています。 |
阿須伎神社
(社頭掲示板)
当神社の主祭神 阿遅須伎高日子根命は大国主命の長男神にして、かってはこの地に 阿須伎神社と称する同名の社が、出雲国風土記に38社、延喜式(905)に11社 もある、かっては著名な神社であったが現在は同名の社は当社を遺すのみである。 出雲大社の攝社として10月10日の例祭には出雲大社の宮司の名代が献幣使として 参向する。 国土創成 農耕の神として崇敬をあつめている。旧郷社 |
日御碕神社御由緒記
御鎮座の由来 日しずみの宮
神の宮
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美談神社
延喜式神名帳に美談神社と記し、出雲風土記にも彌太神社と記している。又、天保4 年(1833年)の出雲神社巡拝記にも美談村の条に記に云う(風土記)彌談彌神社 、式に云う(延喜式)美談神社とし「祭神はわかふつぬしの命なるべし」とある。巡 拝記によると「建長年の頃(1249〜1252)佐々木次郎左エ門泰清の七男広田 頼清のころ八幡宮を勧請せらぬと聞きぬ」とあるので、当国守護職塩冶氏の系累によ って勧請されたものであった。されば武家時代においては、その蔭に古代以来の在地 の守護神がかくれたまうのも、またやむを得ぬことであった」と記されている。つま り建長年間になって彌談彌神社がうしろにかくれ、表面に八幡宮が出てきたのである。 明治5年に村社に列せられた。寛永13年(1636)未曽有の洪水によって斐伊川 が東流し、これによって美談郷が分断され、斐伊川の北側が万治2年(1658)年 以来楯縫郡に属することとなり、明治22年市制、町村制によって国富村の一大字と なり昭和26年平田市と合体し、30年市制施行によって平田市美談町となった。 |
都武自神社
文徳実録、仁寿元年(851)によれば「速票風別命」を擢んでて従五位を授くとあ り、社伝によれば文暦(1234〜35)の頃から旅伏権現、又は旅伏神社、旅伏大 明神とも旅中安全の守護神として世人の尊敬厚かった。松平藩江戸勤番には、家中に 必ず安全符札を受けて行った。七代治郷(不味)は額面に社号を揮ouして寄進、そ の「旅伏社」の額面は現存している。その称号は亨保年代まで使われた様である。最 も古い棟札は「旅伏権現」寛永8年1631年。天文元年(1736)棟札は都武自 神社、宝暦9年(1759)は旅伏神社、明治維新まで用いた。明治4年神社取調に 復旧都武自神社、明治6年社伺高橋千川が講社活動し、明治13年教会講社創設、神 徳宣揚し、隆昌した。「都武自神社縁起」を見ると推古天皇20年(612)、此の 山の嶺に勧請し、都武自と称した。そのわけは、神武天皇がわが国を「秋津虫国」と され、そのつむしをとって社号としたとある。又、「旅伏」と云うのは、神武天皇東 征に旅にふす臥して敵を討たれたからであるといふ。多夫志峯烽記(天保3、183 2大江春平)によれば都武自別命は志那津比古、志那津比売神の荒御魂で速疾風とな って「天地の間を往来し、大御稜威を輝かし給うたと記し、多夫志は冦伏で火の威を おさえる意だとしている。延喜式内、出雲風土記所蔵社神田9畝18歩神領御色地あ り、明治4年3月郷社、明治40年2月16日神饌幣帛供進指定、国主藩主信仰厚く 、大祭に地頭代参、新酒2樽供進、祭費反引米があった。「式内社調査報告第二十」 |
宇賀神社の由緒
