宮崎神宮
宮崎県宮崎市神宮2-4-1 ゼンリン

一の鳥居

JR宮崎神宮駅前の鳥居(旧参道)

交通案内
JR宮崎神宮駅


祭神
神日本磐余彦天皇 配祀 鵜鵜草葺不合尊、玉依姫命

二の鳥居

三の鳥居

由緒
大淀川が南に大きく湾曲する左岸の丘陵を南に下った所にある。境内の北側には船琴山・船場陵などとよばれる船塚古墳がある。旧官幣大社。古くは神武天皇宮と称された。『奈古八幡社記』には「神武天皇宮殿建立成就に依て今日八幡宮より遷宮地頭土持太郎信綱供奉馬上也とあり、鎮座は鎌倉初期と思われる。それ以前の社は下北方の古市にあったとされ、宮殿造営のためいったん奈古神社に奉遷し、完成の後遷宮したという。(宮崎県史蹟調査)。古市には摂社皇居屋(こぐや)(皇宮神社があり、上古の皇居跡とされ、宮崎の「宮」の地または「笠狭の埼」といわれる(同書)。舟琢遷宮日記写(奈古神社文章)によると、文亀二年(1502年)八月三日大風により舟塚宮が崩壊、翌三年再建にとりかかり、同年一一月一九日遷宮した。遷宮入用として公万(伊東尹祐)から馬一疋・太刀二・絹一疋・錦一さけ、代官から絹一疋・染物一・銭一貫文・布二束などが届けられている。中世には伊東氏の崇敬が厚かったと伝え、江戸時代には領主による修復が行われた(「宮崎役所万覚」内藤家文書)。「国乗遺聞」によると、元禄年中(1688〜1704)に神武天皇・奈古八幡両社に地方五石が寄進されている。元禄一一年の寺社境内領除地覚写(奈古神社文書)では神武天皇廟所は高二石五斗が除地となっている。寛政四年(1792)ハ月一九日、下北万村に入った高山彦九郎は延岡藩宮崎役所の海老原筑後と別れたのち、「船塚神武天皇の宮へ参る、鳥居宮共に南向傍に池有り二石五斗除地神主大野河内と宮に於て語」り、当宮の後ろの「天皇の御船を埋めし所と伝ふ」船塚陵にも言及して いる。文化九年(1812)九月六日、佐土原(現佐土原町)の修験野田泉光院は芳士村を出発し「船塚と云ふ村」に至り、「神武天皇の宮居」に詣でて拝礼・納経している(日本九峰修行日記)。明治六年(1873)宮崎神社、同十一年宮崎宮、大正二年(1913)宮崎神宮と改称したとされるが(宮崎県神社誌)、「日向地誌」には宮崎神宮とみえ、明治七年に改めたという。

