伴林氏神社
大阪府藤井寺市林3-6-30 mapfan
鳥居
社標と鳥居
交通案内
近鉄土師の里駅 北西800m
祭神
高皇産靈神
配祀 天押日命、道臣命
摂社 若宮八幡社「應神天皇」
由緒
河内国志紀郡拝志郷の式内社。
祭祀氏族は林宿禰であり、大伴宿禰の支族である。その共通の祖を祀る。 高皇産靈神の五世孫が天押日命、その子が道臣命、以後武持、金村、吹負、旅人、家持と大伴氏は古代史をきらびやかに飾る氏族である。
『新撰姓氏録』左京諸蕃に「林連、百済国人木貴公之後也」、また河内国諸蕃には「林連、出自百済国直支王也」とあり、林氏には幾つかの流れがある。当地近辺の他氏族の分布からは百済渡来氏族も居住して、「林」を名乗ったのだろう。
拝殿
戦国時代に信長の兵火にかかり焼失、祭祀を行ってきた林氏も途絶え、以降は地元民の産土神として祀られてきた。戦前、大伴氏が軍事氏族であったことから軍神として復興され、昭和九年当時の林陸軍大臣が崇敬した。西の靖国神社とも言われたとか。
本殿
お姿
比較的広い境内だが、東西に長く南北に短い敷地であり、鳥居から本殿までの距離が社殿の大きさにつりあっていない印象を受ける。樹木はそこそこ多いのだが鬱蒼と言う雰囲気には見えない。
戦前の社地は西側に広がっており、西端に鳥居があったのをのまま移動した。
社地
拝殿前には、左近の桜、右近の橘が置かれている。神職さんの気概を感じる。
お祭り
10月 13日 例祭 第二日曜日の午前中。
平成祭礼データから
旧林村の鎮守。地名の「はやし」は古代樹木の生い茂る場所で、大木を神木として神の天降ります神奈備とした所を意味する。神亀三年に林を拝志と改められた。和名抄には河内国志紀郡拝志郷と記す。奈良平城京跡出土の木簡に河内国志紀郡林村の文字が見られ、当地よりの献上品の荷札であろうとされている。三代実録には、清和天皇の貞觀九年官社に預かり、同十五年従五位下に叙せられたとある。延喜式神名帖にも伴林氏神社の名が記載されている古い由緒のある神社である。
以上 |
参考資料 『式内社調査報告』、『大阪府神社史資料』
神奈備が青草談話室へ投稿した伴林氏神社について
[6923]伴林氏神社でハヤシサミットを 1 神奈備 投稿日:2013年 9月 9日(月)16時11分 |
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大阪府藤井寺市林3丁目に伴林氏神社(トモハヤシノウチ)が鎮座しています。式内社です。
当地は、その昔は河内国志紀郡拜志郷と言われ、拜志郷は林郷でしたが、好字令で二文字になりました。
森は神がすみます。林には人がすみます。人と言っても、おかみ、偉い人です。
全国に、拝志郷、拝慈郷、林郷とよばれる地名は、『和名抄』では、17郷を数えます。それ以外に2郷。一覧とコメントを書きます。
山城国 紀伊郡 拝志郷 京都市のうち、東海道本線以南一帯。
山城国 久世郡 拝志郷 久御山町。
河内国 志紀郡 拝志郷 藤井寺市林一帯。国府。
尾張国 中島郡 拝志郷 一宮市南西部、稲沢市北東部、稲沢市国府宮町。
常陸国 茨城郡 拝志郷 筑波山の東側から霞ヶ浦の北側、北浦の西側。石岡市に国府。
加賀国 石川郡 拝志郷 加賀郡の南部を石川郡とする。白山本宮領。
越中国 砺波郡 拝志郷 越中国の南西部。砺波市林に式内林神社。
丹波国 何鹿郡 拝志郷 綾部市全域と福知山市の一部。
丹波国 天田郡 拝志郷 福知山市の西部、和久川中流右岸。
丹後国 与謝郡 拝志郷 伊根町、与謝野町。籠神社。府中邑。国府。
出雲国 意宇郡 拝志郷 松江市玉湯町林、大谷、宍道町上来待。
備中国 浅口郡 拝志郷 林郷 笠岡市大島、里庄町浜中・新庄、浅口市の概ね里見川以南。
備中国 小田郡 拜慈郷 笠岡市全域と井原市の一部。
備中国 英賀郡 林郷 真庭市上水田付近。
阿波国 阿波郡 拝志郷 徳島県北東部の吉野川北岸に位置。
阿波国 那賀郡 拝志郷 阿南市見能林町。橘湾に面する。
讃岐国 山田郡 拝志郷 高松市(牟礼町各町を除く木太町、林町、上林町。
伊予国 浮穴郡 拝志郷 松山市、東温市、伊予市、大洲市。
伊予国 越智郡 拝志郷 今治市上徳。伊予国府。
19郷の内、国府があったのが、河内国志紀郡、尾張国中島郡、常陸国茨城郡、丹後国与謝郡、伊予国越智郡の各拝志郷5郷です。19郷の内の5郷、これは有意です。林に偉い人がいたのです。 |