今を去る1,200年前、天平5年聖武天皇の御代、733年に作られたものに「出 雲風土記」があります。これによると、8世紀はじめの出雲の状況を詳しく知ること ができます。また出雲風土記から200年ばかりのちになってできた全国の神社を一 覧したものに「延喜式」の神名帳があります。これに載せられている神社は、いわゆ る「式内社」と申しまして由緒正しい古い神社であります。 わが宇賀神社は、この両方のいずれにも記載されておりまして、遠く長い昔から、私 達の先祖代々の人達によって祭られて参りました。 出雲風土記によりますと、大己貴命が神むすびの命の御子である綾門姫命に求婚され ました。ところが綾門姫命は承諾なさらないで、身を隠された。(求婚された女性が 身を隠し、それを求婚者の男性がさがし出すのは当時の習慣であって、そのことは播 磨風土記にもでております。)そこで大己貴命は、綾門姫命がどこへ身を隠されたの かと、出雲大社をでて、弥山、鰐淵山を経て宇峠のあたりを尋ね伺われた。それで宇 賀という地名になったというのです。現在西北方を奥宇賀、東南方を口宇賀と称して おります。 |
曽枳能夜神社
社頭掲示板)
曽枳能夜神社祭神、伎比佐加美高日子命、式内社である。 出雲風土記 神名火山の条に「曽枳能夜神社に坐す伎比佐加美高日子命社、即ち此の 山の嶺に在り、故に神名火山と云う」と見ゆ。 祭神 伎比佐加美高日子命は、この地方(キヒサの里)の首長神であり、出雲大神の 祀主である。 古事記 垂仁天皇の条に見える「出雲国造の祖、伎比佐都美と同神であり同条に云う 「石クマの曽の宮」は当社である |
久武神社[クム]
久武神社[くむ]「素盞嗚尊」雲神社島根県簸川郡斐川町大字出西字随心1834 玄松子の記憶
加毛利神社[カモリ]
加毛利神社[かもり]「天津彦火火出見命、豐玉毘賣命、天津彦瀲武鵜草葺不合命、大歳御祖命、御年神」宮崎明神島根県簸川郡斐川町大字神永字折坂1779
御井神社[ミヰ]
御井神社「木俣大神 配 八上姫命」島根県簸川郡直江町2518 出雲お社倶楽部
安産の神 御井神社由緒概略
御祭神 木俣大神(大国主大神) 八上姫大神(御母神) 御井神社が安産の神さまとして、深い信仰をうけているいわれは、日本最古の史書「 古事記」等に記載されている次の古事による。 「古事記上巻 大国主神の事績」要約 大国主神には大ぜいの兄弟があったが、みんな出雲の国を治めることをことわって、 大国主神にゆずってしまわれた。 その理由は、誰もが因幡の国の八上姫神と結婚して、むこうで住みたいからであった。 八上姫神は、姿も心もそれはそれは美しく、出雲の八十神たちの憧れのまとであった。 そこで、全員が求婚にゆくことになり、大国主神も従者として袋をかついでついてゆ くことになった。 (因幡の白兎は、この道中の物語である) 大国主神に助けられた白兎は、次のように予言している。 「八十神は必ず八上姫を得まじ。」 因幡につかれた神々等は、それぞれに八上姫神に求婚されたが、返事は白兎の言った 通り「大国主神と結婚いたします」というのであった。 それを知った八十神等は怒り狂って、大国主神を焼石や茹矢で苦しめるのである。 大国主神は、一たびは「根の堅州国」にのがれられるが、ほとぼりのさめるのを待っ て、再び因幡にいき、約束通り八上姫神と結婚された。 やがて八上姫神は妊娠され、大国主神と連れ立って出雲にいかれたが、大社には大変 嫉妬深い須世理姫神がいて、どうしても共に暮すことが出来ない。 やむなく臨月の体でこの直江の里までひき帰された時、急に産気づかれた。 ここでまず八上姫神は、生井(いくい)・福井(さくい)・綱長井(つながい)と、 三っの井戸を堀り、わき出る水をいただき、身を清めたところまことに安産で、玉の ようにうるわしい御子をあげられた。 次に御子も三井戸の水で産湯をさせ、健やかに成長される様子を見とどけてから木の 俣にあずけて、自分は因幡に帰られた。 これよりその御子を、木俣神又は御井神と申し上げ、当社の主祭神として鎮座になっ ている。 木俣神と八上姫神、それに三井戸を祀る当社は、以上のことから安産と育児の守護神 として霊験あらたかで、古来多くの人々から深く信仰されている。 昔から「当社を拝み、神秘の神符(ごふ)をいただくにおいては、安産うたがいなし 」と言われ、御守をしっかり身につけ、威大な御徳にすがれば、安産必定である。 木の俣の 三井の産湯の水なれば 祈らん人を 守る神垣(神詞) |
