牛窓神社・八幡宮
岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2147 ゼンリン

二の鳥居を境内から

交通案内
 JR赤穂線西大寺からバス牛窓。そこから北東1km。

祭神

 應神天皇 配祀 神功皇后、武内宿禰命、比賣大神
 摂社 祓戸神社、若宮神社、祇園神社、愛宕神社


由緒

 平安中期の長和年間(1012年〜)の頃の創建と伝わる。
 牛窓町内には大型の前方後円墳が5ケ所、円墳、貝塚にいたっては無数に点在。
 実際の神社の起源はより古い時代とも考えられている。三韓征伐伝説に基づき後世、神功皇后をはじめ八幡大神が勧請されたもの。
  『備前国風土記逸文』に載る興味深い一文。「神功皇后が備前の国の海上を航海している時、大きな牛がいて船をひっくり返そうとした。その時、住吉明神が老翁の姿となって現れ、牛を投げたおした。故にその所を名付けて牛轉(まろび)と言った。訛って牛窓になった。」 岡山の牛窓は住吉大社の真西にあたる。

『八幡縁起絵巻』の牛轉の絵

 さて、牡牛座を追いかけてオリオン座が昇って来る。牛を退かすのが住吉明神であるのは、オリオン座の三ツ星こそ住吉三神であることを示している。筒は星、実に素直な理解。

拝殿


お姿
  大阪の住吉大社の真西に鎮座している。半島の崎の海水浴場から石段約360段を上るのだが、バスは上の駐車場についた。従って鳥居の写真はない。
 神社は木々に覆われて見晴らしが悪いが、少し下って二の鳥居付近に展望台があり、エーゲ海に比せられる牛窓半島付近には多くの島々があり、古代から発展したと思われる地域に見える。

『続日本紀』聖武天皇天平十五年(743)五月に以下の記事がある。「邑久郡の新羅の邑久浦の浜に大魚五十二匹が打ち上げられました。長さは二丈三尺以下一丈二尺以上で、皮の薄いことは紙のようで、眼は米粒のように小さく、鹿の鳴くような声を出します。」(訳者の宇治谷猛氏はゴンドウ鯨と推測)
 新羅の邑久浦とは播磨灘西端の錦海湾で師楽湾とも呼ばれている。牛窓神社の北の方向。
 要するに新羅からの渡来民がこの温暖で豊かな土地に住み着いており、『備前国風土記』の牛窓地名説話は、新羅人は殺牛儀礼を行い彼らの神に捧げていたものを、地域に伝わる神功皇后伝承と合わさって述べられたもの。住吉の神は皇后のともづな石のある五香神社の祭神であるが、創建は中世ともされている。従って、古くから摂津の住吉大社を意識していたもので、上記の地名譚ができたのであろう。

 本殿の左右の後には祇園神社。稲荷神社などが鎮座。
 本殿は文化九年(1812)の再建、総ケヤキ造。屋根は千鳥破風付入母屋造。檜皮葺。正面に向唐破風造の向拝をつける。拝には鰭懸魚を吊り、妻飾は紅梁に大幣束をたて棟木を支える。軒は二軒繁[木垂:たるき]である。

本殿





お祭り
  5月 第二日曜日 春季例大祭
 10月 第四日曜日 秋季例大祭

『平成祭礼データCD』神社本庁から

牛窓神社の沿革

 牛窓神社は原初の頃は、土地の神霊及び氏の祖先の神霊をお祭りし、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮より応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称せらるに至った。社伝によれば、鎌倉室町時代の山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)の古文書に「牛窓別宮」の名があり、当時牛窓が石清水領であったと共に社格が大変高かったようである。神階は従三位、式外社、備前国古社128社の内の1社にして明治6年郷社に、明治42年神饌幣帛料指定神社に、昭和15年県社に、それぞれに列せられるが、終戦と共に社格は廃せられる。
 当社は、弘治元年(1555年)芸州の乱の時、海賊の焼打ちにあい、全山焼失社殿宝物記録等、全部を失ひ、それ以前とその後数百年間の記録がなく、不明であるが、牛窓は内海帆船時代、交通運輸の重要港に成るに及び、藩の政治、住民の経済力の増加を背景に、神社に対する信仰心も高まり、江戸時代、特に寛政、文化の頃より境内を拡大し、社容を整えられたものである。特に本殿は近世の社寺建築の粋をこらしたもので、牛窓町の重要文化財に指定されている。
以上

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