[6925]伴林氏神社でハヤシサミットを 2 神奈備 投稿日:2013年 9月15日(日)20時11分 |
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河内国志紀郡拝志郷と周辺の歴史
1.古市古墳群に位置しており、土師氏が居住していた。(道明寺や天満宮が鎮座。)志紀県主の屋敷には鰹木があった。大県主は大県郡のある柏原市に居住していたのであろう。
大県主の配下に県犬養氏もいた。これらの氏は奈良時代にも残っている。
2.『新撰姓氏録』から関連の氏族をリストアップ。
左京神別 林朝臣、石川朝臣と同祖。武内宿禰の後。
左京諸蕃 林連は百済国直支王から出ている。
河内国神別 林宿禰、大伴宿禰と同祖。大伴室屋大連の子 御物宿禰を祖とする。
3.以下、年表で。
雄略期 歯田根命(狭穂彦の孫の孫、垂仁期の謀反事件は実際にはなかった。)の不祥事で、餌香の長野邑を物部目大連に与えた。(志紀郡 長野神社)
5C末 物部大連家はその後、渋川郡(跡部神社)や若江郡(矢作神社、弓削神社) に勢力を延ばした。
大伴室屋も大連であった。
この間 蘇我の勢力がこの地域に及んでいたかも知れない。林臣を名のる。
540年 大伴金村大連、百済への任那四国の割譲の責めを取らされて失脚。
587年 蘇我大臣が、紀、巨勢、葛城、大伴、阿倍、平群、春日などの諸豪族を味方に 引き入れ、物部守屋大連を攻め、物部本家は滅亡。
蘇我入鹿の母は林臣の出。入鹿は林太郎と呼ばれた。
この地域から物部本家はいなくなった。
それ以外の物部氏は大和石上や地方で生き残った。
645年 乙巳の変。蘇我蝦夷・馬子の本家滅亡。大伴長徳が右大臣に就任。
672年 壬申の乱。大伴馬来田・吹負兄弟が大海人皇子に味方して挙兵。
729年 長屋王の変 大伴旅人、太宰府に左遷。
742年(天平14年) 大伴祐志備 河内国司
746年(天平18年) 大伴古慈斐 河内国司
769年(神護景雲三年)林連佐比物・広山らに宿禰の姓が与えられる。
772年(宝亀三年四月)歌垣が催される。
葛井、船、津、文、武生、蔵の六氏の男女230人が参加。全て諸蕃である。 渡来系。渡来系の林連はこの頃にはいなかったのだろう。
歌 乙女らに 男立ち添ひ 踏みならす 西の都は 萬世の宮
歌 淵も世も 清く爽けし 博多側 千歳を待ちて 澄める川かも
785年 藤原種継暗殺事件に連座、大伴継人斬首。故大伴家持官籍から除名。
787年 志紀郡人林臣海主等、又朝臣姓を賜る。
790年 大伴弟麻呂、河内守を兼務。
794年 征夷大将軍。
826年 淳和天皇(大伴親王)の名を避けて伴(トモ)と氏を改める。
835年 林連は伴宿禰を賜る。
864年 伴善男、大納言になる。
886年 応天門の変にからんだとして伊豆に流罪。
平安前期には、紀氏と大伴氏は武人の故実を伝える家とされた。
さて、河内国志紀郡の式内社の伴林氏神社であるが、いつ頃創建されたのでしょうか。よく似た神社が山城国葛野郡の伴氏神社があります。神社名が大伴ではなく、伴になっているが、これは淳和天皇期に変更されたと見ていいのでしょう。
創建は壬申の乱以降と思われる。大伴氏は壬申の乱で復活、それまでは志紀郡で氏神を祀る程の根を張っていたとは思えない。 |
[6926]伴林氏神社でハヤシサミットを 3 神奈備 投稿日:2013年 9月17日(火)14時36分 |
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神社は「氏神」として祀られてきた場合が多いと思われますが、3,132座の式内社で「氏神社」と名のついた神社は下の3座です。希少価値があります。
山城國葛野郡 伴氏神社[トモウチ] 大伴氏祖神を祀る。
大和國平群郡 平群坐紀氏神社[キノウチカミ] 平群に住んでいた紀氏の祖神を祀る。
河内国志紀郡 伴林氏神社[トモハヤシノウチ] 大伴氏の枝族の林氏の祖神を祀る。
偶然かもしれないが、大伴氏・紀氏は古代の武門豪族として押しも押されもしない存在でしたが、奈良時代後期からの藤原氏の専横の時代になると、政界での立場が弱くなり、総じて政治家よりは文人歌人としての名声を得たようです。「氏」の誇りが強かったのでしょうか。
