都農神社
宮崎県児湯郡都農町大字川北13294 ゼンリン
神域
南側の大鳥居
交通案内
JR都農駅 北西 1.3km
祭神
大己貴命
拝殿
東面の鳥居
由緒
当地は縄文時代から開発されていた土地で、豊穣を祈願して土着の神を祀ったのが、後に国土開拓の神として大己貴命となったと推測されている。
『日向国風土記』に、「吐濃峯という峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる。」とある。さらに神功皇后の渡韓の船の舳先を護ったとある。
古代日向の中心的位置であり、疱瘡や田畑の害虫除けに霊験あらたかなものがあったとの伝承があり、平安時代には地方神としての神威が中央にも聞こえ、承和四年(837)には官社に列せられ、延喜の制では式内小社(日向四社は全部小社)に列せられた。
江戸時代には衰微著しかったが、元禄五年(1692)高鍋藩主秋月種政が再興、安政六年(1859)に社殿が造営された。また近年にも再建され、社殿付近の木々が伐られたのであろう、さっぱりした雰囲気になっている。
本殿
本殿のネズミ
摂社 素盞嗚神社 手摩乳・足摩乳神社
お姿
南北に長い神域があり、中央に東面する鳥居がある。北側にも鳥居がある。鳥居の周辺には楠木など木々が多い。
神域の東側を都農川が流れている。古代より人々が生活をしてきた場所であったようで、縄文時代以降の遺跡が多い。また丘陵地帯でもあり、牧の地としても好適で、『推古二十年紀』には、「馬ならば日向の駒」とある。
お祭り
12月 4,5日 例大祭
摂社 熊野神社
『平成祭礼データ』から
都農神社
都農神社は古来日向国一之と称え、御祭神は御神徳の高い大己貴命(又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。
当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥居は十五〜六丁、第二鳥居は六〜七丁の間に亘って建立せられた古跡が今尚認められ、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰し、以来社殿境域次第に縮小の止むなきに至りました。
明治天皇御践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国幣社に列せられたのであります。昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当り、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。
御祭神大己貴命は国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神更には医療の神、縁結びの神、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります。
以上 |
『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』、『日本の神々』
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