御由緒略記
延喜式、出雲風土記等所載の最も古い御社であります。 三柱の御祭神は、父神の須佐之男命と共に、仁多郡鳥上の峰に天降られ、木種を四方 に播き植えられた後、当地に下り来たりて鎮座なさり、植林、耕地の開発、建築等諸 産業の発展に努力されたという農村には誠に由縁の深い神々であります。 もともと当社は現在地より、未申方七町余り隔てた所(今の斐伊川中で神立橋のほぼ 大津寄り)に、御鎮座なさっていましたが、寛文年中、斐伊川の川床の変遷により、 万九千神社の境内に転社されたものであります。 さらに大正15年、千家部落に鎮座の客神社を合祀 客神社の創立年代不詳なるも、旧鎮座地の村名を千家村(出雲大社領)といい、この 社は千家国造崇敬の社であり、毎年11月大庭の神魂神社において、火継儀祭執行の 際、千家の里に宿泊所を設け、その折、この社に供物を捧げて祭事を執行されたと伝 えられています。 |
彌久賀神社
(社頭掲示板)
御祭神 (主祭神)天之御中主大神 (合祀祭神)宇賀御魂大神 当社主祭神は、天神国神(八百萬神)の最高位の神様が奉斎されております。 何時頃からこの地に奉られたか不明であるが和銅4年〜天平5年に出雲風土記、延喜 式及び出雲巡拝記を始め享保2年に松江藩公、雲陽誌等の故書に記され古社なること 明らかである。 出雲風土記に神門郡在神祇官社に美久我社(一の宮)とあり、延喜式明細帳に神門郡 彌久賀神社と記されている。出雲風土記に神門水海の条に園松山は国引の綱に当たり この松山の南端は「美久我林」とあるが、この美久我は彌久賀である。 なお美は敬称で久賀を陸、土地とすれば好き土地の意味である、また彌久賀神社は江 戸時代慶長元年〜嘉永6年まで社名を若一王子権現御社と言い以後彌久賀神社と称す 、嘉永4年に正六位上に叙せられ、明治4年に郷社となる。 |
阿利神社
本神社は出雲国風土記(733年)に阿利社と記してありまた延喜式神名帳(927 年)には阿利神社と明記してある。いわゆる式内社で由緒古い神社であって古来より 高西地区の崇敬神社として拝崇されている。祭神阿遅須枳高日子根命は天下造りたま いし大神(大国主神)と胸形(九州福岡宗蔵大社)の奥津宮の多紀理姫命との間に生 れ給うた神であり、塩冶神社の祭神塩冶毘古能命の親神である。 「アジ」は味の良いという意「スキ」は田を耕す農耕器具「タカヒコ」は高く輝く太 陽の子「ネノミコト」は物事に粘り強い性格を有する男神を意味する。 出雲国風土記に「高岸の郷郡家の東北二里なり所造天下大神の御子阿遅須枳高日子根 命甚く昼夜哭き坐しき仍りてその処に高屋を造りて坐させ即ち高橋を建てて登上り降 りして養し奉りき故高崖と云ふ神亀三年に字を高岸と改む」とあり、高岸が高西とな ったものと伝えられている即ち神の住居されたところにお祀りしたものである。 本神社はもと現在地より北々西約500米の市民会館西方の地にありしが明治15年 に故あって現在に至る。旧社地を記念し「延喜式内社阿利神社跡」の石碑が児童図書 館の西北隅に建立されている。 |
八野神社(旧郷社)
出雲風土記に「神門郡の八野社で延喜式の八野神社であり、従って式内社である」と 記されている。 御祭神は、須佐能袁命の御子「八野若日子女命」が主祭神で大年神と共に祀られてい る。 市内の式内社の中で古来のままの在地神と社地とを保ち続けている神社は珍しいとい われている。(四絡まちづくり推進協議会) |
久奈子神社
