出雲国:187座 大2小185


意宇郡嶋根郡秋鹿郡楯縫郡出雲郡神門郡飯石郡仁多郡大原郡能義郡


意宇郡[オウ]:48座大1小47

熊野坐神社[クマノ](名神大)
熊野大社「櫛御食野命」風土記での大社はここ熊野と杵築の二社である。大神は更に佐太、野城の四大神である。 出雲国造神賀詞には「伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」の神名である。 島根県八束郡八雲村大字熊野字宮内2451 神社公式 玄松子の記憶 

前神社[サキノ]
熊野大社摂社稲田神社に合祀[いなた]「奇稻田姫命 配 脚摩乳命、手摩乳命 合 少彦名命、武御名方神」島根県八束郡八雲村大字熊野字宮内2451> 玄松子の記憶

能利刀神社[ノリト]
熊野大社摂社伊邪那美神社に合祀[いざなみ]「伊邪那美命 合 磐坂日子命、埴山姫命、稚産靈命、天兒屋根命、猿田彦命、天宇受賣命、五十猛命、麓山祇命、爾保都比賣命、山雷神、速玉之男命」住所は同上 玄松子の記憶

田中神社[タナカ]
熊野大社摂社伊邪那美神社に合祀 前掲

楯井神社[タテヰ]
熊野大社摂社伊邪那美神社に合祀 前掲

速玉神社[ハヤタマ]
熊野大社摂社伊邪那美神社に合祀 前掲

布吾弥神社[フコミ]
熊野大社摂社伊邪那美神社に合祀 前掲
玉作湯神社飛地摂社布吾彌神社[たまつくりゆ][ふごみ]「大名持命」島根県八束郡玉湯町大字玉造字辻堂 玄松子の記憶

磐坂神社[イハサカ]
磐坂神社[いわさか]「磐坂日子之命」島根県八束郡八雲村大字西岩坂946 玄松子の記憶

佐久佐神社[サクサ]  八重垣神社[やえがき]「素盞嗚尊、櫛稻田姫命 合 大己貴命、佐久佐神社の青幡佐久佐日古命」社名は「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」から。大原郡海潮郷須我から八重垣神社が佐草の地に進出し佐久佐神社を飲み込んだのであろう。社宝の板絵著色神像には「天照大神、市杵島比売命」「脚摩乳命、手摩乳命」「素盞嗚尊、稲田姫」が描かれている。島根県松江市佐草町字八雲床227 玄松子の記憶


眞名井神社[マナヰ]
眞名井神社[まない]「伊弉諾尊、天津彦根命」意宇六社(神魂、熊野、揖夜、真名井、八重垣、六所神社)の一つ。島根県松江市山代町字伊弉諾84 玄松子の記憶
眞名井神社御由緒
当社は出雲国風土記に言う眞名井社、延喜式に記す出雲国意宇郡眞名井神社であり古 い歴史をもつ意宇六社の一つである。祭神は伊弉諾尊で国土生成の大神で夫婦の道を 興し人倫の大本を定め、禊祓の神業に依り天照大神、月讀命、素盞鳴命の三貴子を生 み成し給うた。天津彦根命は天之眞名井の狭霧に成りまし、古くから当地方に居住す る山代一族の始祖であらせられる彼れ出雲国造家に伝はる火継式に当社眞名井の神水 が用いられる所以である。古文に古来朝廷を始め奉り世々の国司、領主、藩主の崇敬 篤く別して出雲国造の崇敬は深かった中近世は、伊弉諾社と称されたが明治時代に旧 号に復し村社に列せられた社殿は、本殿、中門、拝殿、神楽殿三つの境内社から成る 。本殿は大社造りで寛文2年松江藩祖松平直政に依る軸立て殿内に神仏習合の名残を 止める彩色絵があり、昭和49年県文化財の指定を見た。拝殿は昭和9年の新築で土 間床式である。背後の社山は所謂神名樋野(山)で出雲国四神奈備の一つである。そ の東南麓に眞名井の滝を存す。祭日は10月17日が例祭で、神紋は当地特有の二重 亀甲に有の字である。


鷹日神社[タカヒ]
鷹日神社[たかひ]「高皇産靈神、大日靈女貴尊、素盞嗚尊、宇迦之魂命」島根県松江市東津田町高杉1375 神社・仏閣

山代神社[ヤマシロ]
山代神社[やましろ]「山代日子命」島根県松江市古志原町73 玄松子の記憶
山代神社由緒
出雲の国風土記並びに延喜式神名帳(日本で最も古い全国神社調査書)にしるされ、 意宇郡山代郷(現在の山代町、竹矢町、八幡町、矢田町、東津田町、西津田町、上乃 木町、浜乃木町、古志原町)の郷社として、もと神名樋山(今の茶臼山)の中腹に鎮 座す。(現在も此の地に岩室の古跡あり)往時古志原村に産土神社なきため、天災凶 作つづき移住者定着することなく、民生安定せずとなし、鎮守社として藩許を得て、 延宝8年(1680)現社地に奉遷す。爾来、民生安定、厄除解運、家内安全を祈念 し崇敬あつし。


賣豆紀神社[ヒメツキ]
賣豆紀神社[めづき]「下照比賣命」もと宇売紀脇の山畑の小祠に鎮座。島根県松江市雑賀町1663 玄松子の記憶

野白神社[ノシロ]
野白神社[のしろ]「猿田彦命、天鈿女命」島根県松江市乃白町779 玄松子の記憶

布自奈大穴持神社[フシナオホナモチ]
布自奈大穴持神社[ふじなおおあなもち]「大己貴命」島根県八束郡玉湯町大字布志名字宮山151 玄松子の記憶

布自奈神社[フシナ]
布自奈大穴持神社摂社布自奈神社[ふじな]「事代主命」島根県八束郡玉湯町大字布志名字宮山151 玄松子の記憶

久多弥神社[クタ・]
忌部神社摂社久多美神社[いんべ][くたみ]「大穴牟遲神」明治44年其筋の指示に基き式内村社久多美神社などを合祀した。島根県松江市東忌部町957 玄松子の記憶

玉作湯神社[タマツクリユ] 
玉作湯神社「櫛明玉神、大名持神、少毘古那神 配 五十猛神」島根県八束郡玉湯町大字玉造字湯端508 玄松子の記憶
玉作湯神社と玉造温泉之由来
一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地)
御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地 温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太・ 社、植林・殖産・産業振興の祖神)。
玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であ ります。
「貞觀十三年十一月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で 旧県社であります。
櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩 戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百 箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰 がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え 、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉 命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神 に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作にな ったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向 に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事 し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命 之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と 記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。

社宝
1.上代各種玉類184点(重要文化財)
2.上代玉磨砥162点(重要文化財 )
3.上代ガラス製造ルツボ片と上代ガラス一括(重要文化財)

二.玉造温泉
玉造温泉は少彦名命の御発見と伝えられ、JR玉造温泉駅から玉造川に沿って上るこ と約2キロ、玉造郷にあって玉造川の清流を挟み、要害山、花仙山の二山を負って多 くの人家が相連なり渓間の一小区をなしています。
「出雲國風土記」意宇郡の条に「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神 吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る、故に忌部という即ち川辺に出湯あ り、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、或は道路に絡繹り、或はSI洲に郡集いて市 を成し、繽紛燕会。一濯すれば形容端正、再濯すれば万病ことごとく除く。古より今 に至るまで験を得ざることなし、故に俗人神湯といえり」と記されております。
以上 (注)文中のIは、「石」偏に「止」です。



同社坐韓國伊太神社[・・カラクニイタテ]
玉作湯神社に合祀「五十猛命」植林・殖産・産業振興の祖神。島根県八束郡玉湯町大字玉造字湯端508 『出雲国風土記』玉造湯神社の田宇社のこととしている。(『日本古典文学大系』)

賣布神社[ヒメフ]
賣布神社[めふ]「速秋津比賣神 配 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命」 島根県松江市和多見町81 玄松子の記憶
賣布神社略記
当社は出雲風土記に賣布の社、延喜式神名帳に賣布神社と列記され、社記及び世人に は白潟大明神、或は橋姫大明神とも称されてきた社であります。主祭神=速秋津比売 神の御鎮座は、神代においてその御孫神の櫛八玉神が御祖神として、又海河港湾の守 護神としてお祭り祈願なされたのに始まっています。境内摂社=和田津見社(海の若 宮、漁宮ともいう)には、古来当社の古伝祭の神事等、この神の御事蹟に縁がありま す。又、本殿合殿の三神は第20代安康天皇御宇2年秋八月朔日勧請と旧社記にあり ます。当社は古来意宇郡松江村の氏神様で白潟大明神と申すのは往古この一帯は海で あったが、次第には白砂が積って潟地形が出来たという意によってか、地名を白潟と 名づけ、いつの頃よりか地名を冠して白潟大明神とも称え奉るに至り、当社の御神徳 の発展と共にこの地いよいよ拓けたのであります。又、松江は湖川をはさんで南北に わかれ、古くは白潟と末次の往来は舟を用い、不便であったのを御神託により橋が架 けられた為、人々はこれを喜び、橋の守護神としても尊崇し橋姫大明神とも称したの であります。古来、国主より累代特別の御崇敬がありましたので、神領、宝物等の御 寄附が少なくありません。文禄年間には豊臣秀吉の立願により社殿を改造されたこと もあります。


來待神社[クマチ]
來待神社[きまち]「大物主櫛甕玉命、積羽八重事代主命、五十猛命」三社大明神。崇神天皇の頃大和から勧請。島根県八束郡宍道町大字上来待241 玄松子の記憶

佐爲神社[サヰ]
佐爲神社[さい]「猿田彦命」佐為明神島根県八束郡宍道町大字白石字宮1464 魁・神社巡拝記
佐為神社摂社高守神社[たかもり]「天鈿女命」島根県八束郡宍道町大字白石字宮1464
出雲路幸神社[いずもじさい]「猿田彦命、天鈿女命」島根県安来市西松井町88 玄松子の記憶
出雲路幸神社摂社天神社「少彦名命」島根県安来市西松井町88 玄松子の記憶

佐爲高守神社[サヰタカモリ]
佐為神社摂社高守神社「天鈿女命」島根県八束郡宍道町大字白石字宮1464 玄松子の記憶

完道神社[シゝミチ]
石宮神社「大己貴命」島根県八束郡宍道町大字白石字森脇638 いずもる
石宮神社由緒・沿革
古老伝に曰く、神氏に大己貴命の御狩を成し給いし時猪を追いし犬即ち石となりしと 云う伝あり。何れの時代にや、その石に大己貴命の御分霊を齋き奉りて当地の産土神 と為したりと。故に社殿なし。只石の井垣ありて、その内に犬のうずくまりたるさま の石の神躰あるのみ。然るに明治五年神社の改正より村社となれり。明治三十九年勅 令第九十六号により大正二年五月十七日島根県告示第百七十三号を以て神饌幣帛料を 供進することを得べき神社に指定せらる。

大森神社「大穴牟遲命 配 須佐之男命、少名彦神、事代主命、安閑天皇、建雄神」島根県八束郡宍道町大字佐々布字大森738 玄松子の記憶
氷川神社に合祀 「須佐之男命 ほか 合 大己貴命、事代主命、客大明神、大日貴尊」島根県八束郡宍道町大字龍臥山858

宇留布神社[ウルフ]
宇留布神社[うるふ]「大山祇命」山の神とは田畑を荒らす獣を退治する神でもあった。大神は即ち狼である。島根県八束郡八雲村平原2038 玄松子の記憶

須多神社[スタ]
須多神社「宇迦之魂命」島根県八束郡東出雲町大字須田523-1 玄松子の記憶

揖夜神社[イフヤ]
揖夜神社[いや]「伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命」出雲国風土記には[言屋社]と出ている。[イフヤ]は[イヤ]にかわり、[ユヤ]ともなる。祖谷、湯谷等の地名となる。意味は死者の国、霊の行き着くところであろう。古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記されている。島根県八束郡東出雲町揖夜字宮山2229 玄松子の記憶
揖夜神社御由緒略記
謹みて按ずるに當社は
 伊弉冉命  大巳貴命
 少彦名命  事代主命
の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へど も、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年 (紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布 夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清 和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三 年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に 出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他 に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は 太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出 東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前 )毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾 吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠 晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は 舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十 二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を 執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社とし て同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉 仕ありき。明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神 社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。

當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神 社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。

大祭  例祭  十月十九日
 祈年祭 四月十九日
 新嘗祭 十一月二十五日
古傳祭 田打祭 一月三日
    田植祭 六月
穂掛祭 八月二十八日
一ツ石神幸祭 同日



同社坐韓國伊太神社[・・カラクニイタテ]
揖夜神社本社域内の同社坐韓國伊太神社「素盞嗚命、五十猛命」風土記の[伊布夜社]である。島根県八束郡東出雲町揖夜字宮山2229 『出雲国風土記』伊布夜の社の同名社のこととしている。(『日本古典文学大系』)

筑陽神社[チクヤ]
筑陽神社[ちくよう]「事代主命 配 速飄別命」島根県八束郡東出雲町大字下意東字宮山815 玄松子の記憶

同社坐波夜都武自和氣神社[・・ハヤツムシワケ]
筑陽神社 前掲

山狹神社[ヤマサ]
山狹神社[やまさき]「伊弉諾尊、伊弉册尊、久志美氣濃命」島根県能義郡広瀬町大字上山佐598 玄松子の記憶

同社坐久志美氣濃神社[・・クシミケノ]
山狹神社坐久志美氣濃神社「伊弉諾尊、伊弉册尊、久志美氣濃命」島根県能義郡広瀬町大字上山佐598 玄松子の記憶

布辨神社[フヘ]
布辨神社[ふべ]「大山命、市杵嶋姫命」北方円山頂上の神地は旧社地。島根県能義郡広瀬町大字布部1158 魁・神社巡拝記

都辨志呂神社[ツヘシロ]
都辨志呂神社[つべしろ]「素盞嗚尊 配 岐戸神 合 大山祇神、金山彦神」島根県能義郡広瀬町広瀬字目谷口1415 玄松子の記憶

野城神社[ノキ]
能義神社[のき]「天穗日命」風土記の四大神の一つ野城大神である。農耕を進め開発につくした神として崇められていた。島根県安来市能義町366 玄松子の記憶