大伴氏では。
大伴旅人(奈良時代初期) 征隼人持節大将軍 万葉歌人78首
大伴家持(奈良時代後期) 万葉集の編纂 死後にもかかわらず藤原種継暗殺事件で官籍除名。
林なにがしさんは、万葉集に出てきません。
現在、伴林氏神社の主神は高皇産靈神、配神として天押日命、道臣命となっています。
天押日命は天孫降臨の際、瓊瓊杵尊のお供として来目部の遠祖を率いて、背には天磐靫を負うなど、武装して先鋒をつとめたと『日本書記 一書第四』に出ています。まさに、親衛隊長の姿です。
天押日命の後裔の日臣命は、熊野の山中を行く八咫烏を追いかけて神武軍を宇陀に導いたので、道臣の名を賜ったというエピソードが『日本書記』にでています。神武東征・大和侵入に大きい功績が語られています。
山城の伴氏神社や林連(林宿禰)の祖としも越中國礪波郡拝師郷の式内社である林神社も道臣命を祭神としています。
伴林氏神社は加えて天押日命と高皇産靈神を祭神としています。「大伴宿禰は、高皇産靈神の五世孫天押日命の後」と『新撰姓氏録』にあることによるのでしょう。
『三代実録』巻二四貞観十五年(八七三)十二月廿日辛亥。授河内國正六位上天押日命神。とあり、大伴氏関係の古社は伴林氏神社しかないので、伴林氏神社は天押日命を主祭神としていたようです。
南河内郡河南町に鎮座の降幡神社を『三代実録』記載社とする意見もあります。『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとしています。西側の富田林市に大伴地名があることが裏付けのようですが、『日本歴史地名大系28:大阪府の地名U』では、天押日命を祖とする大伴氏とは別系統の大伴連や渡来系の大伴氏の居住地であったとしています。
さらに、『藤井寺市史』の中で、和田萃氏は、「大伴氏の拠点として大和、和泉、摂津とされており、どちらか本拠であったが容易に決めがたいといわれている。雄略期では、紀氏の支配地と隣接しているとし、欽明期では住吉に隠居したとなっており、また大和では、「神武期」で、道臣命が築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜ったことになっています。河内での伴林氏(大伴氏)の存在も、実際の所、伴林氏神社の鎮座しか根拠が見当たりません。
『新撰姓氏録』から見た林氏の整理。
左京皇別 林朝臣 石川朝臣同祖、武内宿禰の後
河内国皇別 林朝臣 上と同じ
河内国神別 林宿禰 大伴宿禰同祖。室屋大連公男御物宿禰の後
左京諸蕃下 林連 出自は百済国人木貴公
右京諸蕃下 林連 林連同祖
摂津国諸蕃 林史 林連同祖
河内国諸蕃 林連 出自は百済国直支王
これ以外に林忌寸(中国系?)がいたようです。
現在、天押日命を主祭神とする式内社の一覧です。
越中国新川郡 日置神社[ヒオキ]
加賀国江沼郡 日置神社[ヒオキ]
近江国高嶋郡 大田神社[ヲホタ]大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが創始。
近江国高嶋郡 鞆結神社[トモユヒ]祭神を天忍日命、譽田別命とする記録がある。
信濃国佐久郡 大伴神社[オホトモ]
道臣命を主祭神とする式内社一覧。
越中国礪波郡 林神社[ハヤシ]
越後国頸城郡 圓田神社[マトタ]
これらは山城国の伴氏神社を含めて伴林氏神社の兄弟社と言えるでしょう。
伴林氏神社は皇室を守る神として太平洋戦争中に軍人、特に陸軍大将林銑十郎が武運長久を祈るため、全国の軍人に呼びかけて浄財を集め、社殿を再建したものです。西の靖国神社とされていますが、当社は古代からの由緒を誇る貞観式社であり、延喜式内社であり、西の云々は当社に失礼にあたります。
当社は西に鎮座している国を守る神であることには間違いありません。
尖閣列島を核兵器を持つ無法国家の中共が侵略しようとしています。我々一般国民は、核武装のかわりに尖閣諸島は日本の固有の領土であることの理論武装することくらいしか対抗手段は持ち合わせていませんが、せめて伴林氏神社の神前で国家の安寧を祈願したいものです。
10月13日(土)午前中 例祭。 |
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