吉備津彦神社
岡山市北区一宮1043 mapfan

鳥居

交通案内
一宮駅


祭神
天御中主大神、高御産巣日大神、神御産巣日大神、天之常立大神、國之常立大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神、大山津見大神、大國主大神、事代主大神、少彦名大神、宇迦之御魂大神、天津神、國津神、八百萬神、大吉備津日子大神
配祀 吉備津彦命、孝靈天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、天足彦國押人命、大倭迹迹日百襲比賣命、大倭迹迹稚屋比賣命、金山彦命、大山咋命、日子刺肩別命、龍王神

摂社
子安神社「伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命水分神」
稲荷神社「宇迦御魂大神 合祀 温羅屬鬼和魂、菅原神、伊弉諾命、素盞嗚尊」
下宮(しものみや)「倭比賣命」
伊勢宮「天照大神」
幸神社「猿田彦命」
鯉喰神社「樂樂森彦命荒魂」
矢喰神社「吉備津彦命御矢」
坂樹神社「句句廼馳神」
祓神社「祓戸神」
楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ)「樂樂森彦命、樂樂與理彦命」
尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)「夜目山主命、夜目麿命」
岩山神社「日子刺肩別命」
十柱神社「十柱神」
牛馬神社「保食神」
鶴島神社「住吉神」
亀島神社「市寸嶋比賣命」
卜方神社(うらかたじんじゃ)「卜方神」

社殿

由緒

 吉備の中山の東麓に鎮座、創建年代は不詳。
 平安時代には鎮座しており、備前一宮であったが、延喜式内社にはなっていない。 想像だが、下に引用した由緒書きに「佛教が入り正宮本宮攝末社合せて五十一宇を具へ神宮寺神力寺常行堂法華堂も建てられ云々」とあり、僧侶の差配する神社と見なされていたのではなかろうか。洛南の石清水八幡宮などもそのような理由で式内社ではない。

 当社では古代、気比比売大神、気比大明神の名で、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神をお祀りしていたように100円で頂いた由緒書きにはある。
 気比、敦賀にその名が残っているが、食物のことであろう。黍の國の豊漁豊穣を願った祭りの場からの発展した神社ではなかろうか。それが大和に王権が確立された後には、記紀神話にのって大和王権から派遣された皇族将軍である大吉備津日子大神をして吉備国の統治者の祖先と位置づけて、吉備一族の宮廷での立場を高めたのであろう。
 祭神の特徴は、造化三神や孝霊天皇の皇子皇女である。王権の祖先の地だったのかも。

 

社殿(奥は本殿)



お姿
 一宮駅プラットホームには石船(石棺の蓋)が置かれている。この付近は至る所に古墳があったことを思わせる。  
 駅から回り込むと大きい鳥居と両側に池が見える。鶴池と亀池で風の神(住吉)と水神(厳島)を祀る祠がおかれている。 神門の向こうに巨大な石灯籠が見える。安政六年のもの。 豪壮な社殿群である。拝殿と本殿とは相当離れている。神威や祈りを聞き届ける度合いは距離の二乗〜三乗に反比例しないのだろうかと心配になる。神とはもっと身近なものであってほしい。

摂社群


お祭り
10月第3土曜日 例祭
10月第3日曜日 例祭

由緒 『平成祭礼データCD』神社本庁から

  吉備津彦神社要覧
由緒
当社は昔、太陽、月、星、磐座、巨木を仰ぎ山は神体山にして天津磐座磐境を有し、境内十万町歩といわれ、朝日の宮(夏至六月二十一日の日出には、太陽が正面向いの山の中心より昇り御鏡に入る)と称され、本州一宮、吉備之国一品一宮、国の宗祖神を祀るお社として吉備社、吉備津神社、吉備津宮といわれ崇められてきました。
亦大吉備津日子命は吉備之国及び周辺の地を平定永住され諸民を愛撫仁政を敷かれ、命が崇神天皇の六十年に神去りまして吉備中山の宗廟の東麓、屋敷跡に社を建て吉備津彦宮又、吉備津彦神社ともいい崇められて来ました。後佛教が入り正宮本宮攝末社合せて五十一宇を具へ神宮寺神力寺常行堂法華堂も建てられ総括して吉備津宮と称され朝廷直屬一品一宮吉備津大明神として朝廷始め武門武将庶民に至る迄崇敬頗る厚く社傳によれば神功皇后三韓征伐の際は御座船を当國、牛窓港に寄せ給い勅使を差遣され、戦捷を祈り奉幣を奉りし由、爾来奉幣使絶えず、仁明天皇承和十年十月二十四日、神階一品を賜り、一条天皇の長保六年に大介大江清通勅命を奉じて社殿を造營し、白河、鳥羽、高倉、後堀川、後深草、亀山、後宇多の各天皇何れも勅宣を以て、修補せられ、中国地方稀有の壮観たりと云われていた。足利尊氏京へ攻め入る時、又天正十年彼の高松城水攻の際羽柴秀吉、当社へそれぞれ戦捷祈願、毛利、吉川等諸豪族も頗る崇敬厚かりき、古代の社殿は永録五年(一五六二年)、松田左近将監の部下により火をかけられ焼失した。其後慶長二年(一五九七年)には宇喜多秀家、翌慶長六年(一六〇一年)には小早川秀秋により再建に着手九年に五十一宇復元、慶長年間池田公、岡山の地に封ぜられるや、翌年、池田照直公社領三百石を本社に寄進し爾後累代変る事なく崇敬厚かりしが池田光政公は佛教的建築が神社にあるのを嫌い五十一宇及御釜殿も廃除し現在の地に昔の熱田神宮様式にて社殿建築に着手し綱政公の時完成造営された。不幸にして昭和五年十二月十四日、本殿隨神門を残して全部焼失いたしましたが、昭和十一年飛鳥時代社寺建築の粋を集め、現在の荘厳華麗なる将来昭和の国宝とも言われる風聞高き立派な神殿を、国費又皆様方の御寄進により再建され現在に至っています。

(附記)古代の当神社宮司、難波王藤内(現在の大藤内大守先祖)は吉備之国の田使首として備前、備中、備後、美作、伯耆、四国、兵庫の一部を含む吉備の国の長として各地の神社の祭祀及び諸業に至るすべてを司どり、吉備神道の元祖であったとも言われています。童話の桃太郎さんは、御祭神大吉備津彦命のことです。邪馬台国女王とは当社御祭神大倭迹迹日百襲比賣、大倭迹迹稚屋比賣だとも傳へられています。

以上

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