科長神社
大阪府南河内郡太子町山田3778番地 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄長野線貴志駅から循環バス御陵前(推古天皇) 東800m


祭神
級長津彦命、級長津姫命
配祀 速素盞嗚命、品陀別命、建御名方命、武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、天照大神




由緒
『日本の神々3』は祭神に日本武尊を加えている。江戸時代には俗に八社大明神と言われた。河内国石川郡の式内小社。
 社伝によれば元は二上山にあって風神の級長津彦命等を祀っていたそうだ。風の通り道である。遷座は鎌倉初期、その時恵比須神社(土祖神社)が末社に落ちた。一説には元禄以前は二上山上とも言う。
 土祖神社の祭神は息長宿禰、葛城高額媛となっている。
 この辺りは古くから科長(磯長)の里と言われており、息長はシナガとも読めることで、息長氏の支配地だったとの説もある。現に、神功皇后の降誕の地とする古伝承もあるとのこと。

 息長氏については、近江の坂田を本拠とする説があり、日撫神社の由緒にも「社伝および明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、皇后此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、御父息長宿禰王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由来を説いている。」 とあるが、山城国綴喜郡の朱智神社付近が祭神の迦邇米雷王が神功皇后の祖父で、綴喜郡付近との見方が多くなってきているように思われる。

 少し南の平石にはかって葛城大権現が鎮座、迦邇米雷王と葛城高額媛が祀られていた。また生駒山付近にも神功皇后の伝承が残っており、科長は葛城にも、竹内街道にも近く、他の支持勢力であった平群氏、巨勢氏の拠点にも近いと言える。ましてや石川郡は蘇我氏の本貫の地ともされている。綴喜郡は紀伊郡に隣接、全てそろうわけである。



本殿
 



お姿
 王陵の谷と言われる磯谷の奥に鎮座。隣には小野妹子の墓もある。南河内一円を眺めうる立地。 境内は広くはない。林泉幽静にして云々と表されていた雰囲気は今はそれほどでもなくなった。 手水舎は八精水と言われ、当麻鍛冶の湯に用いられたそうだ。



鳥居から出て西100mの小祠跡と磐
 



お祭り


7月第4日曜日 例祭

 平成祭礼データから

 創建の年代は不明だが延喜式第九に石川郡九座の一つ科長神社とでている。 神社正面の石鳥居には八社大明神と書かれた銅の額が揚げられており書体は鳩文字にて元録十五年葉室大納言藤原頼孝の筆にて八社大明神と書かれている。これは当社が八柱の神々を祭っている事でこう呼ばれ八社宮と書かれた石灯籠も寄進されている。明治四十年科長岡神社・素盞鳴神社を合祀して現在は十八柱の神々を祭る。 当地は神功皇后誕生地と伝えられ、社宝として神功皇后雛形の兜がある。
以上



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