和布刈神社
福岡県北九州市門司区大字門司字速戸3492 ゼンリン

鳥居

交通案内
門司港駅北へ2km


祭神
比賣大神、日子穗穗手見命、鵜草葺不合命、豐玉比賣命、安曇磯良

社号の石碑

社頭の磐座

由緒
 豊前国企救郡の式外社。関門海峡の急潮を形容した早鞆の瀬戸に鎮座、正式神社名は速戸社。
 社殿は「山角海崖の堺にあり、古樹巨巖のたたずまい」に鎮座、海に沿った狭い境内である。それでも広さは大きい差があるが、なんとなく吉野の浄見原神社の雰囲気を思い起こす。
 当社の存在は和布刈神事にある。旧正月の午前3時、白衣、烏帽子姿の三人の神官の一人が松明をかざして先導し、一人は鎌を、もう一人は桶を持ってつづき、段知らずの石段を降りて干潮の海に入り、岩場に生え始めた和布を刈り取る。これを神前に供える。松明が海面を照らし、古代の神秘が漂う神事。この神事は、対岸の下関市の住吉神社m出雲の日御崎神社などでも行われている。
 当社の祭神に安曇磯良神がいる。神功皇后が渡韓に際して磯良神から潮盈瓊・潮乾瓊の法を学んだとの遺風によってこの神事の起源とする説がある。阿曇氏系の志賀海神社の祭にも藻を刈る神事が付随しているそうだ。

拝殿

本殿

本殿の後の巨石

お姿
 本州九州をつなぐ関門橋が参道の上を通っているように見える。関門海峡は寿永四年(1185)には、源平最後の合戦となる壇ノ浦の戦いがあった。 また山口県側には平たい巖龍島があり、宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いの場であり、近世には長州軍と米国英国軍などの戦いがあった。
 境内は海の側であり、岩と木々が多い。



お祭り
   旧暦 1月  1日  和布刈神事祭

謡曲「和布刈」
 祭礼の当日、神職の者がその用意をしていると、漁翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路をお作りなさるから出来るのである」と神徳をたたえて立ち去った。
 やがて竜女が現れて舞い、沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。
 神主が海に入って若布を刈り終わると波は元の如くになり、竜神は竜宮に飛んで入る。
 神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた。史実に現れたのが元明天皇和銅三年ですので、それ以前神社創建時より御供えとして用うる為神事が行われていたと思われます。
   謡曲史跡保存会

神事の絵 北九州市 同教育委員会


『平成祭礼データ』から

 和布刈神社々記
福岡県無形文化財和布刈神事


 創立及び沿革。当神社は人皇第14代仲哀天皇9年神功皇后韓国より御凱旋あらせられし時、御報賽の思召を以て御創建御身自ら神主となられ齋き祀り給い永く西門鎮護の神とせられたり。故に歴代の将軍、領主等尊宗厚く建武3年足利尊氏神殿造営、至徳年中大内氏神領寄進、応永年中大内義弘神殿造営、文亀年中大内義隆神殿造営、永禄年中毛利氏神領寄進天正年中仁保常陸介神殿造営元和6年細川忠興神領寄進寛永5年細川氏拝殿以下数棟造営、明和4年小笠原忠物で神殿造営等ありて敬神崇祖の誠を至せり。然して年中神社経費は各領主之を支辨せられたり。当神社は明治6年7月25日県社に列せらる。
 福岡県無形文化財和布刈神事は仲哀天皇の9年神社創建以来続いた神事で発端の古く荘重な事は社殿が過潮たぎる海峡の景勝地に有る事など相俟って全国諸神社中有名な神事である。毎年冬至の日に和布(わかめ)繁茂の祈年祭をもって始まり、旧暦12月1日には松明を作り、奉仕の神職は、一週間前から別火に入り潔齋に入り始める。さて旧暦正月元旦午前2時半頃神官3人は衣冠を正し、鎌と桶を持ち、松明で社殿の石段を照らして下り、退潮を追って厳寒の海に入り和布を刈る。これを神前に供えて祭典を行い、明け方近くに終わり直会でお開きになる。昔神職は和布や御守を朝廷や領主に献上していた。此の地は神話伝説「海幸、山幸」の由緒を持つ海神より授かった潮千珠、潮満珠を利用して海に入ると言われた。和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁茂するので幸福発生の姿あり。また神のよりしろとの考えから是を神前に供え、至誠を持って御祭するのは民族固有の精神慣習によるものと思われる。
 大祭毎50年(昭和24年1750年祭を執行せり)
 和布刈神事陰暦(旧1月1日午前2時半頃古式に則り執行)
    以上

対岸の火の山から見た和布刈神社と関門道

『和布刈神社 社記』、『平成祭CD』、『日本の神々』

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