石貫神社
宮崎県西都市大字三宅4615-ロ ゼンリン

鳥居

交通案内
西都バスセンター 北西 2km


祭神
大山祇命

拝殿

由緒
  当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

 石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。

本殿

社前の鬼

お姿
 西都原古墳群の東側に鳥居があり、参道100m、再度朱の鳥居が現れ、拝殿、本殿とも暗い朱色に見える。摂社も同じ色。

 鳥居の西側に西都原古墳群へ行く広く高い石段がある。これを登って直進すると、女狭穂塚古墳・男狭穂塚古墳に行き当たる。木々が密集して生えているので、全体像はつかみにくい。尚、女狭穂塚古墳は中百舌鳥古墳群の石津丘古墳(履中陵と呼ばれるがどうやら仁徳陵だろう)のきちんと半分にした相似形であり、河内王権との密接な繋がりが窺われる。男狭穂塚古墳は誉田別古墳(応神陵とされる)の1/2の縮尺。即ち日向の諸県牛とその娘の髪長媛の墳墓ではないかと考えられる。

女狭穂塚古墳



お祭り
   11月  29日  例大祭

『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』

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