同社坐大穴持神社[・・ヲゝアナモチ]
能義神社に合祀「天穗日命 配 大己貴命、事代主命 合 譽田別命、經津主命、國常立命」前掲

同社坐大穴持御子神社[・・ヲゝアナモチノミコ]
能義神社に合祀「積羽八重事代主命」前掲

佐久多神社[サクタ]
佐久多神社[さくた]「天照大神」島根県八束郡宍道町上来待551 玄松子の記憶
本宮神社摂社伊努神社[いぬ]「天照大神」本宮神社は通称来待本宮と呼ぶ。島根県八束郡宍道町上来待1346 玄松子の記憶
嘉羅久利神社に合祀[からくり] 「素盞嗚尊、韓國五十猛命」島根県能義郡広瀬町広瀬364

同社坐韓國伊大神社[・・カラクニイタテ]
嘉羅久利神社に合祀 前掲  『出雲国風土記』佐久多の社の同名社のこととしている。(『日本古典文学大系』)

志保美神社[シホミ]
志保美神社[しほみ]「素盞嗚尊 配 大己貴命、稻田姫命」島根県能義郡伯太町大字井尻1025 魁・神社巡拝記

意多伎神社[オタキ]
意多伎神社[おたき]「大國魂神 配 大田神 合 日神、荒魂神」島根県安来市飯生いなり町679 玄松子の記憶
意多伎神社(オタキジンジャ)                        
安来市飯生(イナリ)町鎮座 意多伎神社由緒略記
(一)御祭神
本殿 大国魂命、大田命
若宮 倉稲魂命

(二)由緒
当社は西暦七二四年(奈良時代初期)に勘造された出雲風土記(七一三年)や延喜式 (九二七年)等に記載されている社であり、創立は遠く神代にさかのぼり、飯生大明 神として今日まで顕然として栄え、崇敬者は出雲、伯耆にまでいたり、数千を数え、 無上の崇敬と信仰をよせてきた社である。

意多伎神社の祭神・大国魂命
神代の昔、大国主命は、国土を開かんと、この地においでになって、人々を導き、朝 夕自ら鍬、鋤をとられて、農耕をすすめられたと伝えられている。この里はよほど地 味が豊かで、大神のみ心に叶った美しい土地であったであろう。出雲風土記の飯梨郷 (イイナシノサト)のくだりに「郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし 時、ここに於て御膳食し給いき。故飯成(イイナシ)と云う」神亀三年(西暦七二六 年)に字を飯梨と改む。と見えている。大神は久しくこの地で農耕を教え医薬を授け 、産業福祉の開発に力を尽し、人々の生活を安定して、平和な秩序ある社会を建設さ れたので、その功績の広大無辺であったところから、大国魂命と尊称して、この意多 伎山に斉き祀ったのである。飯梨郷(飯梨及び利弘(トシヒロ)、実松(サネマツ) 、矢田、古川、新宮、富田、田原などの村のこと)ともいう、飯生(イイナリ)(東 かがみの文治六年四月十八日の条には、飯生(イイナシ)と見えている。(飯成、飯 梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられ、又、郡家とは、今の松江市大草町六所神社 附近の国庁を云い、三十二里は十七・一〇五キロで、丁度当地にあたる。)

御譯神社の祭神・大田命(相殿)
大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神である。大田神と称え奉るは 、福縁を授け、衣食を守り給う時の尊称である、御譯とは教譯の意、又伎神として往 来の人を守り、塩筒の翁として製塩の方法を教え、海上を守り、或はさいの神として 夫婦の縁を結び、又置玉の神として寿命も守り給うなど人生の必要な事柄の守護神で ある。大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべて の教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられ た国津神である。最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。神幸式などで鼻高面をかむ り、祓いするのは、この神をなぞらえたものである。

若宮稲荷にます倉稲魂命
元は本社に合殿として祀ってあったが明治四年の遷宮の際、別宮を建立して若宮と称 し之に奉遷したもので、当社を食師(ミケシ)というのは、この地で大国魂命に食膳 を調達せられた神故に、当社に限り、食師神社と称え奉っている。即ち衣食住の守護 神であり、五穀の神として敬い奉っている。

(三)境内、山林、その他
この山を意多伎山(古語のオタベで、物を食べるの意)といい郷を飯成(イイナシ) 村を飯生(イナリ)(古くはイイナシと呼んでいた)といい、又この社の周辺一体の 田を稲積といっているのは、いずれもご祭神にちなんで付けられた地名で、大神が食 事をなさったことを物語るものに外ならない。その他飯盛(イイモリ)、一鍬畑、釆 盛(サイモリ)、牛の森、日仮屋山などの神跡地は、この附近に今でも多く残ってい る。

(四)祭礼
春・旧二月の初午祭と五穀祭(春の祭) 当日早朝境内の一隅を清め、いみ竹を立て、しめ縄を張りめぐらし、三つの釜を据え 、諸事万端を整える。御供炊(カ)き奉仕者(以前は四名、現在は二名)は白装束に 立ちえぼしをつけて祓いを受け、神火を奉じて炊き奉る。それより先に、三つの竹く だを釜に入れ、御神飯を炊く、終って本殿に献供、次に食師の社、続いて末社に献ず る、此のお祭りは、食師の倉稲魂神が、本殿の大国魂大神に御食をご調達になる古事 にならって行われる当社に於て、最も大切な儀式であって、創立当時から今日に伝承 される五穀古伝祭である。又最初に入れておいた三つのくだも一諸に奉進し、今年の 稲作のご託宣を受けると共に、五穀豊穣、厄災消除、家内安全を祈請するお祭りであ り、終日神楽、舞楽を奉納する。

秋・十月九日 大祭
前夜祭を執行し、数年前までは部落の若衆により、盛大な演芸会も大変にぎやかに催 され、境内は観客でにぎわった。当日、神田所作の新米にて御神飯、祝餅を調達し、 その他海川山野の種々のものを献供して、国家の隆昌、氏子崇敬者の繁栄を祈り、終 日神楽、及び小学生女子四人による舞楽の奉納をする。神幸式もかっては執行してい たが現在はない。以上は略記であるが、遠く神代創立の由緒深い社である故、旧藩時 代の武将の崇敬も厚く、松平家より釣燈籠等の奉納があり、又出雲国造、千家、北島 両家も、古よりご参詣になり、高張、奉幣等の奉納がなされている。前回の遷宮には 、古例によって、両家より参拝され、奉納の儀を執り行った。(その他の例祭につい ては略す)

当地開拓の祖神、大国魂命を産土の神として主神に、そして大業補翼の神大田命、又 衣食住の神として、うがのみたまの命、これら三神が、ゆかりも深い意多伎の山に鎮 座ましますことは、当然のことであり、又神話の実証としてもまことに尊い極みであ る。このようにして大神の神話や伝説がこの地に、ゆたかに語りつがれて行くことは 、在住の人々の誇りでもあり、この里々に今も尚、神々の生活の息吹が、身近に感じ られるゆえんである。宮司神白明尚記


阿羅波比神社[あらわい]摂社愛宕神社「加具土命」加藤義成り校注『出雲国風土記』による。島根県松江市中原町54 松江観光関係

同社坐御譯神社[・・ミヲサ]
意多伎神社に合祀 「大國魂神 配 大田神 合 日神、荒魂神」大田命とは猿田彦命の別名。この神は大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべての教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられた国津神である。最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。島根県安来市飯生町679

市原神社[イチハラ]
揖夜神社境外末社の市原神社「?」島根県八束郡東出雲町大字揖夜字宮山2229 出雲国神社めぐり

由貴神社[ユキ]
由貴神社[ゆき]「速秋津日子神」島根県松江市馬潟町266 神々の里出雲の地を訪ねて

勝日神社[カチヒ]
富田八幡宮境内摂社の勝日神社[とだ][かつひ]「大己貴神 配 須佐之男神、稻田姫神」八幡宮は欽明天皇三十一年に創立で、もと月山(旧称勝日山)に祀られていた。島根県能義郡広瀬町広瀬85 玄松子の記憶

勝日高守神社[カチヒノタカモリ]
勝日高守神社[かつひたかもり]「大己貴幸魂神 配 月夜見神」島根県能義郡広瀬町大字富田782 勝日高守神社 in 尼子史跡ガイド
勝日高守神社
当社の由緒
延喜式上名帳に云う勝日高守神社、出雲風土記に云う加豆比高社是れなり、社殿は富 田月山の頂上にあり祭神記に述ぶるが如く大己貴命其幸魂の神に御遇い玉いしはすな わち此の地なり。故に幸魂神を山上に祀りて奥宮勝日高守神社とし、山麓に大己貴神 を祀りて里宮勝日神社とす。月山原と勝日山と云う境内に「かがみ石」と号する巌石 あり、命此の地に於いて神光を見玉いしにより如斯号けしものなり、此の処より北に 海洋を眺め山麓は当時入り海なりしと。今山麓に塩谷と云う氏子地あり往昔海湾なる の一証なり。


田面神社[タヲモテ]
田面神社[たのも]「大日貴命」島根県能義郡伯太町大字安田520 神々の里出雲の地を訪ねて

久米神社[クメ]
熊野神社「伊邪那美之尊」島根県能義郡伯太町大字横屋字比婆山611-1 比婆山の案内
由緒
当社は、延喜式内社であって出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されています 。主祭神は伊邪那美命でありこの比婆山は、伊邪那美命の御神陵地としても有名で社 殿奥の御陵がそれである。また尼子・松平(母里藩)の崇敬社として栄えてきたが時 に子授・安産・子育ての守護神として出雲・伯耆など近在はもとより全国各地からの 参詣者が多く人々の信仰を集めている。



嶋根郡[シマネ]:14座並小

布自伎美神社[フシキミ]
布自伎美神社[ふじきみ]「都留支日子命 配 大己貴命 合 多紀理毘賣命、狹依毘賣命、多紀都毘賣命、國常立命、伊弉冉命、速玉男命、事解男命、天照大御神、菅原道眞、牛尾民部左衞門、仁徳天皇」 都留支日子命は須佐男命の御子。武勇絶倫。椋見国の祖。島根県松江市上東川津町1 神社
布自伎美神社由緒
本社は延喜式所載の古社にして、都留支日子命を鎮祭す別に合殿あり式内多気神社は 大已貴命を祭るその他合祀紙式内門江神社小祀縁結社あり出雲風土記に「須佐男命ノ 御子、都留支日子命ノ詔リタマワク吾敷キマセノ山口ノ処ナリト詔ヒテ山口ト負ハセ 給ヒキ故山口トイフナリ」とあり「風土記ニ布自伎爾社トアリ又布自伎美山モアリテ 其山二座神ナリ東川津村ノ山高ナル嵩大明神是也大穴持神ヲ祭ル」といえり社伝の古 文書によれば都留支日子命布自枳美山に宮所を領め吾吉所なりと詔り玉ふとあり社伝 に「おいて」創筆の由来を見るに最初は素より社殿なく大神は此山全体に清清しき神 奈備に御親ら御開顕玉える幽宮にし鎮座ましましと活気勇ましく嵩の神山を命の光輝 くたる神威により永久に領有き給いて神代より鎮り玉ふ後世に至り雄略天皇(第21 代)の御宇に初めて顕宮を建立したものと考察される。なほ、寛永年間(江戸時代1 624年)頃までは山7分以上社有であった多気神社後方弥仙に影向石としょうする 石神体の小祀あり世、俗、石の宝殿としょうす、式にも風土記にも布自枳美社、多気 社と2社ありと見れば往古には2社あれど天永2年(平安1110年)に1社を建立 して合殿したとある。本社は明治初年郷社に列せられ大神の御神徳は高大で武徳の守 護神として御霊験顕著なり国司崇敬社にして松平家の尊信厚く鼓の奉納あり弓矢の大 神として武人の崇拝頗る盛んなり又神社縁記に「藩士松平氏の客家老三谷半太夫の祖 正徳4年(江戸1711年)当社大神の神助により一命を助かり為に神社を再建し宝 剣を納め代々信仰す」とあり由緒異常なる古社にて棟札に「天永二辛卯歳神主吉岡次 郎左衛門」とあるは現宮司(吉岡惇雄)の祖先にしてなんじ子孫相次いで当社に奉仕 している。布自伎美峰山は海抜326〓にして山頂めがけて四季の眺望最高にして境 内より東へ十歩淡彩をこらせる中海の海波慢々として東南の山麓お洗ひ富士を思わせ る小さな出雲富士きぜんとして東天に天橋立を模して拡大なる如き夜見ヶ浜の延々な る清影の水に映して横斜せるを見る西は松江市及び静に美容を装したる女性湖水に嫁 島眼下に眺め遠くは斐川平野より出雲石見の境なる佐比売山を双眸の中に収むべく又 せみ色に覆われ高低参差たる雲南群山の遠影を隅なく展望する更に眺望すれば日本海 面双眸掠め晴天の日には隠岐の国をも煙波の中に望まるるのみならず鑑識家の言にい わく嵩山は山体の幾何的体式と山容の美術的形式と樹林青々の美彩とを巧に調和して 一種の山岳美を具象せる之をハルマントンの所謂第一次形式美の点より観察すれば土 壌安排の様式円滑にして山じわを畳める細大斜線の配合また最隠和なれば大いに静的 量美の発揮に成功せり伝伝と実に神人の感賞措かざるまのあるも宜なりというべし。