由緒・沿革 当社は、出雲風土記及延喜式神名帳に載れる神社にして嘉祥四年に正六位を授け奉り 、寛平五年に一階を加え奉り給えり。祭神伊邪那美命延喜式に記載ある久奈為社であ る。祭神速玉男命、事解男命出雲風土記に記載ある久奈子社同久奈子社の二坐は是で ある。創立年代詳かでないが、風土記当時は出雲国神門郡古志郷といい伊邪那美命の 時越の国人工人多数来たりて、築池、築堤を行い稲作大いに起こり、古志の字が用い られたとあり、律令時代出雲国庁のもとに、神門郡郡家があり、古志郷庁と狭結駅家 との合同庁舎が古志に置かれ大いに交易文化が繁栄したことが風土記にある。 古来社殿は古志新宮谷の宮床と、久奈子山に鎮座の久奈子社二社を中古久留須に鎮座 の久奈為社に移し三殿を合殿し、今の地に久留須神社と称し郷民に崇敬されてきた。 今も殿内に三殿を奉鎮しあり。明治五年壬申正月旧藩松江県神社取調の際村社に列ね 社号を、久奈子神社と改称し奉るべき旨の達しにより、久奈子神社と旧名に復し、之 により久奈為の社号は今廃名となり現在に至る。明治七年戌六月五日神社取調の際、 武御名方命、諏訪神社を当社に配祀し相殿とす。明治三十九年四月勅令第九十六号に より明治四十年二月十六日、島根県告示第二十三号を以て、神饌幣帛供進することを 得べき神社と指定される。 その後武甕槌命三武社、御食津神櫃守社、大歳命大歳社、誉田別命八幡宮の各社を大 正二年五月二十八日合祀出願、七月二日許可を得て、大正三年一月十五日合祀に至る 。古来より二頭の祭あり。久留須振鉾舞、獅子舞、神事華等あるも今は簡素化す。 |
富能加神社御由緒
主祭神 本牟智和気命、肥長比売命。合祭 伊弉諾尊、伊弉冉尊 創立年代は不詳であるが永久二年二月再建の棟札のあるところから見れば鳥羽天皇以 前に齋祀されたことは明らかである。社伝によれば延喜の御世には社殿も荘厳にして 朝廷の崇敬も篤かったのであるが後兵乱の為衰微し何時の頃からか安谷の星神山の中 腹の厳密に鎮め奉り麓に拝殿を設けて祭事を執行した。 明治四年十二月小野神社に代って所原見々久の産土神に指定された(見々久は明治十 七年六月御崎神社を産土神に定められ分離)。又明治四十四年十二月現在の小野山領 に移転し小野神社を合祀することとなった。 |
当神社は平安時代の初め頃(約千年前)から、当時石塚郷(後の石塚村、現大津町の東半分)の大氏神としてまつられてきた神社で、初めは稲田姫命をまつる稲田姫の社と、八岐大蛇の荒魂を鎮めて素盞嗚尊をまつる石塚の社(あるいは石神の社とも)とに分かれていましたが、およそ藩政時代の初め頃(約四百年前)、この両社を合せ、互に社名を異にするところから、石塚の異名の雲根をとって雲根神社と称するに至ったお社であります。
素盞嗚尊の荒魂は破邪顕正の威力を発揮したまい、稲田姫命の和魂は殖産興業の働きをなしたもうものとして、古くは出雲国造家を始め代々の領主・武将の尊信も篤く、藩政時代には出雲の国十五名社の一に数えられておりました。 以上 |
三屋神社由緒
当社は島根県飯石郡三刀屋町大字給下に御鎮座の式内社であって、出雲風土記に御門 屋社として神祇官に在りと記された古社である。延喜式神名帳には三屋神社と記して 郡内の筆頭に置かれ累代の祠官は常に幣頭を務めて来た家柄で当社が古来から上下の 崇敬を受けて居たことを如実に示して居る。 社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔ふて追 い払い給ふてから此処に宮居定め国土御経営の端緒を御開きになったのでその御魂が 高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等が此地に大神の御稜 を営みまた神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調進する こととなったので社号を大神の宮垣の御門とその神戸とに因んで御門屋社と号けたも のである。