壷井八幡宮
羽曳野市壷井605番地2 mapfan

鳥居 左下に井戸

交通案内
近鉄南大阪線 上の太子駅 西1.5km


祭神
應神天皇、神功皇后、仲哀天皇
壺井権現社 源頼信、源頼義、源義家、源義綱、源義光、源義時

八幡社

由緒
 壺井の北の丘陵地の東端に当社は鎮座している。この地は古市郡壺井郷の香呂峯の遺跡。
 応神天皇の時代、神功皇后摂政の頃、夢に仲哀天皇が現れ、「河内国長野山の東南に、山陵を定めて、迎ふべし。」と宣した。よって、この地に陵を築き、仲哀天皇御魂の陵と呼んだという。

 社伝によれば、奥州安倍氏征討のため、源頼義、勅を奉じて出陣に臨み、山城国石清水八幡宮に戦捷を祈念し、ついに征討の功を奏して凱旋、これを以て八幡の神霊を勧請した。康平七年(1064)のこと。源氏全盛の頃は信仰深かったが、平氏の世になり、廃頽したが、徳川の世になると、再び栄えたという。

 壺井神社は八幡社の西隣に鎮座し、天仁二年(1109)源氏の創営で、加茂次郎義綱、新羅三郎義光の神霊をも配した。

 明治末期に石丸神社、神明社、式内社の太祈於賀美神社、式内社飛鳥戸神社などを合祀した。

八幡社本殿 後ろは権現社本殿

お姿
 石段の下に壺井戸がある。前九年の役の時、陣中水が乏しくなったので、頼義が弓を以て岩壁を衝いて冷泉を得たとの故事による。
 権現社も八幡宮にひけをとらない綺麗な社殿である。なんとなく、こちらの方が本宮らしく思われる。
 樹齢1000年とされる楠木が目立つ。

権現社



お祭り
  5月 15日  例祭

楠木  井戸社
 

『平成祭礼データ』由緒

 寛仁四年( 一〇二〇) 、多田満仲公の四男、 源頼信公は河内守に任じられ、この地の香呂峰に館を営み、同年九月十日より居住、河内源氏の祖になる。翌年、長子頼義公誕生、河内源氏の祖になる。 長暦二年(一〇三八)七月十四日、頼義公の長子八幡太郎義家公当地に誕生、続いて次男加茂次郎義綱公、三男新羅三郎義光公等が誕生することにより、河内源氏の嫡流発祥の地となった。

 頼信公は、長久四年(一〇四三)九月五日、通法寺を建立、永承三年(一〇四八)九月一日七四才をもって入滅、通法寺の方向山上に葬られた。

 第七〇代後冷泉天皇の永承六年(一〇五一)、奥州に阿倍頼時とその子貞任・宗任の反乱がおこり、頼義公に賊を平定するようにとの勅命が下り、頼義公は、鎮守府将軍陸奥守に任ぜられた。出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願し、十二年三ケ月の苦戦の末、康平五年(一〇六二)、賊を平定した。凱旋後、誓願の験ありとして、康平七年(一〇六四)五月十五日、社殿を建立し、石清水八幡宮の御神霊を遷し祭ったのが、壷井八幡宮である。なお、この時、香呂峰の地名を壷井と改めた。
 以上

河内名所図絵


参考『平成祭礼CD』、『大阪府神社史資料』

公式壷井八幡宮

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