多氣神社[タケ]
多気神社[たけ]「武甕槌命 配 經津主命」島根県松江市上宇部尾町331 玄松子の記憶
布自伎美神社に合祀[ふじきみ] 前掲

久良弥神社[・・・]
久良彌神社[くらみ]「闇於加美神、速都牟自別神 配 都留支日子神、宇迦之御魂神 合 素盞嗚命、建御名方命」島根県松江市新庄町994 玄松子の記憶

同社坐波夜都武自分(別)神社[・・ハヤツタケシ]
久良彌神社に合祀 前掲

河上神社[カハカミ]
川上神社「大己貴命、高男命、稻田姫命」島根県松江市上本庄町921 玄松子の記憶

長見神社[ナカミ]
長見神社[ながみ]「瓊瓊杵命、木花開屋姫命」島根県松江市長海町59 神々の里出雲の地を訪ねて

門江神社[カドエ]
布自伎美神社に合祀 式内布自伎美神社に掲載済

横田神社[ヨコタ]
横田神社「大己貴命、事代主命」島根県八束郡美保関町大字森山277 玄松子の記憶

加賀神社[カカ]
加賀神社[かが]「枳佐加比比賣命 配 猿田彦命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大神」万治2年。主神は神魂命の子で猿田彦命を生む。島根県八束郡島根町大字加賀1490 伊萬太千

佐神社[ニサ] 
爾佐神社[にさ]「都久津美神、伊弉諾神、伊弉册神」島根県八束郡美保関町大字千酌1061 玄松子の記憶

佐能加志能爲神社[ニサノカシノイ]
爾佐能加志能為神社[にさかしのい]「大己貴命、天照大御神」島根県八束郡島根町大字野井155 玄松子の記憶

法吉神社[ノリヨシ]
法吉神社[ほっき]「宇武加比比賣命」島根県松江市法吉町582 玄松子の記憶
法吉神社御由緒
延喜式内社出雲風土記所載の社にして主祭神宇武加比比売命は大国主の兄八十神の厄 に遭い火傷をされた時に神産巣日命の大命を蒙り支佐賀比比売命と共に降臨、協治療 の大功を奏し給ひ、後此地に法吉鳥(鶯)と化して飛び渡り給う、古来宮所を鶯谷と 称す。創立は白鳳年間と言う。永禄年間現在地に造営、城主の崇敬厚く明治5年郷社 に列す。昭和56年島根県特別神社に指定せらる。杜域の樹木大木たるが故に大森大 明神と称し奉りき、一の古伝に往古奉幣使参向の事あり、その時菊花御紋章を神紋と なす事を許され給ひしとて今尚これを用ふ。合祀2栓の当地関係由緒詳ならざれども 人皇48代称徳天皇の御宇天平神護元年乙巳九月朔日の勧請と伝う。


生馬神社[イクマ]
生馬神社[いくま]「八尋鉾長依日子命」神魂尊の子。島根県松江市東生馬町235 玄松子の記憶

美保神社[ミホ]
美保神社[みほ]「事代主神、三穗津姫命」 島根県八束郡美保関町大字美保関608 玄松子の記憶
美保神社略記
御祭神
三穂津姫命(みほつひめのみこと)別号大御前(おほごぜん)左殿(向って右の御殿 )
事代主神(ことしろぬしのかみ)別号二御前(にのごぜん)右殿(向って左の御殿) 。

事代主神
天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大國主神の第一の御子神 様にましまして、天神の系を承けさせられた尊い大神様である。夙に父神を御扶けな されて國土の経営産業福祉の開発におつくしになった。天孫降臨に先だち天つ神の使 の神が出雲にお降りになって大國主神にこの國を天つ神に献れとお傳へになった時、 事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し 、畏しこの國は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あをふしがき )をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大國主神は そのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主神は多くの神神を 帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三 代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮 中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。
當神社古傳大祭である四月七日の青柴垣(あをふしがき)神事、十二月三日の諸手船 (もろたぶね)神事は、悠遠の昔、わが大神様が大義平和の大精神を以て無窮の國礎 を祝福扶翼なされた高大な御神業を傳承顕現し奉るものである。

三穂津姫命
高天原の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御姫神にましまして、大國主神の御后 神として、高天原から稲穂を持って御降りになり庶民の食糧として、廣く配り與へ給 うた有難い大神様で、美保といふ地名はこの神の御名にゆかりありと古書は傳へてゐ る。

御神徳
そもそも事代主と申す御神名は事知主の義であって、すべて世の中に生起するあらゆ る事を辧ヘ知しめて是非曲直を判じ邪を避け正に就かしめられる事の大元を掌り給ふ 意味で、平たくいへば人の世の日常の行為や行動を教導し主宰せられる偉大な御神徳 を頌へ奉ったもので、大神様は実に叡智の本躰、誠(真実、真事)の守神と拝し奉る 。又大神様を明神様・ゑびす様と申上げ釣竿を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影を ゑがいて敬ひ親しみ、漁業の祖神、海上の守護神と仰ぎ、水産海運の御霊験の廣いこ とはあまねく知られて居る通りである。そして大神様の大義平和叡智推譲の御神徳、 産業福祉の道をお拓きになった御神業、庶民慈育愛撫の御神恩を感謝尊崇し、福徳の 神と仰ぐ信仰は極めて廣く行きわたってゐる。
又當社に古くから傳って居る波剪御幣(なみきりごへい)は大神様の海上守護の神徳 に因んで、山なす狂乱怒涛をも推し切って航行を安泰ならしめ給ふ霊徳を表現した御 幣で、延いて水災火災病難等原因の何たるを問ふことなく人生に起る狂乱障害を祓除 し家内の安全家門の繁栄を守り給ふとしてこれが拝授を願ふ篤信者が多く、そのあら たかなる霊験は数多い開願報賽の絵馬によっても窺ふことができる。又経済商業に福 運を授け給ふ神としての信仰は、今もいろいろ土俗に残り、商業の「手拍ち」は天の 逆手の故事に起因すると申してゐる。
三穂津姫命は高天原の齋庭の稲穂を持ち降って農耕を進め給ふたので、當社には古く から御種を受ける信仰があり、安産守護の御神徳は、特に著しい。稲穂は五殻の第一 である米を意味するのは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごと くの生命力を表現してゐる。従って大神様は人間は云ふに及ばず一切の生物の生命力 を主宰せられる尊い大神様である。故に古人はその御種について、「これを頂いて帰 り時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯でも粳でも願望のものが出来る。然かのみな らず麦でも大豆でも小豆でも出来る。まことに不可思議な事である」と感嘆してゐる が、田植後には農家の人達の豊穣祈願のお参りが盛んであり、十二月三日の諸手船( もろたぶね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいひ、豊穣感謝の意味もあってこ れまた一般の参拝が頗る多い。
世界的文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハ−ン)はその紀行文の一節に初夏の田園風景 を叙し、美保神社の神札(世にせきふだと申す)が稲田に立てつらねられて居る状を 白羽の矢のやうであると感心し青々とした田の中に白い花が点々と咲いたやうである ともいひ、この白羽の矢の立って居る処では蛭が繁殖しないし飢ゑた鳥も害をしない と書いてゐる。これは豊作守護のおかげを端的に言ひ表はしてゐるものである。

沿革
さて當美保関は前に述べたやうに大神様の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下大 神とたたへまつる大國主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎へになった所であ り、又その地理的位置は島根半島の東端出雲國の関門で、北は隠岐、竹島、欝陵島を 経て朝鮮に至り、東は神蹟地、地の御前、沖の御前島を経て北陸(越の國)、西は九 州に通ずる日本海航路の要衝を占め、更に南は古書に傳へる國引由縁の地弓ケ浜、大 山に接し、上代の政治文化経済の中心であったと考へられる。現に考古学上の遺跡や 遺物によってもこれを窺ふことが出来る。かやうな訳で當神社は非常に古く此所に御 鎮座になり奈良時代巳に世に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇は隠岐 御遷幸の砌り神前に官軍勝利、王道再興を御祈願になったと傳へるが、其後戦乱の世 に軍事上、経済上の理由から群雄の狙ふところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸 殿宇を始めとして市街悉く兵火のため烏有に皈し、吉川廣家これを再興し日本海航路 の発達と共に上下の崇敬を加へ明治十八年には國幣中社御列格の御沙汰を拝し、更に 明治二十一年には叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた。

文化財
現在の御本殿は文化十年の造營であって、大社造の二殿連棟の特殊な形式で、世に美 保造又は比翼大社造等と申し國の重要文化財に指定されてゐる。御本殿のかかる形式 は文書によると天正年間にその痕跡が窺はれるが。現在の整備せられた構造は文禄五 年吉川廣家が朝鮮にあって立願のため御造營をした時まで遡ることが出来る。拝殿以 下は昭和三年の新營である。當神社の御祭神は鳴物を好ませ給ふと廣く信ぜられて種 々の楽器の奉納品が多く、そのうちの八四六点は美保神社奉納鳴物として、又諸手船 神事に用ゐる諸手船二雙及び社蔵のそりこ舟一雙は古代船舶の遺型を存するものとし て共に國の重要有形民俗文化財に指定され又隠岐、中海沿岸で漁業に使用せられたト モド船及び沖縄のサバニ−は共に県の有形民俗文化財に更に社蔵の古筆手鑑は県の有 形文化財に指定されゐる。

末社・其他
◎本殿、装束の間に奉齋する末社
 名稱       祭神
 大后社      神屋楯比売命、沼河比売命
 合祀姫子社    媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命
 合祀神使社    稻脊脛
○境内に奉齋する末社
 若宮社      天日方奇日方命、
 合祀今宮社    政清靈
 合祀秘社     神号不詳
 宮御前社     埴山姫命
 合祀宮荒神社   奧津比賣命、土之御祖神、奧津彦命
 合祀船靈社    天鳥船神
 合祀稻荷社    倉稲魂命
 恵美須社     事代主命
 随身       豐磐間門命、櫛磐間門命
 御靈石
○境外に奉齋する末社  
沖之御前     事代主命、活玉依媛命  
地之御前     事代主命、活玉依媛命  
客人社      大國主命  
合祀幸魂社    大物主命  
天王社      三穗津姫命  
地主社      事代主命、或は御穗須須美命と傳ふ  
久具谷社     國津荒魂神、多邇具久命  
客社       建御名方命  
合祀切木社    久久能智神




秋鹿郡[アイカ]:10座並小

神社[サタ]
佐太神社[さた]「佐太大神 配 秘説神四柱ほか」猿田彦神と同一視される。枳佐加比売が佐太大神を生む時の逸話として、流れてきた金の弓矢を暗い窟であることよと意って射放たれた。そのため貫通し光り輝いた。加賀の地名説話になっているが、佐太大神を太陽神とする理解もある。
出雲でも相当早い時期に人が住み着いた所である。縄文早期の佐太講武貝塚や弥生の古浦砂丘遺跡がある。島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内72 玄松子の記憶
佐太神社御由緒(社頭掲示用)
御祭神
北殿 天照大神、瓊々杵尊
中殿 佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉之男命
南殿 素盞鳴尊、秘説四座

御神徳・沿革
当社は出雲風土記に、佐太大神社あるいは佐太御子社とあり、三笠山を背に宏大な3 殿が相並び、千木高く御鎮座になっているので佐太3社とも称えられている御社であ る。

主祭神は佐太大神、日本海に面する加賀の神碕潜戸にご誕生になり、古の狭田国開拓 の祖神であり、出雲四大神の一柱として崇められ、家内安全、交通安全、五穀豊穣、 地鎮、海上安全、厄除等の諸願成就の神として古来深く信仰されてきたのである。 くだって、延喜式では、佐陀大社と記され、出雲二宮として仰がれ、後宇多院御領目 録によれば佐陀神領7百貫、鎌倉将軍家御教書によれば佐陀神主領2百80町歩とあ り、出雲国内諸社の間に特殊の地位を占めてきたのである。

御社殿
御本殿三宇は各々通殿があり、通殿によって各中門に接続し、中門は翼廊によって互 いに連結され、この翼廊より本殿左右を囲む透塀は社後の三笠山に衝き当たってとど まる。
本殿は三殿並立で、中央が正中殿、向かって右が北殿、左が南殿いずれも大社造りで 、このような豪壮な三殿構えは平安末期に成立したようであり、他に類例を見ないも ので、神社建築史上特筆すべきことである。
現在の御社殿は文化4年の造営であるが、その様式は元亀年間の造営を踏襲してきた もののようである。国の重要文化財に指定されている。

文化財
彩絵檜扇、龍胆瑞花鳥蝶文彩絵扇箱、色々威五十八間筋兜、色々威胴丸、色々威腹巻 (以上重要文化財)蛭巻薙刀、野太刀、舞楽面、鰐口、線刻十一面千手観音鏡像、着 彩阿弥陀来迎図鏡像、御供台(以上県文化財)

佐陀神能
御座替祭、例祭に執行する神事芸能で、その起こりは極めて古いものとされ、出雲流 神楽の源流といわれている。剣舞、散供、清目、御座、勧請、手草、八乙女の七座よ りなる採物舞と、祝言としての式三番、そして大社(佐陀)、真切目、恵比須、八幡 、武甕槌、日本武、磐戸、三韓、八重垣、荒神、住吉、厳島の12座よりなる当社を 始め諸社の縁起を演舞する神事舞からなっている。国の重要無形文化財に指定されて いる。

摂末社
田中神社 御本社北殿の摂社で、西社は木花開耶姫命を祀り縁結、安産。東社は磐長
姫命を祀り縁切、長寿の信仰がある。
北四社末社 本殿北側に座す、山王社、宇智社、玉御前社、竹生島社。
南四社末社 本殿南側に座す、戸立社、振鉾社、垂水社、天神社。