出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所は此の 地のみで他に一ヶ所も無いのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他 に一社もないことは特筆に値することである。 即ち風土記には「三屋郷 郡家の北東二十四里 所造天下大神の御門即ち此処に在り 故三刀矢と言ふ神亀三年字を三屋と改む 即ち正倉有り」と記されており大神の御 門と謂ふのが神社の所在を示したことであってこの神社が存在して居るので御門郷と 号くべきであるけれども此地には神社のみでなく神の御料に充てる為の田畑や山林な どが定められそれに付属した民戸があったのでその御門の民戸のある郷と云ふ意味で 御門屋郷と呼んで居たものである。当社はその郷中に坐す神社といふことを表す為に 御門屋に坐す大穴持命神社として御門屋社と号けられ出雲国造の一族で神門郡の大領 をして居た神門臣の祖先の伊我會然といふ人が当社の御門をその氏として神門氏と称 して居たのでその一族が居た地方を後に神門郡と号けるやうになった。この郷は三刀 屋市、給下村、伊萱、安田、尾崎、粟谷、殿河内、大谷、屋内、法師田、里坊等を併 せて一郷として居たので当社の祠官は三刀屋神社祇園社屋内村飛石大明神法師田村延 山大明神粟谷村吉備津神社の五社の神主幣頭を務め神祇官から風折烏帽子狩衣布斎服 を許されて居たものである。 当社の背後の現在峯寺山と呼んで居る山が、風土記の伊我山であって伊我といふのは 厳しいといふ意味を有し大神の御魂が御降りになるいかしき山として伊我山と号けら れ、神門臣伊加會然の名前も伊我山の會根に因んだものである。彼等が大神の御祭り を行ふ時に契斎をした場所を伊我屋と呼び其処には風土記所載の井草社が在る。また この伊我屋の在る場所を与會紀村と呼んで居たことも風土記に記されているが、この 村の名は神門臣等が祓ひを行なう際に身を濯ぐ村という意味で号けられたものである 。この伊我山は峯寺が創建されるまでは高丸と呼ばれていたがそれは大神の御魂を御 迎えする御室山といふ意味であって今も毎月二十四日には付近の住民が参拝し近年ま では厳寒の候でも裸参りが行なわれていた程の神名火山である。 (古墳)
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飯石神社由緒
出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、出雲国風土記に飯石郡 の条に「飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。」 また「郡家の正東一十二里なり。伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故伊毘志と云ふ 。」(神亀三年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐 石が御神体となっているので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐 境、磐座という自然信仰の形態をそのままの姿で現在に伝えている。又、この地を命 の降臨の聖地として、古来注連縄を用いないのも特殊の習慣である。 明治四十四年八月の遷宮工事の際、御霊代の本殿磐石のかたわら境内の字迫から、古 墳時代の祭祀用遺品とみられる高坏、壷などの須恵器類が出土した。 御祭神伊毘志都幣命は天照大神の第二の御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命 とも云い、国譲りに際して三穂之崎に事代主神を尋ね国土奉還の大業を成就された神 であるとされている。その時に使用された船を熊野諸手船という。 伊毘志都幣命は、出雲国造家の祖神にあたるため、古来正遷座祭には出雲国造御参向 のうえ、奉幣を奉られる習わしであったが、近年(昭和四十二年以降)に至り、例祭 にも国造御参向が慣習となっている。 |
