大津神社
大阪府羽曳野市高鷲8-1-2 its-mo

東向きの鳥居

交通案内
近鉄高鷲駅 南西すぐ


祭神
素盞嗚命、奇稻田姫命、天日鷲命
合祀 大山咋命、菅原道眞

摂社 大宮弁天宮「市杵嶋姫命」、埴生野神社「天照大御神、事代主命、菅原道眞」ほか

由緒
 河内国丹比郡の式内社で、三座とある。
 当地名は羽曳野と言い、これは東の古市の白鳥神社の縁起に、「白鳥は舞い上がり、埴生の丘野を羽を曳くようにして飛び去った」とあるとのこと。 また羽曳野を含めた当地には、多くの渡来人が土着した。特に百済の貴須王の子孫と言われる葛井氏、船氏、津氏の三氏族が勢力を扶植していった。葛井氏は藤井寺市藤井寺の辛國神社、船氏は柏原市国分市場の国分神社、津氏は当社とそれぞれ祖霊を祭っているようだが、明治以後であろうか素盞嗚尊や牛頭天王を祭る形になっている。
 度会氏『神名帳考証』には「鹽君、津連祖神」として、祖神としている。津連は菅野朝臣となった。

 祭神の一柱である天日鷲命については白水社『日本の神々3』で担当の古田実氏は丹比高鷲原の地名に因んでの祭神とされている。当地では麻の栽培などはどうだったのだろう。

拝殿 注連縄は三本撚り

樹木の中の本殿

お姿
羽曳野古墳群の水運路であった古市大溝の残存であろう宮池が高鷲駅の南すぐにある。ここに祭られていた弁天さんが当社境内に遷座、八角形の神殿。

大宮弁天宮

 当社から1.5km南に摂社となっている埴生野神社が鎮座。its-mo

埴生野神社

 大阪は戎さんの盛んな地域、当社も昭和六十二年に今宮戎神社より大神を勧請、当社の祭礼は八日が基本なので、戎さんも七日から九日となっている。八日戎と言う。



お祭り
    7月 7,8日 夏祭
 10月 7,8日 例祭

平成祭礼データから

当大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(八八五〜九三〇)の御代に編纂された「延喜式」に「大津神社」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていました。
応神天皇(四〜五世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見るに至りました。
当時この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井(ふじい)氏、船氏、津氏」の三氏が勢力を張っていました。この三氏のうち津氏一族がこの地を卜して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説で在ります。このように大津神社は津氏一族の守護神として創祀されましたが津氏一族が朝廷に召されれて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられました。その後、仏教の隆盛に伴い、「本地垂迹説」に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けました。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれました。
明治維新になると、新しい神社制度が定められ、神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲、埴生両村の氏神として明治五年五月村社に列格され、「神道大津神社」となりました。第二次大戦後は、占領政策の神道指令によって国家の支配を脱し、昭和二十一年六月二日、宗教法人令に基づき神社本庁所属の「宗教法人大津神社」として発足、今日に至っております。
以上


『神社の栞』、『日本の神々3』

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