佐太神社御由緒略記(社頭配布用)
当社は島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内に鎮座になり、出雲国風土記(天平5年=7 33)に、佐太御子社もしくは佐太大神社と記されている古い神社で、境内地1万参 千余坪に本殿、直会殿、舞殿、神門および数宇の摂末社等の諸建造物を有し、本殿は 、三殿並立の大社造り(国指定重要文化財)である。祭神は、正中殿に佐太大神、伊 弉諾尊、伊弉冉尊、速玉之男命、事解男命、北殿には天照大神、瓊々杵尊、南殿には 素盞鳴尊、秘説四座の神々が祀られている。

主祭神佐太大神は、世にいう猿田毘古大神で、出雲風土記によると加賀の神碕に御誕 生になり、佐太地方一円の祖神であり、古来福神、導の神として、交通安全の守護神 、船玉神、海上守護の神、寿守の神、地鎮の神として世上の信仰深く、清和天皇の貞 観年間には従四位下に叙され、後鳥羽院の頃には神門に勅額を掲げられたと伝えられ る。また、後宇多院の時には神領7千貫で、神職224人と定められていたという。 延喜式(延長5年=927)には佐陀大社と記され、また出雲二宮と仰がれて出雲国 内諸社の間に特殊の地位を占めて来たのであります。佐陀大社御神事帳を始め、社記 古縁起によれば、当社年中の祭祀は75度あったといわれるが、そのうちの主なもの は次の諸祭祀である。
2月15日の管粥祭、これは、粥占の神事で、籾種を授与するので一にお種祭ともい い、管に表れた小豆粥の詰り具合で五穀の豊凶を卜する。
5月3日の直会祭、この祭典は直会殿の神事を主とする所からこのように呼ばれ、や ぶさめ神事、猿田三番舞、直会神事、獅子舞等を執行する。
5月20日より25日までの神在裏月祭、7月15日のお田植祭、9月24日の御座 替神事、この神事は19日より斎戒沐浴日夜勤行の後、24日夕刻摂末社より次第に 御座替式を奉仕して南殿、北殿、正中殿に及ぶもので、25日は弊帛を奉って祝賀の お祭りを行う。また、両日ともに夕刻より七座神事、能神事を催す。これは剣舞、散 供、勧請、手草、八乙女の七座よりなる採物舞である。そして能神事は当社を始め諸 社の縁起を演舞する神事舞である。これに大社、真切目、恵比須、八幡、武甕槌、日 本武、磐戸、三韓、八重垣、荒神、住吉、厳島の12段があり、国の重要無形民俗文 化財に指定されている。11月20日より25日までは神在祭である。これは10月 を一般には神無月というが、出雲国だけは神在月と称している。現在11月の祭礼は 旧暦10月を陽暦に改めたものである。社伝によると、正中殿の御祭神伊弉冉尊の神 去りました旧暦10月に八百萬の神々が当社に参集されるので、幟も立てず、神楽も あげぬ厳粛な物忌みがなされるところからお忌み祭とも云う。この祭には神迎え神事 、注連口神事、神等去出神事、船出神事、止神送り神事、柴刺神事、宿借神事等があ るので、古来当社を「神在りの社」とも云っている。また、この祭りに必ず龍蛇の出 現ということがある。佐太の龍蛇といえば広く人口に膾炙した奇瑞であって、火難、 水難を始め一切の災厄を除去し、農作、商売、魚漁の福祉を守護する霊物として信仰 されている。これが年毎時を変えず神在の浜すなわち佐陀の浦辺に現れ当社に納めら れる。古歌に 出雲なる神在月のしるしとて龍蛇の上る江積津の浜 御宝物に、色々 威胴丸、色々威腹巻、色々威五十八間筋兜、彩絵檜扇、龍胆瑞花鳥蝶文、彩絵扇箱、 (以上重文)蛭巻薙刀拵、野太刀、舞楽面(陵王)、鰐口、線刻十一面千手観音 鏡像、着彩阿弥陀来迎図鏡像、御供台、(以上県指定)等がある。
なお、当社付近には、佐太講武貝塚(史跡)、佐太神社前弥生式遺跡、古浦弥生式遺 跡、志谷奥銅剣、銅鐸出土地、古城跡、身澄池、神ノ目山、伊弉諾浜、苗松、神出島 、加賀潜戸、お的山、佐陀奥院成相寺等々の当社ゆかりの地がある。


宇多紀神社[ウタキ]
佐太神社摂社宇多紀社[うたき]「下照姫命」島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内72 玄松子の記憶

大井神社[オホイ]
大井神社[おおい]「水罔象女神、大井乃神」島根県八束郡鹿島町大分名分字大井1242

日田神社[ヒタ]
佐太神社境内摂社日田社[ひだ]「日田神」島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内72 玄松子の記憶

御井神社[ミヰ]
佐太神社境内摂社御井社[みい]「御井神」島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内72 玄松子の記憶

内神社[ウチ]
内神社[うち]「和加布都努志命、下照姫命」島根県松江市大垣町746 玄松子の記憶

垂水神社[タルミ]
佐太神社境内摂社垂水社「垂水神」島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内72 玄松子の記憶
國司神社[くにし]「國常立尊、大國主命、稻田姫命 合 事解男命、罔象女命、秋鹿姫命、譽田別命、天之御中主命、天照大神」島根県松江市西長江町512
国司神社由緒
当社勧請年暦不詳。慶長年間に旧社地本国司より現今の社地へ奉遷し、天正7年秋鹿 鰐尾城主大廻三郎右衛門清長大に社殿を興し奉る。以来御社頭顕著なる変革なく、慶 長3年永禄2年天保2年の梁簡を存す。明治5年村社に列せられ同41年神饌幣帛料 供進の指定を受け、明治42年4月23日西長江鎮座新宮神社東長江鎮座姫二所神社 を始めて天森神社日御埼神社を合祀した。中にも新宮神社は既に古昔垂水神社を合祀 す。右は式内垂水神社にして出雲風土記に在神祇官と挙げられ、神階正六位上に坐し 延喜の官社に列せられ足日山の南麓なる河畔に鎮座ありしを河水漲溢して社地を冒し 依て新宮神社に合祀し奉る。其の旧地は猶祭壇を存し例規の祭典を怠らず。


惠曇神社[ヱトモ]
惠曇神社[えとも]「磐坂日子命」島根県八束郡鹿島町佐陀本郷655 玄松子の記憶
惠曇神社「磐坂日子命」江角大明神島根県八束郡鹿島町大字恵曇町374 玄松子の記憶

許曾志神社[コソシ]
許曾志神社[こそし]「猿田毘古命、天宇受賣命」猿田毘古命は「狭田国=さだのくに」の開発の祖である佐太大神と同一神。島根県松江市古曽志町859-2 玄松子の記憶
許曽志神社由緒略記
御祭神猿田毘古命は「狭田国=さだのくに」の開発の祖である佐太大神と同一神であ り、その御神績から、産業振興、農耕の守護神として、記紀に記された天孫降臨の道 案内を務めたことから「道しるべ」−交通安全の守護神として、また、この時に出会 われた天宇受賣命と結ばれたことから「縁結びの神」−結婚安産の守護神として、ま た、古くから「白鬚大明神」とも称し奉り延命長寿の守護神として尊崇されている。 創祀年代は不詳であるが、「出雲風土記」には「許曽志社−在神祇官」と記され「延 喜式」には「許曽志神社」として記されている古社である。古くは現鎮座地の南方約 300メートルの地(記念碑建立地周辺−地名を「元宮」という−昭和60年圃場整 備事業により畑地が田地にかわった)に鎮座されていたが貞享元年(1684年)現 鎮座地「松尾山」へ奉遷した。創祀以来当地方民はもちろん、歴代国主の崇敬篤く、 多くの神領があったが中古没収されてわずかとなり、その名残りが地名に残っていた 。(宮田、神楽田)松平家が藩主となってから更に敬神の志篤く、初代直政公も度々 参詣したとの文書が残されている。三代綱近公は眼病の平癒を祈って自作の天満宮木 像を奉納、同時に公の夫人は羽子板を寄進した。この木像と羽子板は当社の社宝とし て保存されている。また、社殿の建立修復に際しては藩費の支出、貸与、収益興行の 免許等の特権の付与のあったことも諸文書に記されている。明治5年3月「村社」に 列せられ、大正11年7月には由緒の古いことから一躍「県社」に昇格になった。昭 和59年は現「松尾山」へ奉遷以来300年に当たる年であったので松尾山奉遷30 0年祭を斎行、元の宮地址へ記念碑を建立し、「許曽志神社由緒記」を刊行した昭和 63年4月には社務所を建て替え新築した。次期修復遷座祭は平成10年の予定であ る。


大野津神社[オホノツ]
大野津神社[おおのつ]「須佐之男命」大野灘は大昔から湖北の重要な港であった。島根県松江市大野町243 玄松子の記憶
大野津神社由緒
当社は式内の古社で(今から一千年前延喜式神名帳登載)この地方に人が住みついた 古い時代から里人が奉祝崇敬した名社である。大野灘は大昔から湖北の重要な港であ ったので「津」という名が起こり、当社はまさに海陸交通の守護神でアった。風土記 の神話にある内神社の神が大野で狩りをされた頃もここから上陸されたであろうし、 中世大野城が湖北大野の地に築かれたのもこの港があったからであろう。昔から稲作 に最も大切なものは水であったがたまたまおとずれる干天続きの年には当社の「蛇骨 」を湖上に奉斎して雨乞のお祭りが斎行され、近郷近在の人々が大勢参拝して盛大に 行われた。当社は、かく農耕の守護神として、また、厄除安全の祈願所として古来人 々の畏敬信仰の深いお社である。寛永9年7月16日、米国の神道研究者メーソン博 士が社参、社伝、「雨乞神事」等を調査海外に紹介された。現在では、祭神の御神徳 を敬仰して年頭に厄災退散・交通安全の祈願祭を斎行している。



楯縫郡[タテヌヒ]:9座並小

玖潭神社[クタミ]
玖潭神社[くたみ]「大穴牟遲大神」大社の遷宮毎に古材木、御内殿、御神輿を下渡する慣習がある。島根県平田市久多美町301 魁・神社巡拝記

佐香神社[サカ]
佐香神社[さか]「久斯之神、大山命」島根県平田市小境町108 玄松子の記憶
松尾神社(佐香神社)御由緒略記
出雲国風土記(天平5年2月)に、「佐香郷。都家の正東四里一百六十歩なり。佐香 の河内に百八十神等集い坐して、御厨立て給いて、酒を醸させ給いき。即ち百八十日 喜讌して解散坐しき。故、佐香という。」とある。
現在、当神社が鎮座されている小境は、出雲国風土記の「佐香」が転訛して、「古佐 香井・古酒井・古酒恵・濃酒井」となったものといわれている。
主祭神の「久斯之神」は、いわゆる、「薬師の神」であり、さらに、出雲国風土記の 古事にあるように、「酒造の神」でもある。また、「醸す」とは、ただに、酒を醸造 することのみでなく、醤油・米酢・味噌等を醸造することでもある。
一方、大山咋命は、世に言う「山を護る神様」で、森林業、鉱山業の守護神である。

そして、配祀神である天津彦彦火瓊瓊杵尊は、「海を護る神様」で、漁撈豊漁の神で あるとともに、海上運航安全の神として広くあがめまつられている。 木花咲耶姫之命は、縁結びの神であり、安産の神である。 社殿の造営には、古来より、国造・国主の命によってなされており、国造・国主はも ちろんのこと、藩主松平公ならびに、巡見使等、ことのほか崇敬されていた。これは 、現在、社宝とされている鎧一領および文箱一式が、松平家より奉納されていること でもうかがわれる。
10月13日は秋季大祭である。この日を前後して、翌年2月ごろまで、酒造りの「 杜氏」ならびに、各種醸造の関係者の参拝はあとを絶たない。しかも中国5県は言う に及ばず、遠く四国・九州・神戸の灘地域からも参詣され、御霊験はますますあらた かである。
明治29年11月19日付、勅令第287号酒造税法施行規則第45条に依り、「濁 酒年一石以下無税」の許可を得て今日にいたり、大祭当日は、一般参拝者一同、この 神酒を戴いて、家内安全、五穀豊穣を祈るのである。
佐香川の清き流れを汲む人は世にもまれなる酒醸すらん(千家尊紀)
千代八千代神世ながらに佐香の山ふるきみ山を仰ぐ尊さ(北島全孝)



宇美神社[ウミ]
宇美神社「布都御魂神」もと沼田郷の奥に鎮座。島根県平田市平田町688-1 魁・神社巡拝記 わくぐりさん

多久神社[タク]
多久神社[たく]「多伎都彦命、天御梶姫命」大船大明神。大船山は神名備山である。巨石がある。島根県平田市多久町274 玄松子の記憶

御津神社[ミツ]
御津神社[みつ]「伊弉諾命、伊弉册命、天照大神、素盞嗚命、天兒屋根命、瓊瓊杵命」島根半島北岸に鎮座、一帯は狭いながら川に沿って平地が開けている。古代は極めて不便な土地であった。頭屋制による「御的神事、御田植神事、餅搗もちつき神事」が営まれる。島根県平田市三津町1593-続-1 魁・神社巡拝記

能呂志神社[ノロシ]
能呂志神社[のろし]「伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、素盞嗚尊、兒屋根尊、瓊瓊杵尊 配 大己貴神」島根県平田市野石谷町664 神々の里出雲の地を訪ねて

許豆神社[コツ]
許豆神社[こず]「須佐之男命」両許豆神社の鎮座地はやや広潤な土地が開け、農業、海産物の集散にも適している。島根県平田市小津町212 神々の里出雲の地を訪ねて