須佐神社(参拝のしおり)
その昔、須佐の郷は唯茂れる山であり、僅かに川添いに猫額の耕地をもった寒村に過 ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ、 「この国は小さいけれ共よい国なり、我名を草木にはつけず土地につける」と仰せら れ大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの 地に一生を終えられてから二千有余年、その御神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は 生業を得て繁栄している。須佐大神の恩頼にかかぶりて、農業の成功を、交通の安全 を、畜産の発達を、子孫の繁栄を、良縁の結ばれんことを、諸障退散病気平癒を祈る もの、精神錯乱の恢復を祈請するもの、比較的交通の不便をいとわず陸続として来る 有様で、その御神徳の程がしのばれる。只惜しむらくは、須佐の大宮は何としても僻 陬の地であったため、中央との交渉、接触少なく、知られねばならぬことも知られず 、顕彰さるべき事もそのままに時は移り、時代時代で国守の崇敬は得ていたとしても 神社の社格のことも須佐国造家のことも他国の神社やそれに比して決して十分な待遇 がなされていなかった事は色々な事象に照らしても明らかで、後人の等しく遺憾と思 うところである。 須佐家の事を付け加えるならば須佐大宮司家が国土開拓に功うありし国つ神の末裔で あるというので国造に命ぜられたのは、二十四代益成宮司の時で成務天皇三十年(一 六十年)今より千八百年前のことである。それより出雲太郎、出雲次郎を名乗ってい たが、永享年中(一、四三四年)出雲国司にはばかり出の字を除き、代々交代に雲太 郎、雲次郎として今日まで連綿七十八代、二千六百四十余年を経ている。今の宮司建 紀氏は雲太郎である。須佐の姓は明治の始めにつけたもので、それまでは須佐国造某 と名乗るを常としていた。尚国造の制は大化の改新の時廃されたが、出雲、紀伊、阿 蘇及び尾張の国造だけは残されてその名を存している。 |
伊賀多気神社
伊賀多気神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式所載の古社であり、旧郷社であ る。 出雲風土記に神祗官社とせられている。 御鎮座地島根県仁多郡横田町角は、古代横田庄と申し、仙洞院御領地であった。 御祭神は五十猛命であり、合殿に父神素盞鳴尊と大己貴命を合わせ祀る。五十猛命は 父神を助けて大蛇退治をなされた神で、父神と共に朝鮮新羅国曾尸茂梨(そしもり) より樹木の種子を持ち帰りになられ、大蛇の荒らした山野にその種子を播き、治山・ 治水の実あげられると共に、日本全国に植樹・育林を奨められたので、山林の守護神 ・樹木の神様として、古くは朝廷並びに林業関係者の崇敬が厚かった。 祭日 祈年祭 四月八日 例大祭 十一月八日 新嘗祭 十二月八日 御社殿 御本殿 大社造 間口二間 奥行二間 通 殿 切妻造 間口一間半 奥行一間半 拝 殿 入母屋造 間口五間半 奥行二間 随神門 楽殿 社宝 隋神立像二躰(県文化財) |
