巽神社(たつみ)
大阪市生野区巽南3-17-19 mapfan

弘化二年(1845年)の鳥居

交通案内
地下鉄千日前線南巽駅 南東すぐ


祭神
應神天皇 合祀 印色入日子命、伊弉册尊、天常立尊、天照大神、天兒屋根命、菅原道眞

摂社
豊川稲荷社「豐川稻荷大神 配祀 八衢彦神、八衢姫神、久那斗神」

由緒
 社頭掲示の抄
 旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村に鎮座、かっては八幡神社。創建年代は不明、『和名類聚抄』に「邑智(おおち)」とあるほか、跡部・賀美などの名前が見え、それぞれに氏神が見えるようである。

 跡部神社や阿刀連からは物部氏の匂いも見える。
 地域には天神社が多く見えていたようで、明治末期の神社合祀で大地の横野神社(これは式内社)・伊賀ヶの伊賀ヶ天神社・西足代の内天照皇大神社・矢柄の前熊野神社・四条の小路天神社の五社を合祀し、村の名をとって八幡神社から巽神社と改称した。

社殿



 巽神社の北東1kmの生野区巽西3丁目9番に、横野神社跡が残されている。 mapnavi
 延喜式内社の神社でもとは印色宮(いんじのみや)と呼ばれていた。 仁徳十三年に、横野堤が築かれたとの記事が『日本書紀』に見える。横野堤の守護神であったのかも知れない。

 『式内社調査報告』に伝説が記載されている。
 昔、印地宮のあたりに、狭山池から流れる川があり、ある時大雨が降ってその大水で上流から御幣の入った湯桶が流れてき、その中に「式内横野神社」と書かれた神符があり、近隣の村で奪い合ったが、結局流れ着いた場所に小祠を建立したと云う。 印地宮と云う名と狭山池を造ったとされる印色入日子命の名が似ていたからであろう。
 なお、他の地域の人々は「ねんじの宮」と呼んだ。ねじれる・こじれるの意である。

横野神社跡

  昭和三七年に発行された『巽史話』巻一に、地元の郷土史家である大東道雄氏が「横野神社盛衰記」と云う論文を発表されている。 この論文は昭和50年10月発行の『式内社のしおり』第8号にほぼ同じ内容が掲載されている。この論文の中で、式内横野神社が荒廃していった事情が考察されているが、この考察と殆ど同じ内容が『式内社調査報告四巻』の横野神社の報告(田村利久氏)に記載されている。どう見ても、この報告は、大東氏の調査内容に多く依存しているようであるし、万が一独自にたどり着いたとしても、先人の報告の存在を知らないはずがなく、大東氏の調査を紹介すべきだろう。『式内社調査報告』全25巻に汚点を残している。

 両氏の報告中の参考文献に差が見える。「横野神社由来記」の所有者のこと。
 大東道雄氏 山野満寿太郎氏所蔵。田村利久氏 小野帰寿太郎氏所蔵。とありますが、本物は山野家に伝承されています。

孫にあたる山野寿一様の御好意により、 横野神社由来記 を掲載いたします。

 なお、山野寿一様によりますと、大東道雄氏は半世紀以上前から地域の歴史を掘り起こされている方で、地元の尊敬を集められているそうです。

万葉歌碑
紫草(ムラサキ)の 根延(ネバ)ふ横野の 春野には 君をかけつつ うぐひす鳴くも
巻十.一八二五 犬養孝


お姿
 巽神社の鳥居から社域の間に国道479号線が横切っている。 かっての参道は相当長かったようだ。
 横野神社跡地には「史蹟であり、見学者が来るので、前に駐車をしないようにとの呼びかけの看板があったが、下の写真のような状態であった。

迷惑な車(なにわ 50 て 83−54)と横野神社跡



お祭り
 7月15日 夏祭   10月15日 例大祭
だんじりの紹介HP 生野区巽神社の宮入


『巽史話』、『式内社のしおり第8号』これらは猪飼野の郷土史家の足代健二郎氏から拝借した。
『平成祭礼データCD』、『式内社調査報告』

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