許豆神社[コツ]
許豆神社「志那津毘古命、志那津毘女命」島根県平田市小津町南92 写真ちゃん

水神社[・・]
水神社「天御中主神、罔象女之命、御井神」島根県平田市本庄町674 魁・神社巡拝記


出雲郡[イツモ]:58座大1小57

大穴持神社[オホアナモチ]
郡中最高位の式内社が来る位置にこの神社がある。国造が、熊野大社より一格低い杵築大社のお膝元に本拠を移さざるを得なかったが、そのためにも杵築大社の祭神を天津神とするべく素盞嗚尊としたが、やはりこの地域は大己貴命の本拠であるので、大穴持神社を筆頭においたのであろう。出雲大社の裏山を八雲山と言うが、この山に西向きの穴があり大蛇が多く生息していたと言う。蛇山である。ここに西向きに祀られていると言う。

杵築神社[キツキ](名神大)
出雲大社[いずもおおやしろ]「大國主大神」都から見て鬼門である。神々を流した地であるとの説を梅原猛氏が唱えた。出雲は半島にも近く、銅鐸銅剣のおびただしい発見から見ても、ただならぬ地域である事は間違いはない。この社は長元四年(1031年)、康平四年(1061年)、天仁二年(1109年)、保延七年(1141年)、承安二年(1172年)と約30年間隔で倒壊している。朝廷の東国遠征とタイミングを合わしているようであり、出雲と東国の共通項が見えてくるのである。島根県簸川郡大社町杵築東195 出雲大社公式hp 玄松子の記憶
出雲大社の由緒
八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られておりますのは神代の神々をまつ る古い神社が今日も到る処にあるからであります。そして、その中心が「だいこくさ ま」をおまつりした出雲大社であります。だいこくさまは「天の下造らしし大神」と も申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓 され、国造り、村造りに御苦心になり、農耕・漁業をすすめて人々の生活の基礎を固 めて下され、殖産の法をお教えになりましたし、医薬の道をお始めになって、人々の 病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのであります。だいこくさま は救いの親神さまであると共にすべてのものが自然の姿にあるように護って下さる親 神であります。

また、だいこくさまといえば出雲の神さま、出雲の神さまといえば縁結びの神さまと 申しますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が 立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるようにすべてのものが幸福で あるようにと、お互いの発展のためのつながりが結ばれることであります。だいこく さまが福の神と慕われ、すべての人々から広く深く信仰をおうけになっているのも、 この「むすび」の御神徳、即ちいいかえますと、我々に愛情を限りなく注いで下さる 神さまであるからであります。だいこくさまは私達の家庭の親が、子供の幸福を願っ て教導保護するように、人間の幸福の「縁を結んで下さる」親神さまであります。
このような御神徳をおもちになっている「だいこくさま」には多くの御別名がありま す。大国主神と申しあげる外に、大己貴神・大物主神・大地主神・大穴持神・八千矛 神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広矛魂神・所造天下大神・三穂津 彦神・伊和大神・幽冥事知食大神等と申し上げます。これらの御神名にはそれぞれの 御神徳があるわけで、大国主神の御神徳が如何に広く深いものであるかがわかり、福 の神として、日本の永い歴史にあって変わらない信仰をおうけになっていることが知 られるのであります。大国主神は多くの御別名がありますように、人々のために数限 りない「むすび」の御霊力をおそそぎになって、住みよい日本の国土を築いて下さい ました。豊葦原の瑞穂国と呼ばれるような、あらゆるものが豊かに成長する国を造り 上げて下さったのです。この国造りの大業が完成すると、日本民族の大親である天照 大神に、その豊葦原の瑞穂国をおかえしになって隠退されました。そこで天照大神は 国造りの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後は、この国の 政治のことは私の子孫があたることとし、あなたは人々のために「むすび」の霊力を 与えて幸福に導いて下さい。また、あなたのお住まいは天日隅宮と云って、私の住居 とおなじ様式にして、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして建築しましょう。そ うして、私の第二子の天穂日命をして仕へさせて末長くおまもりさせます。(日本書 紀)と、申されました。そこで天照大神の御命令で諸神がおあつまりになって、宇迦 山の麓に壮大なる宮殿を造営され、ここに大国主神は永久にお鎮まりになって、人々 の幸福のために愛情をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をおうけに なっています。そうして天穂日命の子孫は代々一系に大国主神のおまつりを司ってい ます。この天日隅宮の外に出雲大神宮・巌神之宮・杵築大社・杵築宮・石uma之曽宮 と称へられていますが、今は出雲大社と申します。

本殿は大国主神の御事蹟に対して建てられた宮であり、御神徳にふさわしい比類のな い日本一の大規模な木造建築であったと古事記・日本書紀という日本最古の書物にし るされています。九五〇年頃(平安時代)に出来た口遊という本によりますと、高さ は東大寺の大仏殿十五丈をこえる一六丈にも達した日本最大の建物であったようであ ります。一二〇〇年頃(鎌倉時代)になってからは規模を小さくし、現在の本殿は高 さ八丈六間四面で、一七四四年(延享元年、江戸時代)再建されたのであります。各 神社の本殿中、最古の甚だ特異な様式であり「大社造」と呼ばれています。本殿の白 木造りで簡素な直線的気高い姿は、今日でも壮観で圧倒的に印象を与えています。今 よりも更に高大であった鎌倉時代以前の偉容は想像をこえたものであったでしょう。 「雲にわけ入る千木」とか「この世のこととも覚えず」と当時の参拝者は驚異の眼を みはっています。



同社・大神大后神社[・・オホムワノヲホキサイ]
出雲大社境内摂社大神大后神社[おおかみのおおきさきのかみやしろ]「須勢理毘賣命」島根県簸川郡大社町杵築東195 玄松子の記憶

同社坐伊能知比賣神社[・・イノチヒメ]
出雲大社境内摂社伊能知比賣神社[いのちひめのかみのやしろ]「蚶貝比賣命、蛤貝比賣命」島根県簸川郡大社町杵築東195 前掲

同社・神魂御子神社[・・カムタマノ]
出雲大社境内摂社神魂御子神社[かみむすひみこのかみのやしろ]「多紀理毘賣命」島根県簸川郡大社町杵築東195 前掲

同社神魂伊能知奴志神社[・・カンタマイノチヌシ]
出雲大社境外摂社神魂伊能知奴志神社[かみむすひいのちぬしのかみのやしろ]「神産巣日神」島根県簸川郡大社町杵築東182 玄松子の記憶

同社神大穴持御子神社[・・カンヲホアナモチミコ]
出雲大社境外摂社神大穴持御子神社[かむおおなもちのみこのかみのやしろ]「事代主神 配 御年神、高比賣命」島根県簸川郡大社町杵築東 玄松子の記憶

同社大穴持伊那西波伎神社[・・ヲホアナモチノイナセハギ]
出雲大社境外摂社大穴持伊那西波岐神社[おおなもちいなせはぎのかみのやしろ]「稻背脛命 配 白兔神」島根県簸川郡大社町字鷺浦102 玄松子の記憶

同社大穴持御子玉江神社[・・ヲホアナモチミコノタマエ]
出雲大社境外末社大穴持御子玉江神社[おおなもちのみこのたまえのかみのやしろ]「下照比賣命」島根県簸川郡大社町大字修理免字向地920 玄松子の記憶

伎神社[アスキ]
阿須伎神社[あすき]「阿遲須伎高日古根命 配 五十猛命、天稚彦命、素盞嗚命、下照姫命、猿田彦命、伊邪那岐命、天夷鳥命、稻背脛命、事代主命、天穗日命」島根県簸川郡大社町大字遥堪1473 玄松子の記憶
阿須伎神社 (社頭掲示板)
当神社の主祭神 阿遅須伎高日子根命は大国主命の長男神にして、かってはこの地に 阿須伎神社と称する同名の社が、出雲国風土記に38社、延喜式(905)に11社 もある、かっては著名な神社であったが現在は同名の社は当社を遺すのみである。 出雲大社の攝社として10月10日の例祭には出雲大社の宮司の名代が献幣使として 参向する。
国土創成 農耕の神として崇敬をあつめている。旧郷社


同社神韓国伊太神社[・・カラクニイタテ]
阿須伎神社に合祀 前掲 『出雲国風土記』阿受枳の社の同名社のこととしている。(『日本古典文学大系』)

同社天若日子神社[・・アメワカヒコ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社佐袁神社[・・スサノヲ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社神魂意保刀自神社[・・カミムスビヲホトジ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社神阿伎神社[・・カンアスキ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社神伊佐那伎神社[・・カンイサナキ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社神阿麻能比奈等理神社[・・アマノヒナトリ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社神伊佐我神社[・・イサカ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社阿遲伎神社[・・アチスキ]
阿須伎神社に合祀 前掲

同社天若日子神社[・・アメワカヒコ]
阿須伎神社に合祀 前掲

御碕神社[ミサキ]
日御碕神社[ひのみさき]「天照大日賣、神素盞嗚尊」
神の宮(素尊)は神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていた。隠ケ丘御鎮座の由来は,神代の昔、素盞嗚尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った、よって御子神天葺根命はここを素盞嗚尊の神魂の鎮ります処として斎き祀り給うたと伝う。島根県簸川郡大社町大字日御碕455 玄松子の記憶
日御碕神社御由緒記
御鎮座の由来

 日しずみの宮
日しずみの宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島と もいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によっ て現社地に御遷座致されたのである。
経島に御遷座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞嗚尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と 申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり、此 処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり、 命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと云う。
又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出 雲国日御碕清江の浜に日しずみの宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん 』と天平7年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。
かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇 敬せられたのである。
そして、安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年勅命により島上 に神殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝しぎ社なり)が村上天皇天暦2年前 記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。

 神の宮
神の宮は神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅 命により現社地に御遷座せられ(出雲風土記に見える美佐伎社なり)後「日しずみの 宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。
隠ケ丘御鎮座の由来は,神代の昔、素盞嗚尊出雲の国造りの事始めをされてより、根 の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所 に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に 美佐伎なる隠ケ丘に止った、よって御子神天葺根命はここを素盞嗚尊の神魂の鎮りま す処として斎き祀り給うたと伝う、当神社神紋の由来もここにある。
かように日御碕は素盞嗚尊の鎮ります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇 せられ、神の宮は素盞嗚尊をお祀りする日本の総本宮として厄災除、開運の神と天下 の崇敬をうけ今日も崇敬者の跡が絶えない。




因佐神社[イナサ]
日御碕神社摂社熊野神社「伊弉册尊 配 事解男命、速玉男命」島根県簸川郡大社町大字日御碕455 玄松子の記憶
荒神社[こう]「玉依姫命」島根県簸川郡大社町大字杵築北2951

因佐神社「建御雷神」
出雲大社境外攝社 島根県簸川郡大社町大字杵築3008 玄松子の記憶

久佐加神社[クサカ]
久佐加神社[くさか]「日子坐王命、大己貴命、海代比古命、海代比女命」島根県出雲市日下町上筋731-1 玄松子の記憶

同社大穴持海代日古神社[・・ヲホアナモチアマシロヒコ]
來坂神社に合祀[きさか]「須佐男尊、稻田姫尊、大穴持尊、少彦名尊、海代日古尊、海代日女尊」鼻高山は宇迦山の主峰で古来熊成峰と言う。社前に素盞嗚尊の御腰掛岩がある。島根県出雲市矢尾町799 玄松子の記憶

同社大穴持海代日女神社[・・ヲホアナモチアマシロヒメ]
來坂神社に合祀 前掲

伊努神社[イヌ]
伊努神社[いぬ]「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命」この神の正体は不明、岐阜県揖斐郡谷汲村大字名札848番地の1の式内社花長下はなながしも神社(美濃國大野郡)に祀られている。島根県出雲市西材木町376 玄松子の記憶

同社神魂伊豆乃賣神社[・・カンタマイツノメ]
伊努神社に合祀「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命 配 鵜葺草葺不合命、玉依毘賣命、速秋津比賣命、神魂命、天之甕津日女命、譽田別皇命、息長足姫命、武内宿禰命」島根県出雲市西材木町376

同社神魂神社[・・カンタマ]
伊努神社に合祀 前掲

同社比古佐和氣神社[・・ヒコサワケ]
伊努神社に合祀 前掲

意布伎神社[イフキ]
伊努神社に合祀 前掲

都我利神社[ツカリ]
都我利神社[つがり]「味耜高彦根命」東の宮と言う。伊努神社は西の宮である。島根県出雲市西材木町672 玄松子の記憶

伊佐波神社[イサハ]
都我利神社に合祀「味耜高彦根命 配 伊耶那岐命、伊耶那美命 ほか」島根県出雲市西材木町672

美談神社[ミタミ]
美談神社[みたみ]「經津主命、息長足姫命、武甕槌命、比賣遲神」島根県平田市美談町182 玄松子の記憶
美談神社
延喜式神名帳に美談神社と記し、出雲風土記にも彌太神社と記している。又、天保4 年(1833年)の出雲神社巡拝記にも美談村の条に記に云う(風土記)彌談彌神社 、式に云う(延喜式)美談神社とし「祭神はわかふつぬしの命なるべし」とある。巡 拝記によると「建長年の頃(1249〜1252)佐々木次郎左エ門泰清の七男広田 頼清のころ八幡宮を勧請せらぬと聞きぬ」とあるので、当国守護職塩冶氏の系累によ って勧請されたものであった。されば武家時代においては、その蔭に古代以来の在地 の守護神がかくれたまうのも、またやむを得ぬことであった」と記されている。つま り建長年間になって彌談彌神社がうしろにかくれ、表面に八幡宮が出てきたのである。
明治5年に村社に列せられた。寛永13年(1636)未曽有の洪水によって斐伊川 が東流し、これによって美談郷が分断され、斐伊川の北側が万治2年(1658)年 以来楯縫郡に属することとなり、明治22年市制、町村制によって国富村の一大字と なり昭和26年平田市と合体し、30年市制施行によって平田市美談町となった。


