広国神社・蔵王さん
大阪府堺市美原区大保無番地 ゼンリン

鳥居

交通案内
近鉄河内松原駅 南へ2.2km


祭神
廣國押武金日命
 配祀 天照大御神、市杵嶋姫命
 合祀 天兒屋根命、保食神、須佐之男命、大國主命、譽田別命、菅原道眞、石凝姥命、金山彦命、猿田彦命
摂社 稲荷神社

拝殿

由緒
 当社は広国押武金日命(第二十七代安閑天皇)を主祭神としている。
 南條宮司様から聞いた話。「江戸初期の学者林羅山の著した『本朝神社考』の、吉野山の金峯神社の項に「世伝金峯山権現者、勾大兄(マガリノオオエ)広国押武金日(ヒロクニオシタケカナヒ)天皇也」と記されており、安閑天皇(廣國押武金日命)の御霊を蔵王権現と同じと考えられたようです。
 その後に記された『和漢三才図会』(1713年)には、「然ルニ俗ニ傳ヘテ曰ク 人皇二十八代 安閑天皇崩後 至四年宣化天皇三年 現干金峯山告人曰 吾是広国押武金日◯也 仍知権現乃安閑天皇也牟」と記されているように、金峯山に現れた蔵王権現が、自ら吾は広国押武金日命(安閑天皇)なりと名乗ったと云われている。(以上宮司)

 明治末期の神社合祀により、河内鋳物師等の尊崇する鍋宮大明神(烏丸大明神)はじめ多くの神々を祀っている。
 境内の小祠は三十八社とし、やはり、多くの神々を祀っている。

本殿

河内鋳物師
 河内鋳物師は中世において美原区近辺を本拠地として、鉄や銅などの金属を溶かして鋳型に流し込み、鍋・釜などの生活道具から、梵鐘・仏像にいたるまでの製品を鋳造し、現在の日本文化の基礎を築いた鋳造技術者集団。全国各地の梵鐘などの「河内国丹南郡○○」で造られたとの銘文が残っている。
 また、この鋳物師が作る鍋は「河内鍋」として技術力が広く知られると、鋳物師達は次第に河内国を離れて地方に移り住み、鋳物技術を各地に伝えたと言われている。当地は日本の鋳物師発祥の地と云われている。
 江戸時代には、『河内名所図会』などに河内鍋のことが記載されており、河内鋳物師達が祖神として祀ったのが鍋宮大明神と伝えられており、当社に合祀されている。

三十八社  鍋
 

お姿
 社叢がこんもりと遠くからでも見える。
 広くはない社域だが、木々が多い。楓・楠・樫など。
 鍋の横には、ナベと背クラベと書いた目盛りがあり、直径140cm程度。



お祭り
 10月 9日 秋祭   10月 第1日曜日 鍋宮大明神例祭

平成祭礼データ

廣國神社 由緒
 廣國神社は廣國押武金日命をお祀りし、合殿の神様として、天照大御神、市杵島姫命を合わせ祀り、創建は平安中期頃で、明治以前は、太井村の村社として鎮座し祀られていました。
 一方、主祭神として石凝姥命をお祀りする烏丸神社は「河内鍋ノ宮」または「鍋宮大明神」と呼ばれ、大保村字烏丸に鎮座し祀られていました。明治六年五月に烏丸神社は、大保村の村社八坂神社へ移転合併し、境内社「烏丸神社」として祀られました。また、大保村菅生池尻に鎮座し祀られていた保食神を祀る宇賀神社は、明治六年五月に八坂神社へ移転合併し、境内社「宇賀神社」として祀られました。明治四十年頃から、明治政府が全国の神社の合祀を打ち出し、神社統合が行われ、明治四十一年一月二十七日、主祭神として須佐之男命を祀る大保村の村社八坂神社並びにその境内社と、主祭神として菅原道真公を祀る今井村の村社菅原神社、丹南の村社産土神社(天満宮)が廣國神社に合併合祀されました。後年、産土神社(天満宮)のご神体は、その地域へ返還されました。従って現在は、曾ての大保村の八坂神社とその境内社の烏丸神社(鍋宮大明神)、同じく境内社の宇賀神社(稲荷神)、今井村の菅原神社を合併合祀し、昔からの鎮座地である美原町大保無番地の廣國神社に祀られ、美原町太井、今井、大保、黒山の一部の氏神様として尊崇されています。
 廣國押武金日命を主祭神として祀る神社は全国で一社のみであり、廣國神社という名前もこの神社だけです。鎌倉初期、御醍醐天皇の時代に、境内に蔵王堂を建立し、仏の蔵王権現も祀る宮寺となりました。神様の廣國さまと仏様の蔵王権現さまとは関係が深く、明治以前の神仏同体説の本地水垂迹説により、廣國の神が蔵王権現の仏として姿を現わしておられると信じられていました。神仏混合の時代では、僧呂が袈裟を掛け、熟饌を供えて香を焚き、お経を唱えていた神社が多くありました。廣國神社も享保三年頃(一七一八)、法幢院阿闍梨慈賢という高僧がおられました。
 明治初年、政府の発した神仏分離令により、神様と仏様と一緒に祀れなくなり、現在、蔵王権現は太井に移り、民間により祀られています。そのため今でも廣國神社のことを、蔵王さんと呼ぶ人もいます。すぐ前の池を蔵王池と呼んでいます。
 社殿のうち、本殿は方一間で、合祀の時今井村の村人等が、菅原神社の神殿を担いで今の位置に安置しました。拝殿は、桁行三間、梁行三間半、欅の流れ造りで江戸時代再建の建築です。社務所は、桁行四間、梁行二間で、大正四年三月二六日、大保の八坂神社の神殿を移築したものです。
  以上


日本御鋳物師発祥地
堺市美原区大保(だいほ)


鍋宮大明神の石碑の文


鍋宮大明神は別名を烏丸大明神とも称し千年余り前この地に居住した御鋳物師達がその祖神石疑姥命を主神と祭祀した御社であり、明治初年廃 社となって廣國神社に合祀されていた。この地は 鍋宮大明神神域の一部であっが史蹟地として昭和四十四年十月 地元有志により 石碑を建立し永久に記念したものである。当時の御鋳物師達は中世紀以降全国に鋳物師たちは 移住し、今では 河内鋳物の往時を偲ぶ面影もないが、この地域は御鋳物師発祥の地であり、日本文化発展に寄与貢献た御鋳物師達とその末裔の功績を讃え顕彰するものである。
   昭和 五十三年 十月吉日建立
   鍋宮大明神記念碑等整備委員会

日本御鋳物師発祥地の風景

日本御鋳物師発祥地の説明文の絵


説明文
 このあたり一帯は、「河内鋳物師」と呼ばれる、中世における鋳物技術者集団の本拠地で、平安時代末から室町時代始めにかけて繁栄を誇りその賑わいぶりは「大保千軒」と称される程であった。
 「河内鋳物師」は、梵鐘を始めとして、鍋・釜等の日常雑器、農機具等の鋳造を行っていた。技術の優秀さは、「重源再興の東大寺大仏」、「鎌倉の大仏」の鋳造にも参加していることからも確かめられる。その後、各地の需要に応じて、分散居住するなどしたため、さしもの「河内鋳物師」も衰退した。全国の鋳物技術者の間に、この地を「日本鋳物発祥の地」「出身地」とする伝承を持つものが少なくない。 鍋宮大明神は、「河内鋳物師」が自分達の始祖と仰ぐ「石凝姥命」を始め「天児屋根命」「薩田彦命」、始めて鋳物を作ったと言う「鍋子丸」を祀ったものといわれている。

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