出雲風土記に「汗乃遅社」、延喜式に「同社に坐す須美禰神社」とある社で加茂町宇治にあった社である。「同社」という意味は合社でなく別社として官幣を捧げた式内社である。現在の宇能遅神社(宇治)とは深い関係のあった神社である。棟札の記録によれば「天文九年(一五三六室町時代)九月再興」とあり、宇治より須美禰神社を立原の地に再興したもので、創立された年代は不詳である。宇能遅神社の御祭神のうち須美禰命を勧請し、後年、猿田彦命、天鈿女命を合祀したものである。更に雲陽誌には享保二年(一七一八年)に「立原村に宇治大明神あり」と記載されているが、これから考えてみると立原が宇治と共に近松の庄に入っていた頃に称されたものと思われる。以来数度にわたり社名の変更があったが、明治四年一二月現在の須美禰神社と称されるに至った。明治二十九年客神社を合祀し現在に至っている。 |
由緒
本社の創立は甚だ古く孝昭天皇三年に御分霊を武蔵国元官幣大社氷川神社に奉遷した と古史伝に記載されている。出雲風土記の樋社で延喜式に伊斐伊神社同社に斐伊波夜 比古神社とあり、創立当時は二社あった。樋社を斐伊神社と改称したのは、もとこの 郷の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により斐伊と改めた為である。文 徳天皇嘉四年神階正六位を授けられ、清和天皇貞観十年九月従五位下に同十三年十月 十日従五位上を授けられた。 延喜の制国幣小社に列せられた。中世より宮崎大明神と唱えられ地方九ケ村の崇敬が 厚かった。明治五年郷社に列せられた。昭和二十年十二月十五日「神道指令」によっ て社格を廃せられた。昭和二十年八月一日宗教法人となり神社規則を制定し、神社本 庁所属となった。昭和二十年八月七日国有境内地三〇九坪の無償譲与を受けた。昭和 二十八年六月十五日宗教法人の登記を完了した。昭和六十三年七月社務所改築し拡張 して神楽の演出が出来る様間口三間、奥行二間とした。同時に手水社を設けた。 |
加多神社
氏神 加多神社について 社名 加多神社(この加多は神様の開墾された田、即ち神田が変化したのだといわれ ています。) 祭神 少彦名命 配祀 大己貴命(大国主命のこと) 神阿多津姫命(木花咲耶姫命ともいう) 少彦名命の御事蹟
神社の起源
社格 元郷社(明治四年より)
祭礼日
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佐世神社由緒
祭神 須佐能袁命 奇稲田姫命 延喜式神名帳並ニ風土記所載ノ神社ニシテ上佐世下佐世両村ノ産土神トシテ明治四年 郷社ニ列セラル。 須佐能袁命ハ八岐大蛇ヲ退治シテ後、欣喜ノ余リ稲田姫ト神舞ヲナサレタ時、頭ニ刺 シテイタ佐世ノ木ノ葉ガ落チタ命ハ地ニ刺セト申サレ刺シタ木ガ今ノ佐世ノ社ナリ、 故ニ此ノ地ヲ佐世ト云フ。 後、出雲八所八幡ノ一社、佐世八幡ヲ合祀シ崇敬サレテイル神社デアル。 |
元郷社 海潮神社御由緒
御祭神 宇能活比古命 当社の創立は遼遠にして不詳なりといえども、御祭神のことは「出雲風土記」に見え 、「延喜式」には神祇官社として「国幣小社」の列に入り、「出雲風土記」に得塩社 として載せられている。 それより降って「出雲国式社考」、或は「雲陽誌」等には大森大明神と称され、天正 九年十一月造営の棟札があり、以来十六回の社殿造営の記録がある。武将武門を始め 一般の崇敬者篤く中でも当地地頭職の三笠弾正はこの社を祈願社として社領社地の寄 進をし、祈願神事に用ひし舞獅子頭を今に社蔵している。 明治維新迄は年々お札下げにて社領米の寄進が続いたが維新後廃止された。 然るに王政復古により明治五年一月郷社の社格に列せられ、同四十一年神饌幣帛供進 の神社に指定された。 創立以来千数百年社地社殿の移転・合祀等更になく現在に至る由緒正しい神社である 。 |