同社比賣遲神社[・・ヒメチ]
美談神社に合祀 前掲

縣神社[アカタ]
美談神社境内県神社[あがた]「天穗日命、和加布都奴志命」島根県平田市美談町182 玄松子の記憶

同社和加布都努志神社[・・ワカフツヌシ]
美談神社境内県神社に合祀 前掲

印波神社[イハ]
美談神社境内摂社印波神社[いはの]「天手力雄命」島根県平田市美談町182 玄松子の記憶

都武自神社[ツムシ]
都武自神社[つむじ]「速都武自和氣命、事代主命、神倭磐余彦命」島根県平田市国富町1旅伏山山上 写真ちゃん
都武自神社
文徳実録、仁寿元年(851)によれば「速票風別命」を擢んでて従五位を授くとあ り、社伝によれば文暦(1234〜35)の頃から旅伏権現、又は旅伏神社、旅伏大 明神とも旅中安全の守護神として世人の尊敬厚かった。松平藩江戸勤番には、家中に 必ず安全符札を受けて行った。七代治郷(不味)は額面に社号を揮ouして寄進、そ の「旅伏社」の額面は現存している。その称号は亨保年代まで使われた様である。最 も古い棟札は「旅伏権現」寛永8年1631年。天文元年(1736)棟札は都武自 神社、宝暦9年(1759)は旅伏神社、明治維新まで用いた。明治4年神社取調に 復旧都武自神社、明治6年社伺高橋千川が講社活動し、明治13年教会講社創設、神 徳宣揚し、隆昌した。「都武自神社縁起」を見ると推古天皇20年(612)、此の 山の嶺に勧請し、都武自と称した。そのわけは、神武天皇がわが国を「秋津虫国」と され、そのつむしをとって社号としたとある。又、「旅伏」と云うのは、神武天皇東 征に旅にふす臥して敵を討たれたからであるといふ。多夫志峯烽記(天保3、183 2大江春平)によれば都武自別命は志那津比古、志那津比売神の荒御魂で速疾風とな って「天地の間を往来し、大御稜威を輝かし給うたと記し、多夫志は冦伏で火の威を おさえる意だとしている。延喜式内、出雲風土記所蔵社神田9畝18歩神領御色地あ り、明治4年3月郷社、明治40年2月16日神饌幣帛供進指定、国主藩主信仰厚く 、大祭に地頭代参、新酒2樽供進、祭費反引米があった。「式内社調査報告第二十」


宇加神社[ウカ]
宇賀神社[うが]「大己貴命、綾門姫命」島根県平田市口宇賀町森田521
宇賀神社の由緒
今を去る1,200年前、天平5年聖武天皇の御代、733年に作られたものに「出 雲風土記」があります。これによると、8世紀はじめの出雲の状況を詳しく知ること ができます。また出雲風土記から200年ばかりのちになってできた全国の神社を一 覧したものに「延喜式」の神名帳があります。これに載せられている神社は、いわゆ る「式内社」と申しまして由緒正しい古い神社であります。
わが宇賀神社は、この両方のいずれにも記載されておりまして、遠く長い昔から、私 達の先祖代々の人達によって祭られて参りました。
出雲風土記によりますと、大己貴命が神むすびの命の御子である綾門姫命に求婚され ました。ところが綾門姫命は承諾なさらないで、身を隠された。(求婚された女性が 身を隠し、それを求婚者の男性がさがし出すのは当時の習慣であって、そのことは播 磨風土記にもでております。)そこで大己貴命は、綾門姫命がどこへ身を隠されたの かと、出雲大社をでて、弥山、鰐淵山を経て宇峠のあたりを尋ね伺われた。それで宇 賀という地名になったというのです。現在西北方を奥宇賀、東南方を口宇賀と称して おります。


美努麻神社[ミヌマ]
奥宇賀神社[おくうが]「天照皇大神、伏雷神、武内宿禰、息長足姫神、大己貴神、經津主神、武甕槌神」島根県平田市奥宇賀町1387 神々の里出雲の地を訪ねて

布勢神社[フセ]
奥宇賀神社 前掲

意保美神社[イホミ]
意保美神社[いほみ]「猿田彦之大神、天鈿女之大神」島根県平田市河下町217 神々の里出雲の地を訪ねて

出雲神社[イツモ]
諏訪神社「武御名方神、八束水臣津野神」島根県平田市別所町7 玄松子の記憶2
長浜神社「八束水臣津野命」 島根県出雲市西園町4258 神社
出雲大社摂社素鵞社「須佐之男尊」 島根県簸川郡大社町杵築東195 玄松子の記憶

同社韓國伊大神社[・・カラクニイタテ]
諏訪神社に合祀 同上 五十猛命の名はない。島根県平田市別所町72 『出雲国風土記』出雲の社の御魂社のこととしている。(『日本古典文学大系』)
長浜神社「八束水臣津野命」 島根県出雲市西園町4258
出雲大社摂社素鵞社「須佐之男尊」 島根県簸川郡大社町杵築東195
出雲大社摂社神魂伊能知奴志神社「須佐之男尊」 島根県簸川郡大社町杵築東195

斐代神社[ヒシロ]
韓竈神社摂社斐代神社[かんかま][ひじろ]「八王子神」島根県平田市唐川町408 玄松子の記憶

韓竈神社[カラカマ]
韓竈神社「素盞嗚命、國狹槌神」島根県平田市唐川町408 玄松子の記憶

鳥屋神社[トリヤ]
鳥屋神社[とや]「建御名方神、大國主神、事代主神、少名彦神、八十神、天菩比神、天若日子神、八百萬神、宇加之魂神、天照大神、疫神」通称:出雲国諏訪大明神。島根県簸川郡斐川町大字鳥井815 玄松子の記憶

神代神社[カンシロ]
神代神社[かむしろ]「宇夜都辧命 配 大己貴命、譽田別天皇」宇夜都弁命はこの里を治めた女神です。島根県簸川郡斐川町宇屋神庭字宇屋谷485 玄松子の記憶
立虫神社摂社万九千神社「櫛御氣奴命、大名牟遲命、少彦名命、八百萬神」島根県簸川郡斐川町大字併川字神立5258 玄松子の記憶

曾枳能夜神社[ソシ]
曾枳能夜神社[そぎのや]「伎比佐加美高日子命」島根県簸川郡斐川町大字神永823 玄松子の記憶
曽枳能夜神社 社頭掲示板)
曽枳能夜神社祭神、伎比佐加美高日子命、式内社である。
出雲風土記 神名火山の条に「曽枳能夜神社に坐す伎比佐加美高日子命社、即ち此の 山の嶺に在り、故に神名火山と云う」と見ゆ。
祭神 伎比佐加美高日子命は、この地方(キヒサの里)の首長神であり、出雲大神の 祀主である。
古事記 垂仁天皇の条に見える「出雲国造の祖、伎比佐都美と同神であり同条に云う 「石クマの曽の宮」は当社である


同社韓國伊大(奉)神社[・・カラクニイタテ・]
曽枳能夜神社境内の同社坐韓国伊大奉神社「素戔嗚命 配 五十猛命」島根県簸川郡斐川町大字神永823 『出雲国風土記』曾伎乃夜の社の同名社のこととしている。(『日本古典文学大系』)

伊佐賀神社[イサカ]
伊佐賀神社[いさか]「阿菩大神」島根県簸川郡斐川町大字出西字伊保544


久武神社[クム]
久武神社[くむ]「素盞嗚尊」雲神社島根県簸川郡斐川町大字出西字随心1834 玄松子の記憶

加毛利神社[カモリ]
加毛利神社[かもり]「天津彦火火出見命、豐玉毘賣命、天津彦瀲武鵜草葺不合命、大歳御祖命、御年神」宮崎明神島根県簸川郡斐川町大字神永字折坂1779

御井神社[ミヰ]
御井神社「木俣大神 配 八上姫命」島根県簸川郡直江町2518 出雲お社倶楽部

安産の神 御井神社由緒概略
御祭神 木俣大神(大国主大神) 八上姫大神(御母神)
御井神社が安産の神さまとして、深い信仰をうけているいわれは、日本最古の史書「 古事記」等に記載されている次の古事による。
「古事記上巻 大国主神の事績」要約
大国主神には大ぜいの兄弟があったが、みんな出雲の国を治めることをことわって、 大国主神にゆずってしまわれた。
その理由は、誰もが因幡の国の八上姫神と結婚して、むこうで住みたいからであった。
八上姫神は、姿も心もそれはそれは美しく、出雲の八十神たちの憧れのまとであった。
そこで、全員が求婚にゆくことになり、大国主神も従者として袋をかついでついてゆ くことになった。
(因幡の白兎は、この道中の物語である)
大国主神に助けられた白兎は、次のように予言している。
「八十神は必ず八上姫を得まじ。」
因幡につかれた神々等は、それぞれに八上姫神に求婚されたが、返事は白兎の言った 通り「大国主神と結婚いたします」というのであった。
それを知った八十神等は怒り狂って、大国主神を焼石や茹矢で苦しめるのである。
大国主神は、一たびは「根の堅州国」にのがれられるが、ほとぼりのさめるのを待っ て、再び因幡にいき、約束通り八上姫神と結婚された。
やがて八上姫神は妊娠され、大国主神と連れ立って出雲にいかれたが、大社には大変 嫉妬深い須世理姫神がいて、どうしても共に暮すことが出来ない。
やむなく臨月の体でこの直江の里までひき帰された時、急に産気づかれた。
ここでまず八上姫神は、生井(いくい)・福井(さくい)・綱長井(つながい)と、 三っの井戸を堀り、わき出る水をいただき、身を清めたところまことに安産で、玉の ようにうるわしい御子をあげられた。
次に御子も三井戸の水で産湯をさせ、健やかに成長される様子を見とどけてから木の 俣にあずけて、自分は因幡に帰られた。
これよりその御子を、木俣神又は御井神と申し上げ、当社の主祭神として鎮座になっ ている。
木俣神と八上姫神、それに三井戸を祀る当社は、以上のことから安産と育児の守護神 として霊験あらたかで、古来多くの人々から深く信仰されている。
昔から「当社を拝み、神秘の神符(ごふ)をいただくにおいては、安産うたがいなし 」と言われ、御守をしっかり身につけ、威大な御徳にすがれば、安産必定である。
木の俣の 三井の産湯の水なれば 祈らん人を 守る神垣(神詞)


伊甚神社[イシム]
伊甚神社[いじん]「大年神、倉稻魂命、武御名方命」島根県八束郡宍道町伊志見188 神々の里出雲の地を訪ねて

波知神社[ハチ]
波知神社[はち]「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 伊弉諾尊、伊弉册尊、蛭兒命、天忍日命、大己貴命、大年神、建御名方命」島根県簸川郡斐川町大字三纏字羽根559 神々の里出雲の地を訪ねて

立虫神社[タチムシ]
立虫神社「五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命 配 大穴牟遲命」千家部落に鎮座の客神社を合祀。客神社の創立年代不詳なるも、旧鎮座地の村名を千家村(出雲大社領)といい、この社は千家国造崇敬の社であり、毎年11月大庭の神魂神社において、火継儀祭執行の際、千家の里に宿泊所を設け、その折、この社に供物を捧げて祭事を執行されたと伝えられています。島根県簸川郡斐川町大字併川字土手下258 玄松子の記憶
御由緒略記
延喜式、出雲風土記等所載の最も古い御社であります。
三柱の御祭神は、父神の須佐之男命と共に、仁多郡鳥上の峰に天降られ、木種を四方 に播き植えられた後、当地に下り来たりて鎮座なさり、植林、耕地の開発、建築等諸 産業の発展に努力されたという農村には誠に由縁の深い神々であります。
もともと当社は現在地より、未申方七町余り隔てた所(今の斐伊川中で神立橋のほぼ 大津寄り)に、御鎮座なさっていましたが、寛文年中、斐伊川の川床の変遷により、 万九千神社の境内に転社されたものであります。
さらに大正15年、千家部落に鎮座の客神社を合祀
客神社の創立年代不詳なるも、旧鎮座地の村名を千家村(出雲大社領)といい、この 社は千家国造崇敬の社であり、毎年11月大庭の神魂神社において、火継儀祭執行の 際、千家の里に宿泊所を設け、その折、この社に供物を捧げて祭事を執行されたと伝 えられています。


阿吾神社[アコ]
阿吾神社[あぐ]「彦火火出見神、豐玉姫神、伊邪那伎神 合 稻田姫神、大名牟遲神、伎比佐加美高日子神、素戔嗚神」お子守様島根県簸川郡斐川町大字阿宮295 魁・神社巡拝記


神門郡[カムト]:27座並小

彌久賀神社[ミクカ]
弥久賀神社[みくか]「天之御中主大神 配 宇迦能御魂神」島根県簸川郡湖陵町大字大池1302-1 玄松子の記憶
彌久賀神社 (社頭掲示板)
御祭神 (主祭神)天之御中主大神 (合祀祭神)宇賀御魂大神 当社主祭神は、天神国神(八百萬神)の最高位の神様が奉斎されております。 何時頃からこの地に奉られたか不明であるが和銅4年〜天平5年に出雲風土記、延喜 式及び出雲巡拝記を始め享保2年に松江藩公、雲陽誌等の故書に記され古社なること 明らかである。
出雲風土記に神門郡在神祇官社に美久我社(一の宮)とあり、延喜式明細帳に神門郡 彌久賀神社と記されている。出雲風土記に神門水海の条に園松山は国引の綱に当たり この松山の南端は「美久我林」とあるが、この美久我は彌久賀である。
なお美は敬称で久賀を陸、土地とすれば好き土地の意味である、また彌久賀神社は江 戸時代慶長元年〜嘉永6年まで社名を若一王子権現御社と言い以後彌久賀神社と称す 、嘉永4年に正六位上に叙せられ、明治4年に郷社となる。


