錦織神社
大阪府富田林市甲田378番地 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄長野線川西駅 西へ300m


祭神
素盞嗚尊、品陀別命、菅原道眞
配祀 天照皇太神、伊戔円尊(いざなみ)、倉稻魂命、天水分神、高オカ神


社叢遥かな拝殿

由緒
 河内国石川郡。
 国宝の本殿を昭和十年に大修理した際、藤原時代の鐙瓦字瓦が多数出土したようで、藤原時代以前の創建と見られている。
 当地は古来錦部郡と呼ばれ、浪速津より大和への水路の要となっており、早くから大陸・半島の文化が移入されていた。『和名抄』に百済郷との称もある。また「爾之古里」とも呼ばれていた。
 諸蕃(渡来人達)が広く土着して綾錦織等を朝廷に奉っていた。 
 また、郡内の水路が集まる所であり、水郡の郷とも呼ばれ、当社も水郡天王宮とよばれていた。河内の三水分の一として上の水分社とも称された。

国宝の本殿

国宝の本殿

桁行三間 梁間二間 一重 入母屋造
正面千鳥破風付 向拝三間 軒唐破風造
檜皮葺
極彩色共斗(ますがた)[木共]拳鼻の手法

お姿
鳥居から拝殿まで150m程ある。途中に天誅組決起の碑が建っている。 参道の土地の一部は寄贈されたようだ。拝殿は横長で本殿と両脇の二摂社は共に国宝(重文)。



お祭り
    10月 10日 例大祭
 10月 7,8日 例祭

平成祭礼データから

由緒略記

 当神社の創建年代は詳かではないが去る昭和十年国宝本殿大修築の際、本殿敷地の土中から古社殿に使用されていたものと推定される鎌倉時代の古瓦大獅子口一対、又藤原時代の物と推定される鐙瓦字瓦が多数出土したことによって藤原時代以前の創建であることが裏付けされた。又出土した古瓦獅子口より創建当時の当社社殿は現社殿よりも大きい建造物であったことも推定される。

 当地方は古来「錦部郡」と称し、大和朝廷に通ずる要路を占めていたために浪速京より水路を主とする交通の要点にもなって早くから大陸文化が移入され、「和名抄」に見える余戸郷、百済郷との称もあり、帰化人の郡落をなしていた。又「爾之古里(にしこり)」とも称され、後に錦部郡となったものであるが、古代においては、百済より帰化した諸藩が広く土着して綾錦織等を朝廷に奉り、文化向上に貢献したことが伺われる。当社の鎮座地は錦部郡の最北端に位置し、郡の咽喉を扼し「社殿は南面して全部を一望の内に睨せられる要所にあり」且つ郡内の水流も亦此処一所に集まる地であったので、古来から人呼んで水郡の郷と称え、錦部の名に訓の通ずる所から何時の頃からか水郷と変遷し、当社の社名も水郡天王宮と呼称されるようになった。又この宮を錦部の一ノ宮とも或は「河内の三水分の一つとして」上の水分戸称えられた様である。「即ち美具久留御魂神社を下水分とし、建水分宮を上ノ上水分と呼称されたことは今に古老の口碑に残っており」当社は往古からの大社であったことがうかがわれる。 以上


『神社の栞』

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