神門

拝殿

本殿

お姿
 広大な社叢である。北側には博物館や出土品の資料館や宮崎の古民家が再建されている。
 境内には根回り約三メートルのオオシラフジがあり、国指定天然記念物。



お祭り
   10月  26日  例大祭


『平成祭礼データ』から

宮崎神宮略記

 神武天皇は大御名を神日本磐余彦尊御名を狭野命と申し上げました。天照大御神から五代目の御孫に当らせられます。御父彦波瀲武UGAYA草葺不合尊の第四皇子に坐して御母は玉依姫命と申し上げます。宮崎神宮の別宮狭野神社の御鎮座地即ち宮崎県西諸県郡高原町大字狭野は天皇の御降誕の霊蹟と伝えられて居ります。 天皇は天資御聡明にわたらせられ、御気性の確如した御方で御齢十五の時皇太子に御立ち遊ばされ、宮崎に都せられて天下を知食されたのであります。然し其の頃はまだ大八州の全土に亘って皇威が輝くというわけではなく、遠国にはまだまだ皇化に浴しない地方が沢山あったのであります。
 天孫瓊々杵尊が此の日向に御降臨になって彦火々出見尊、草葺不合尊と三代に亘って正しい道を養われ即ち正義を以て民を御慈しみになってだんだん力の拡充を計られたのであります。天皇は御祖父の宏謀を継ぎ天壌無窮の神勅を承けて、天下の万民が御恩沢を蒙る様にと常に御考えになりました。即ち天業を恢弘せんものと思召され、宝算四十五歳の御時軍議を御定めになり、諸皇兄皇子と共に大伴物部の将兵を始め八十伴緒の群臣を御統率になって、大八州の中央に都を遷されようと遊ばし、此の宮崎の地を御出立になり御東征の途に上られました。それは紀元前七年の十月五日であります。
 口碑の伝えによると、先ず宮崎から陸路北へ進ませられ湯の宮で御泊りになり御湯をめされ、次に甘漬や都農では武運長久のおまつりを遊ばされ、更に北へ美々津の港から御舟師御進発あらせられたと伝えられて居ります。美々津の立磐神社の境内には御船出に際して御小憩のあとという腰掛石の伝説があり、今も此の地方では陰暦の此の日搗き入団子を作っておそなえする風があります。これはその昔神武天皇御東征の際海路の日和りを待たせ給えるにいよいよ御進発のお祝いにと此の地方有志が団子を調進して奉ろうとしました。然るに御船出の時刻が早まったので御調進が間に合わず餡にする小豆を御餅の中え一緒に搗き入れて奉ったとの事で、二千六百余年後の今日お祝いする記念の行事が風習となって残っているのであります。 その外此の地方には髻とき峠・幸脇・遠見ケ辻・越之坂・ふぐとか浦・港柱神社・神島等天皇の御師御進発に関する伝説地が頗る多いのであります。
 王師のむかうところ風雲自ら静謐に帰せざるなく、海路速吸門(豊予海峡)も無事に菟狭(大分県)崗水門(福岡県)埃宮(広島県)に御寄りになり、翌年三月には更に高嶋宮(岡山県)に到り給い、三ケ年を行宮に座して大いに軍備を整えられ沿道の良民を愛撫せられました。それから浪速路を河内国草香邑(大阪府)に御上陸遊ばされたのですが、生駒山の要害に拠る賊酋長髄彦は天皇の軍を遮りなかなか降服せず、遂に道を改め給い更に海路紀伊国へ熊野路(和歌山県)から大和に攻め入らせられたのであります。この間、皇兄五瀬命は戦傷の結果遂に歿せられ又熊野灘では海上暴風のために皇兄三毛沼命と稲飯命の御遭難を始め幾多の将兵を失われる等幾多の苦戦艱難を嘗めさせられました。誠に申すも畏れ多い極みであります。
 舟師は熊野の荒坂津に御到着になり、あらゆる艱難を重ねられ険しい熊野の道もない山山を、熊野、高倉下や八咫烏の忠勤によって大和に越えて攻め入られました。神々を御祀りになって武運を祈られ八十梟師などの賊を御征討になり、金鵄の瑞兆に神功を建てさせられ、遂に大和地方を全く御平定遊ばされたのであります。丁度日向を御進発になって七年目の正月朔日、畝傍の橿原に宮殿を建てさせられ、八紘を掩いて宇と為さむと仰せられて、第一代の天皇の御位に御即き遊ばされ、ここに我が建国の基は目出度く成就せられたのであります。
 謹んで当神宮御鎮座の由来を按ずるに、斯の地は古史の所謂高千穂宮即ち皇居の霊地でありまして、神武天皇天下御平定、即ち天業恢弘の雄図を起し給われた御遺跡であります。「職原抄」に、神武天皇即位之初継神代之蹤都日向国宮崎宮云々。「大和風土記」に、橿原郷土地中肥民用不少是則神日本磐余彦天皇自日向国宮崎始宮居地也云々。「日向風土記」に、宮崎郡当郡上肥民用繁多出奇石鮮魚具用紙麻等古老伝云、此地自皇孫降臨至神日本磐余彦天皇之宮所也、故宮崎云々。
 本宮の創建は、社伝によれば、神武天皇の皇子神八井耳命の御子建磐竜命(阿蘇神社の御祭神)筑紫の鎮守となられ、此の地即ち神武天皇の都せられし跡に天皇の神霊を鎮祭し給うと。降って第十代崇神天皇の御宇又第十二代景行天皇の熊襲御征討の節社殿の御造営があり、尋いで第十五代応神天皇の御宇、日向国造老男命が修造鎮祭せられた旨が旧記に伝えてあります。
 当神宮は、古来神武天皇宮又は神武天皇社と申上げましたので、今も此の地方の人は神武様と普通申上げております。明治の御代となって初め宮崎神社となり後宮崎宮と変更せられ、更に宮崎神宮と改称せられたのであります。
以上
(注)文中のUGAYAは、「盧」偏に「鳥」と、「茲」偏に「鳥」です。

『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』、『宮崎県の地名』

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