阿禰神社[アネ]
阿禰神社[あね]「天照皇大神 合 品陀和氣命、素盞之嗚命」島根県簸川郡湖陵町2-5 玄松子の記憶

佐志武神社[サシム]
佐志武神社[さしむ]「建御雷神、經津主神」島根県簸川郡湖陵町差海891 玄松子の記憶

多伎藝神社[タキゝ] 
多伎芸神社[たきき]「多伎伎比賣命、伊邪那伎命、大迦牟豆美命」島根県簸川郡多伎町大字口田儀字宮ノ下1365 玄松子の記憶

多伎神社[タキ]
多伎神社[たき]「阿陀加夜努志多伎吉毘賣命 配 大己貴神」藁の蛇をかついで練る神事が残る。島根県簸川郡多伎町多岐字字笠無639 玄松子の記憶

同社大穴持神社[・・ヲホアナモチ]
多伎神社に合祀 前掲

國村神社[クニムラ]
國村神社「八束水臣津努命 配 須佐之男命、大年之大神」島根県簸川郡多伎町久村1289 玄松子の記憶

那賣佐神社[ナヒメ]
那賣佐神社[なめさ]「葦原醜男命 配 須勢理姫命、大物主神 合 伊邪那岐命」島根県出雲市来神西町字中谷720 玄松子の記憶

同社坐和加須西利比賣神社[・・ワカスセリヒメ]
那賣佐神社に合祀 前掲

佐伯神社[サヱキ]
佐伯神社[さえき]「天照大御神、須佐之男命 配 天之忍穗耳命、天之菩卑命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、多岐津比賣命、市寸嶋比賣命」日御碕さん島根県出雲市神西沖町844 玄松子の記憶

智伊神社[チイ]
智伊神社「高皇産靈神 配 埴安姫神」往古出雲大社造替の節は旧社の拝殿を社司に下し給わった。島根県出雲市知井宮町1245 玄松子の記憶

比布智神社[ヒフチ]
比布智神社[ひふち]「伊弉册尊、伊弉諾尊 配 大日貴神」島根県出雲市古志町1375 玄松子の記憶

同社坐神魂子角魂神社[・・カンタマコツノタマ]
智伊神社境内の比布智神社 島根県出雲市知井宮町1245 玄松子の記憶

朝山神社[アサヤマ]
朝山神社「眞玉着玉邑姫命、神産巣日神、大己貴命」島根県出雲市朝山町大字上朝山字比多伎1404 玄松子の記憶

阿利神社[アゝリ]
阿利神社「阿遲須枳高日子根命 配 加利比賣命 合 猿田比古命、宇受賣命」島根県出雲市塩冶町1686 玄松子の記憶
阿利神社
本神社は出雲国風土記(733年)に阿利社と記してありまた延喜式神名帳(927 年)には阿利神社と明記してある。いわゆる式内社で由緒古い神社であって古来より 高西地区の崇敬神社として拝崇されている。祭神阿遅須枳高日子根命は天下造りたま いし大神(大国主神)と胸形(九州福岡宗蔵大社)の奥津宮の多紀理姫命との間に生 れ給うた神であり、塩冶神社の祭神塩冶毘古能命の親神である。
「アジ」は味の良いという意「スキ」は田を耕す農耕器具「タカヒコ」は高く輝く太 陽の子「ネノミコト」は物事に粘り強い性格を有する男神を意味する。
出雲国風土記に「高岸の郷郡家の東北二里なり所造天下大神の御子阿遅須枳高日子根 命甚く昼夜哭き坐しき仍りてその処に高屋を造りて坐させ即ち高橋を建てて登上り降 りして養し奉りき故高崖と云ふ神亀三年に字を高岸と改む」とあり、高岸が高西とな ったものと伝えられている即ち神の住居されたところにお祀りしたものである。 本神社はもと現在地より北々西約500米の市民会館西方の地にありしが明治15年 に故あって現在に至る。旧社地を記念し「延喜式内社阿利神社跡」の石碑が児童図書 館の西北隅に建立されている。


同社坐加利比賣神社[・・カリヒメ]
阿利神社に合祀 前掲

八野神社[ヤノ]
八野神社「八野若姫命 配 大年神」島根県出雲市矢野町725 玄松子の記憶
八野神社(旧郷社)
出雲風土記に「神門郡の八野社で延喜式の八野神社であり、従って式内社である」と 記されている。
御祭神は、須佐能袁命の御子「八野若日子女命」が主祭神で大年神と共に祀られてい る。
市内の式内社の中で古来のままの在地神と社地とを保ち続けている神社は珍しいとい われている。(四絡まちづくり推進協議会)


大山神社[オホヤマ]
大山神社「大山津見命」島根県出雲市小山町字松林110 玄松子の記憶

久奈爲神社[クナヰ]
久奈子神社[くなこ]「伊邪那美命、速玉男命、事解男命 配 建御名方命 合 武甕槌命、御食津神、大歳神、譽田別命」島根県出雲市古志町2254 玄松子の記憶
久奈子神社
由緒・沿革
当社は、出雲風土記及延喜式神名帳に載れる神社にして嘉祥四年に正六位を授け奉り 、寛平五年に一階を加え奉り給えり。祭神伊邪那美命延喜式に記載ある久奈為社であ る。祭神速玉男命、事解男命出雲風土記に記載ある久奈子社同久奈子社の二坐は是で ある。創立年代詳かでないが、風土記当時は出雲国神門郡古志郷といい伊邪那美命の 時越の国人工人多数来たりて、築池、築堤を行い稲作大いに起こり、古志の字が用い られたとあり、律令時代出雲国庁のもとに、神門郡郡家があり、古志郷庁と狭結駅家 との合同庁舎が古志に置かれ大いに交易文化が繁栄したことが風土記にある。
古来社殿は古志新宮谷の宮床と、久奈子山に鎮座の久奈子社二社を中古久留須に鎮座 の久奈為社に移し三殿を合殿し、今の地に久留須神社と称し郷民に崇敬されてきた。 今も殿内に三殿を奉鎮しあり。明治五年壬申正月旧藩松江県神社取調の際村社に列ね 社号を、久奈子神社と改称し奉るべき旨の達しにより、久奈子神社と旧名に復し、之 により久奈為の社号は今廃名となり現在に至る。明治七年戌六月五日神社取調の際、 武御名方命、諏訪神社を当社に配祀し相殿とす。明治三十九年四月勅令第九十六号に より明治四十年二月十六日、島根県告示第二十三号を以て、神饌幣帛供進することを 得べき神社と指定される。
その後武甕槌命三武社、御食津神櫃守社、大歳命大歳社、誉田別命八幡宮の各社を大 正二年五月二十八日合祀出願、七月二日許可を得て、大正三年一月十五日合祀に至る 。古来より二頭の祭あり。久留須振鉾舞、獅子舞、神事華等あるも今は簡素化す。


鹽冶神社[ヤムヤ]
塩冶神社[えんや]「鹽冶比古命 配 鹽冶比賣命、鹽冶比古眞弓命、燒大刀天穗彦命 合 譽田別命、鹽冶判官高貞」島根県出雲市上塩冶町1749-1 玄松子の記憶

富能加神社[ホノカ]
富能加神社[ほのか]「本牟智和氣命、肥長比賣命 配 伊弉諾尊、伊弉冉尊」島根県出雲市所原町城山3549 玄松子の記憶
富能加神社御由緒
主祭神 本牟智和気命、肥長比売命。合祭 伊弉諾尊、伊弉冉尊
創立年代は不詳であるが永久二年二月再建の棟札のあるところから見れば鳥羽天皇以 前に齋祀されたことは明らかである。社伝によれば延喜の御世には社殿も荘厳にして 朝廷の崇敬も篤かったのであるが後兵乱の為衰微し何時の頃からか安谷の星神山の中 腹の厳密に鎮め奉り麓に拝殿を設けて祭事を執行した。
明治四年十二月小野神社に代って所原見々久の産土神に指定された(見々久は明治十 七年六月御崎神社を産土神に定められ分離)。又明治四十四年十二月現在の小野山領 に移転し小野神社を合祀することとなった。


鹽冶比古神社[ヤムヤヒコ]
塩冶神社 前掲

鹽冶比古麻由弥能神社[ヤムヤヒコマユミノ] 塩冶神社 前掲

比那神社[ヒナ]
比那神社[ひな]「武夷鳥命、木花之佐久夜比賣命」島根県出雲市姫原町394 玄松子の記憶

利神社[アスリ]
阿須利神社[あすり]「豐玉比古神、豐玉比女神、玉依比女神、大己貴神、譽田別命、氣長足姫命、足仲彦命、加久突知神、和多津見神、事代主命、大年神」
往古海浜であった大津湊の浜に鎮座、海神であったので竜王社と称した。島根県出雲市大津町龍王山3668 玄松子の記憶

神産魂命子午日命神社[カムムスヒメノ]
塩冶神社に合祀 前掲
雲根神社「素盞嗚尊、稻田姫命」島根県出雲市大津町430
 当神社は平安時代の初め頃(約千年前)から、当時石塚郷(後の石塚村、現大津町の東半分)の大氏神としてまつられてきた神社で、初めは稲田姫命をまつる稲田姫の社と、八岐大蛇の荒魂を鎮めて素盞嗚尊をまつる石塚の社(あるいは石神の社とも)とに分かれていましたが、およそ藩政時代の初め頃(約四百年前)、この両社を合せ、互に社名を異にするところから、石塚の異名の雲根をとって雲根神社と称するに至ったお社であります。
 素盞嗚尊の荒魂は破邪顕正の威力を発揮したまい、稲田姫命の和魂は殖産興業の働きをなしたもうものとして、古くは出雲国造家を始め代々の領主・武将の尊信も篤く、藩政時代には出雲の国十五名社の一に数えられておりました。
 以上


鹽冶日子命御子燒大刀天穗日子命神社[ヤムヤ・ ・ホヒコ・・]
塩冶神社に合祀 前掲


飯石郡[イヒシ(イヒス)]:5座並小

三屋神社[ミトヤ]
三屋神社[みとや]「大己貴命 配 素盞嗚尊、脚摩乳命、稻田姫命、手摩乳命」島根県飯石郡三刀屋町大字給下字宮谷865 玄松子の記憶
三屋神社由緒
当社は島根県飯石郡三刀屋町大字給下に御鎮座の式内社であって、出雲風土記に御門 屋社として神祇官に在りと記された古社である。延喜式神名帳には三屋神社と記して 郡内の筆頭に置かれ累代の祠官は常に幣頭を務めて来た家柄で当社が古来から上下の 崇敬を受けて居たことを如実に示して居る。

社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔ふて追 い払い給ふてから此処に宮居定め国土御経営の端緒を御開きになったのでその御魂が 高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等が此地に大神の御稜 を営みまた神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調進する こととなったので社号を大神の宮垣の御門とその神戸とに因んで御門屋社と号けたも のである。出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所は此の 地のみで他に一ヶ所も無いのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他 に一社もないことは特筆に値することである。

即ち風土記には「三屋郷 郡家の北東二十四里 所造天下大神の御門即ち此処に在り  故三刀矢と言ふ神亀三年字を三屋と改む 即ち正倉有り」と記されており大神の御 門と謂ふのが神社の所在を示したことであってこの神社が存在して居るので御門郷と 号くべきであるけれども此地には神社のみでなく神の御料に充てる為の田畑や山林な どが定められそれに付属した民戸があったのでその御門の民戸のある郷と云ふ意味で 御門屋郷と呼んで居たものである。当社はその郷中に坐す神社といふことを表す為に 御門屋に坐す大穴持命神社として御門屋社と号けられ出雲国造の一族で神門郡の大領 をして居た神門臣の祖先の伊我會然といふ人が当社の御門をその氏として神門氏と称 して居たのでその一族が居た地方を後に神門郡と号けるやうになった。この郷は三刀 屋市、給下村、伊萱、安田、尾崎、粟谷、殿河内、大谷、屋内、法師田、里坊等を併 せて一郷として居たので当社の祠官は三刀屋神社祇園社屋内村飛石大明神法師田村延 山大明神粟谷村吉備津神社の五社の神主幣頭を務め神祇官から風折烏帽子狩衣布斎服 を許されて居たものである。

当社の背後の現在峯寺山と呼んで居る山が、風土記の伊我山であって伊我といふのは 厳しいといふ意味を有し大神の御魂が御降りになるいかしき山として伊我山と号けら れ、神門臣伊加會然の名前も伊我山の會根に因んだものである。彼等が大神の御祭り を行ふ時に契斎をした場所を伊我屋と呼び其処には風土記所載の井草社が在る。また この伊我屋の在る場所を与會紀村と呼んで居たことも風土記に記されているが、この 村の名は神門臣等が祓ひを行なう際に身を濯ぐ村という意味で号けられたものである 。この伊我山は峯寺が創建されるまでは高丸と呼ばれていたがそれは大神の御魂を御 迎えする御室山といふ意味であって今も毎月二十四日には付近の住民が参拝し近年ま では厳寒の候でも裸参りが行なわれていた程の神名火山である。

(古墳)
当社所蔵の延喜の棟札の裏書きに大己貴命天下惣廟神明也云々とあるが昭和三十四年 十一月当社の裏山続き高丸山に一群の古墳を発見し三十七年八月発掘して調査が行な われたところ古式古墳を裏付ける二つの粘土かく漢式六獣鏡ガラス玉管玉刀子鉄器か め棺土師器弥生式祝部式の土器等が出土し雲南地方最古最大の前方後方墳で当時の貴 族の御廟であるとして三十八年七月二日付をもって文化財として史蹟に指定されたの である。
三屋神社とこの古墳とは相互に裏付けられ三刀屋の地が出雲文化の発祥の地である事 をいよいよ明らかにされることになった。



