堤根神社
門真市大字稗島422番地 mapfan

鳥居


交通案内
地下鉄鶴見線門真南 北へ500m



祭神
天照皇大神、素盞嗚神、大己貴神

拝殿




由緒
 現在の当社の名が堤根神社である理由は不明。合祀寸前の改称と言うことは、延喜式内社の堤根神社の論社であることを主張することによって合祀する側にまわりたいとの思いとか、実際に川の横であり、治水に苦しんでいたのかも知れない。
 かっては山王宮(大己貴命ゆえか)、次ぎに八剣大明神(素盞嗚尊の天村叢剱に由縁か)、さらに両村神社でこれは稗島・桑才二村の氏神であったゆえのようだ。明治四十一年に堤根神社と改称、その年に近くの三島神社に合祀されている。
 戦後、再び両村の氏神として復活した。(以上『平成祭礼データ』と『社前掲示板』による)

本殿




お姿
  楠木が目立つ神社であり、戦後の植樹のみとは思えない。明治末期に合祀された後にも社域は維持されていたのであろう。



お祭り 

10月 第三日曜日

平成祭礼データ

由緒
 当、堤根神社の創立の年代を明らかにしないが、文禄三年(西暦一五九四年)の検地帳に稗島・桑才二村の氏神として山王宮と呼ばれていたことが記されている。
 祭神は素盞嗚神・大己貴神の二座である。「山王」とは大己貴神を祭る神社が、「山王」と呼ばれる例に従ったものであろう。
 その後、年月を経て享保十年(西暦一七二五年)の検地帳では「八剣大明神」と記録されている。これは天叢雲剣の神格速蛇建雄命を祭る神社が八剣神社と称しているので、天叢雲剣は素盞嗚命が八岐大蛇を退治の際出現したものであるから祭神素盞嗚神につながり素盞嗚神を重視する時代に、さきの「山王」が大己貴神を重視する時代のものであったように八剣大明神と呼ばれたものと思われる。
 元文三年(西暦一七三八年)の古文書では、祭神に新たに天照大神が加わって三座になっている。
それが明治十二年の北河内郡神社財産登録では「両村神社」と呼ばれて、祭神は天照大神一座となっている。稗島・桑才二村の氏神社であるから、こう呼ばれたものと思われるが何故、祭神が一座になったか分からない。
明治四十一年、「堤根神社」と改称し村社としての指定を受けたが当時、神社の合祀が広く各地で行われていた例に従って、郷社、三島神社に同年八月合祀された。
 それ以後、当地には氏神社をもたなかったのであるが太平洋戦争終結後、稗島・桑才の住民は氏神社の復帰を希望し、遂にその熱意は昭和二十一年十月十六日をもって成就し、ここに旧来の姿をもって堤根神社は再び鎮座せられることとなり昭和二十八年二月十日には、宗教法人としての登録を完了するに至ったのである。

  以上


『平成祭礼データ』、『社前掲示板』

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