枚聞神社
鹿児島県指宿市開聞町十町1366 mapfan

神社の横から開聞岳を臨む

交通案内
開聞駅 北700m



祭神
大日ルメ貴命、配祀 天之忍穗耳命、天穗日之命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘賣命、狹依毘賣命、多岐都比賣命

鳥居の上に開聞岳の頂上が見える

由緒
 開聞岳を神奈備山とし、往古は山の南側に鎮座していたが、現在は北側に遷っている。貞観(859〜)や仁和(885〜)の頃に火山活動をしており、その頃の遷座と考えられている。
 現在の祭神は当地とはつながりはなく、@豊玉彦夫妻、A猿田彦・塩土老翁、B天智天皇側室・釆女大宮売姫の三説がある。
 @は、当社を和多都美神社と呼んでいたことによる。
 Aは、先住民の神で、航海での目印となった開聞岳にふさわしい神。
 Bは、中大兄皇子(のちの天智天皇)はは筑紫の朝倉宮に滞在していた。その折り、九州の豪族が息女を釆女として献上した可能性があり、その一人が大宮姫で、老後は開聞岳山麓に隠棲したとの由縁。

 この秀麗な山に無理に記紀などに登場する神々の名を当てはめる必要はなかろう。

社殿風景

社殿

お姿
 開聞岳を背負っているように見える神社であり、正面の鳥居の上に山頂が見える。
 開聞岳の山頂には奥宮とされる御嶽神社が鎮座、石の祠があり、沖縄のウタキの風習を思わせる雰囲気。
 本殿は権現造間口四間、奥行き四間。境内には大きい楠木が目立つ。

本殿  本殿背後の楠木
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お祭り
 10月 15日  例祭

開聞岳頂上の御嶽神社

平成祭礼データ 薩摩一宮枚聞神社由緒記

  神社の沿革
 御鎮座年代を詳らかにせずといえども、社伝には遠く神代の創祀なりと伝う。既に貞観二年三月、薩摩国従五位下開聞神加従四位下と三代実録に載せられて居るのを始めとして、同書には数度の神位昇叙の事を記され、殊に貞観十六年七月には開聞神山の大噴火の状態を太宰府より言上、神意を和むる為勅命により封戸二千を奉られたことを記載している。
 延喜式には薩摩国頴娃郡枚聞神社と枚聞の文字を用いられている。古来薩摩国の一宮として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に島津氏入国の後はその崇敬絶大にし、正治二年社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀二年頴娃領主家の内乱により千九百余町の神領を失ったのを、天正二十年九月には島津家より改めて田畑合計二十四町歩を寄進され、旧藩時代は別当寺瑞応院と共に祭祀を営んで来たもので、明治御治定の折同四年五月国幣小社に列格仰出され、現在薩摩の国一宮として、又神社本庁所属別表社として地方の崇敬を集めている。

 一般の信仰 南薩地方一帯の総氏神として又地方開拓の祖神として厚い崇敬が寄せられて居るが、特に交通安全、航海安全、漁業守護の神として附近航行の舟人等から厚く信仰されて居る。往年島津家に入貢していた琉球人等は特に航海中開聞岳の雄姿を遥かに拝するや神酒を奉って無事を祈ったものの由、現に神社には琉球王の名に依って航海安全の神徳を奉謝して献納された額面等が数面保存されて居る。その他旧二十三日には他国に出稼ぎに出かけて居る肉親の人達の無事安泰を祈ってお参りする風習が今でもなほ氏子崇敬者の間に盛んに続けられて居る。
  以上

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