多倍神社[タヘ]
多倍神社[たべ]「須佐之男命 合 足仲彦命、譽田別命、息長足姫命、湯山主命、稻田姫命、和田津見命」島根県簸川郡佐田町大字反辺字横塚1064 玄松子の記憶

飯石神社[イヒシ]
飯石神社[いいし]「伊毘志都幣命」島根県飯石郡三刀屋町大字多久和1065 玄松子の記憶
飯石神社由緒
出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、出雲国風土記に飯石郡 の条に「飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。」 また「郡家の正東一十二里なり。伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故伊毘志と云ふ 。」(神亀三年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐 石が御神体となっているので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐 境、磐座という自然信仰の形態をそのままの姿で現在に伝えている。又、この地を命 の降臨の聖地として、古来注連縄を用いないのも特殊の習慣である。
明治四十四年八月の遷宮工事の際、御霊代の本殿磐石のかたわら境内の字迫から、古 墳時代の祭祀用遺品とみられる高坏、壷などの須恵器類が出土した。
御祭神伊毘志都幣命は天照大神の第二の御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命 とも云い、国譲りに際して三穂之崎に事代主神を尋ね国土奉還の大業を成就された神 であるとされている。その時に使用された船を熊野諸手船という。
伊毘志都幣命は、出雲国造家の祖神にあたるため、古来正遷座祭には出雲国造御参向 のうえ、奉幣を奉られる習わしであったが、近年(昭和四十二年以降)に至り、例祭 にも国造御参向が慣習となっている。


佐神社[スサ]
須佐神社(大社)「須佐之男命 配 稻田比賣命、脚摩槌命、手摩槌命」もともとこの神は神門川中流域の一地方神として発生したものである。島根県簸川郡佐田町大字宮内730  玄松子の記憶
須佐神社(参拝のしおり)
その昔、須佐の郷は唯茂れる山であり、僅かに川添いに猫額の耕地をもった寒村に過 ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ、 「この国は小さいけれ共よい国なり、我名を草木にはつけず土地につける」と仰せら れ大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの 地に一生を終えられてから二千有余年、その御神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は 生業を得て繁栄している。須佐大神の恩頼にかかぶりて、農業の成功を、交通の安全 を、畜産の発達を、子孫の繁栄を、良縁の結ばれんことを、諸障退散病気平癒を祈る もの、精神錯乱の恢復を祈請するもの、比較的交通の不便をいとわず陸続として来る 有様で、その御神徳の程がしのばれる。只惜しむらくは、須佐の大宮は何としても僻 陬の地であったため、中央との交渉、接触少なく、知られねばならぬことも知られず 、顕彰さるべき事もそのままに時は移り、時代時代で国守の崇敬は得ていたとしても 神社の社格のことも須佐国造家のことも他国の神社やそれに比して決して十分な待遇 がなされていなかった事は色々な事象に照らしても明らかで、後人の等しく遺憾と思 うところである。

須佐家の事を付け加えるならば須佐大宮司家が国土開拓に功うありし国つ神の末裔で あるというので国造に命ぜられたのは、二十四代益成宮司の時で成務天皇三十年(一 六十年)今より千八百年前のことである。それより出雲太郎、出雲次郎を名乗ってい たが、永享年中(一、四三四年)出雲国司にはばかり出の字を除き、代々交代に雲太 郎、雲次郎として今日まで連綿七十八代、二千六百四十余年を経ている。今の宮司建 紀氏は雲太郎である。須佐の姓は明治の始めにつけたもので、それまでは須佐国造某 と名乗るを常としていた。尚国造の制は大化の改新の時廃されたが、出雲、紀伊、阿 蘇及び尾張の国造だけは残されてその名を存している。



川邊神社[カハヘ]
河邊神社「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命」島根県大原郡木次町上熊谷字中ノ段1462-1 玄松子の記憶


仁多郡[ニイタ]:2座並小

伊我多氣神社[イカタケ]
伊賀多氣神社[いがたけ]「五十猛命 配 素盞嗚尊、大己貴命」島根県仁多郡横田町横田1278
伊賀多気神社
伊賀多気神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式所載の古社であり、旧郷社であ る。
出雲風土記に神祗官社とせられている。
御鎮座地島根県仁多郡横田町角は、古代横田庄と申し、仙洞院御領地であった。
御祭神は五十猛命であり、合殿に父神素盞鳴尊と大己貴命を合わせ祀る。五十猛命は 父神を助けて大蛇退治をなされた神で、父神と共に朝鮮新羅国曾尸茂梨(そしもり) より樹木の種子を持ち帰りになられ、大蛇の荒らした山野にその種子を播き、治山・ 治水の実あげられると共に、日本全国に植樹・育林を奨められたので、山林の守護神 ・樹木の神様として、古くは朝廷並びに林業関係者の崇敬が厚かった。
祭日 祈年祭  四月八日
   例大祭 十一月八日
   新嘗祭 十二月八日
御社殿 御本殿 大社造  間口二間  奥行二間
   通 殿 切妻造  間口一間半 奥行一間半
   拝 殿 入母屋造 間口五間半 奥行二間
   随神門 楽殿
社宝 隋神立像二躰(県文化財)

鬼神神社[おにかみ]「素盞嗚尊、五十猛命」五十猛命の神陵の地とされる。島根県仁多郡横田町大呂

三澤神社[ミサハ]
三澤神社[みさわ]「阿遲須枳高日子根命 配 大己貴命、素盞嗚命、氣長足比賣命、少彦名命、五十猛命、別雷命、志那都比古命、志那都比賣命」島根県仁多郡仁多町三沢402 玄松子の記憶


大原郡[オホハラ]:13座並小

宇能遲神社[ウノチ]
宇能遲神社[うのち]「宇能遲比古命、須我禰命、素盞嗚尊、稻田姫尊、大國主命」島根県大原郡加茂町大字宇治字亀山324 魁・神社巡拝記

同社坐美祢神社[・・スミネ]
宇能遅神社に合祀 前掲
須美禰神社「須我禰命」
出雲風土記に「汗乃遅社」、延喜式に「同社に坐す須美禰神社」とある社で加茂町宇治にあった社である。「同社」という意味は合社でなく別社として官幣を捧げた式内社である。現在の宇能遅神社(宇治)とは深い関係のあった神社である。棟札の記録によれば「天文九年(一五三六室町時代)九月再興」とあり、宇治より須美禰神社を立原の地に再興したもので、創立された年代は不詳である。宇能遅神社の御祭神のうち須美禰命を勧請し、後年、猿田彦命、天鈿女命を合祀したものである。更に雲陽誌には享保二年(一七一八年)に「立原村に宇治大明神あり」と記載されているが、これから考えてみると立原が宇治と共に近松の庄に入っていた頃に称されたものと思われる。以来数度にわたり社名の変更があったが、明治四年一二月現在の須美禰神社と称されるに至った。明治二十九年客神社を合祀し現在に至っている。
島根県雲南市加茂町立原115 玄松子の記憶

神原神社[カンハラ]
神原神社[かんばら]「大國主命、磐筒女命、磐筒男命」島根県大原郡加茂町大字神原字松井原1436 出雲お社倶楽部

八口神社[ヤクチ]
八口神社[やぐち]「素盞嗚命」島根県大原郡加茂町大字神原字八口98 出雲お社倶楽部

御代神社[ミシロ]
御代神社[みしろ]「素盞嗚命、稻田姫命、大山神」島根県大原郡加茂町大字三代字宮東485 出雲お社倶楽部

神社[フス]
布須神社「須佐之男命、稻田姫命、大山命、玉依姫命、別雷命」島根県大原郡加茂町大字延野字布須谷251 神の臨在感フツフツ

斐伊神社[ヒ]
斐伊神社[ひい]「素盞嗚尊、稻田比賣命、伊都之尾羽張命 合 樋速比古命、他二柱」島根県大原郡木次町大字里方字宮崎463 玄松子の記憶
由緒
本社の創立は甚だ古く孝昭天皇三年に御分霊を武蔵国元官幣大社氷川神社に奉遷した と古史伝に記載されている。出雲風土記の樋社で延喜式に伊斐伊神社同社に斐伊波夜 比古神社とあり、創立当時は二社あった。樋社を斐伊神社と改称したのは、もとこの 郷の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により斐伊と改めた為である。文 徳天皇嘉四年神階正六位を授けられ、清和天皇貞観十年九月従五位下に同十三年十月 十日従五位上を授けられた。
延喜の制国幣小社に列せられた。中世より宮崎大明神と唱えられ地方九ケ村の崇敬が 厚かった。明治五年郷社に列せられた。昭和二十年十二月十五日「神道指令」によっ て社格を廃せられた。昭和二十年八月一日宗教法人となり神社規則を制定し、神社本 庁所属となった。昭和二十年八月七日国有境内地三〇九坪の無償譲与を受けた。昭和 二十八年六月十五日宗教法人の登記を完了した。昭和六十三年七月社務所改築し拡張 して神楽の演出が出来る様間口三間、奥行二間とした。同時に手水社を設けた。


同社坐斐伊波夜比古神社[・・ヒノハヤヒコ]
斐伊神社に合祀 前掲

來次神社[コスキ]
來次神社[きすき]「大己貴命」島根県大原郡木次町大字木次字宮前782 玄松子の記憶

加多神社[カタ]
加多神社[かた]「少彦名命 配 大己貴命、神阿多津姫命」島根県大原郡大東町大字大東字宮山362 玄松子の記憶
加多神社
氏神 加多神社について
社名 加多神社(この加多は神様の開墾された田、即ち神田が変化したのだといわれ ています。)
祭神 少彦名命
配祀 大己貴命(大国主命のこと)
   神阿多津姫命(木花咲耶姫命ともいう)

少彦名命の御事蹟
少彦名命は高皇産霊神の子にましまし、はじめ高天ノ原よりお下りになり常世の国( 南方の外国)においでになったが、後我が国においでになり、大国主命と兄弟の約束 をし共に力を戮せ心を一つにして天下を経営なされ、人民や畜産のために、医療の法 を定められ、又、鳥獣昆虫の災いをはらう為に禁厭の法をもお定めになった。
我が国の医術を学ぶ者も亦、大国主命とあわせてこの二柱を祖神としている。かくて 大国主命の経綸の業が漸く見通しがつくようになって少彦名命に語って「吾、子と造 る所の国は善く成れりと謂うべきかな」とおっしゃった。すると少彦名命は「或は成 れるところもあり、或は成らざる所もあり」とお答えになったそうである。この言葉 にはまことに深い意味が含まれているといわれる。少彦命は再び常世国にお渡りにな った。

神社の起源
記録がないため明らかでないが、スクナヒコナノ命は此の地を根拠地として農耕医療 等を教導された。その神徳を敬慕し古代より斎祀せられたものである。

社格 元郷社(明治四年より)
大正十五年内務省より社務所改築実施の上は県社に昇格を許可の旨通牒を受けている 。

祭礼日
三月二十八日 祈年祭
十月十五日 例大祭
十一月二十三日 新嘗祭



佐世神社[サセ]
佐世神社[させ]「須佐能袁命、奇稻田姫命」島根県大原郡大東町大字下佐世1202 玄松子の記憶
佐世神社由緒
祭神 須佐能袁命 奇稲田姫命
延喜式神名帳並ニ風土記所載ノ神社ニシテ上佐世下佐世両村ノ産土神トシテ明治四年 郷社ニ列セラル。
須佐能袁命ハ八岐大蛇ヲ退治シテ後、欣喜ノ余リ稲田姫ト神舞ヲナサレタ時、頭ニ刺 シテイタ佐世ノ木ノ葉ガ落チタ命ハ地ニ刺セト申サレ刺シタ木ガ今ノ佐世ノ社ナリ、 故ニ此ノ地ヲ佐世ト云フ。
後、出雲八所八幡ノ一社、佐世八幡ヲ合祀シ崇敬サレテイル神社デアル。


西利太神社[セリタ]
世利太神社[せりた]「金山比古命 配 伊邪那美命、速玉男命、事解男命」島根県大原郡大東町大字清田字辛67 玄松子の記憶

海潮神社[ウシホ]
海潮神社[うしお]「宇能治比古命」島根県大原郡大東町大字南村字大森424 玄松子の記憶
元郷社 海潮神社御由緒
御祭神 宇能活比古命
当社の創立は遼遠にして不詳なりといえども、御祭神のことは「出雲風土記」に見え 、「延喜式」には神祇官社として「国幣小社」の列に入り、「出雲風土記」に得塩社 として載せられている。
それより降って「出雲国式社考」、或は「雲陽誌」等には大森大明神と称され、天正 九年十一月造営の棟札があり、以来十六回の社殿造営の記録がある。武将武門を始め 一般の崇敬者篤く中でも当地地頭職の三笠弾正はこの社を祈願社として社領社地の寄 進をし、祈願神事に用ひし舞獅子頭を今に社蔵している。
明治維新迄は年々お札下げにて社領米の寄進が続いたが維新後廃止された。 然るに王政復古により明治五年一月郷社の社格に列せられ、同四十一年神饌幣帛供進 の神社に指定された。
創立以来千数百年社地社殿の移転・合祀等更になく現在に至る由緒正しい神社である 。



能義郡[ノキ]:1座小

天穗日命神社[アマノホヒ・]
支布佐神社[きふさ]「天穗日命」島根県安来市安来町吉佐365 神社探訪
能義神社「天穗日命 配 大己貴命、事代主命」風土記に野城大神とある。熊野大神、佐太大神、天の下造らしし大神(大己貴命)と並ぶ。島根県安来市能義町366 玄松子の記憶

H24.1.25

延喜式神名帳目次

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