猪田神社
三重県伊賀市猪田5139 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄伊賀線依那古駅から西に20分 やや北へ回り込む。



祭神
武伊賀津別命 ほか合祀神多柱


由緒

 延喜式内社猪田神社の論社。『三代実録』などの国史見在社伊賀津彦神の可能性もある。当社本殿の裏山に6世紀央の古墳があり、その頂上に長く小祠があり、これが伊賀津彦神を祀る社であったとも云われている。
 近隣の神社を合祀した明治四十一年までは住吉神社と称していたが、この段階で猪田神社と改称した。

 下郡の猪田神社とは数百メートルの距離で、神奈備型の丘の北東隅に西向きと東側に東向きに鎮座、恐らく創建時には一つの社域であったと思われる。往古の神域は想像以上に広かった。

 祭神の武伊賀津別命は垂仁天皇皇子意知別命の三世孫で、成務天皇の時代に伊賀国造に任じられていると『旧事紀』にある人と思われる。この場合の伊賀は伊賀郡程度の規模。

大永七年(1527)再建の本殿 天正十八年(1590)大修理の本殿


お姿
 本殿は西向き、南側に日月石と云う磐座があるそうだが、未確認。
 社域を東に降りていく道がある。天真名井大神の鎮座する井戸がある。水神。
 清々しい境内で、雨上がりの昼間、地面がキラキラと輝いていた。木々も豊で、荘厳な雰囲気だでている良い神社。

天真名井戸
 


お祭り
  9月22日、23日 例祭

由緒 平成祭礼データ

 
近鉄依那古駅西一・二キロ神奈備型(註一)の丘の東北麓に西面して鎮座している。創立年代は分らないが、史実・環境・雰囲気から非常に古い年代であったように思われる。「和名抄」(十世紀前半成立)の伊賀郡猪田郷の名を承けた猪田村の産土社で、延喜式内社について、丘陵東南の下郡猪田神社と論社になっている(註二)。当初は猪田村の宮と言われていたようであるが(註三)、天正十八年(一五九〇)の棟札には住吉大明神と書かれているから、少なくとも中世以降から住吉神社と言われたものと思われる。明治二十二年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村・が合併して猪田村となり、同四十一年村内各神社を合祀後、猪田神社と改称した。伊賀国造に任ぜられた垂仁天皇の皇子竟知別命の曾孫武伊賀津別命(旧事記・国造本紀)を主祭神に(註四)、三筒男命・少毘古名命・健速須佐之男命・速玉男命・事解男命・健御名方命・天児屋根命・金山毘古命・大物主命・大山咋命・蛭子命・猿田彦命・大山祇命・応仁天皇・菅原道真公をお祀りしている(註五)。
神奈備丘頂上附近には榊の古木が多く、山宮の跡と伝えられ、西南の谷にある夫婦塚池遺跡は十一世紀の黒色土器などを出しているが、祭祀遺物かと思われている(三重県の地名)。社殿西側には磐座が、背後には猪田神社古墳、前方には姫塚古墳、丘陵東麓には天真名井、北方には山神祠・四角形石灯篭及び行者堂がある。宮坊善福寺(註六)は現在社宅になっている。参道東側には津島神社が、西方の飛地境内には金比羅神社があった。
又旧大内郷の菅原神社(天満天神)は中世以降上之庄村と下之庄村で三年毎にご遷座されていたが、現在も猪田神社と菅原大邊神社との間でご遷座が引き継がれている(註七)。

猪田神社の主なお祭
御井祭(一月一日) 祇園祭(七月一四日) 元旦祭(一月一日) 秋分祭(秋分の日) 祈年祭(二月二十二日) 秋季例大祭(十月二十二日日) 春分祭(春分の日) 新嘗祭(勤労感謝の日) 春季例大祭(四月二十二日) 大祓(十二月三〇日) 大祓(六月三〇日) 遷座祭(三年毎)
註一 神の鎮座する円錐形の山
註二 三重県の地名(平凡社)による。尚中世下郡・猪田両社共住吉神社であった(三国地誌)。
註三 当社所蔵の小天狗清蔵寄進の鉄地銅鍍金鰐口には「伊賀国阿我郡猪田村宮」「元和九年八月吉日小天狗」の銘がある。
註四 昭和八年十二月、三重県知事に届出。
註五 三筒男命 住吉神社の祭神である上筒男・中筒男・底筒男の三神で、イザナギの命が小門の阿波岐原(おどのあはぎはら)でみそぎされた時生まれた神。商業・病気除けの神。
少毘古名命 大国主命と共に出雲の国造りをした小人の神で、医薬や禁厭(まじない)などの方を創めた神として崇敬され、当社の住吉勧請(かんじょう)以前の古い祭神であると伝えられている。
健速須佐之男命 当社をはじめ村内各小場七社から合祀した津島神社の祭神で伝染病を防ぐ神。夏の祇園祭はこの神をもてなす行事。
速玉男命・事解男命 山出の山伏小天狗清蔵が勧請した山出・田中・西出の三熊野の祭神。
建御名方命 本殿右側の境内社諏訪神社(江戸神社)の祭神。大国主命の次男で武勇に勝れ、国譲りの交渉に反対、武甕槌(タケミカツチ)命に敗れ、信濃国諏訪に退き天照大神の命を奉じた。武神・農業神として祀られる。
天児屋根命 天岩戸(あめのゆわと)の前で祝詞(のりと)を奏して天照大神の出現を祈った。祭祀を司どる神で、中臣・藤原氏の祖神。笠部の春日神社に祀られていた。
金山毘古命 上之庄の南宮神社の祭神。美濃一之宮南宮神社の分祀、敢国神社の金山姫を配して鉱山の神として信仰された。
大物主命 本社境内社と上之庄に祀られていた金刀比羅神社の祭神で大和の三輪神社の祭神としても名高い。
大山咋命 明治の神仏分離まで当社の宮坊善福寺の鎮守日吉神社の祭神で坂本の日吉神社・京都の松尾神社と同じ祭神。
大山祇命 山の神様で村内十四座に祀られていたのを合祀した。
蛭子命 本殿左側西宮神社(蛭子神社)他三座の祭神。イザナギ・イザナミの命の第一子。三才になっても脚が立たないので芦船(あしぶね)に入れて流された。中世以後これを七福神の一つである恵比寿として崇敬、漁業・商業の神として信仰された。
猿田彦命 笠部の太田神社の祭神。ニニギの命降臨に道案内をした国津神で、後に伊勢の五十鈴川のほしりに鎮座した。この故事により、祭の先導には天狗の面をかぶった姿で現われる。獅子舞の鼻高にあたる。
応神天皇 殿寺八幡神社の祭神。第十五代の天皇で母は神功皇后、誕生には伝説的色彩が濃い。中世以降源氏の氏神として武家の尊崇が厚かった。
菅原道真公 西出の老ノ木・構・上之庄の菅原神社の祭神。
註六 時宗より真言律宗西大寺末に転じ、下神戸の天童山無量寿福寺下であった(伊水温故)が、明治初めの神仏分離令で廃絶した。
註七 御遷座の菅原神社について。
永禄十一年(一五六八)神道裁許状には「伊賀国阿閇郡大内天神とある(兼右卿記)。貞享四年(一六八七)の「伊水温故では、大内下之庄は阿閇郡(あへぐん)で、天神社の社殿は字内屋敷にあり、境内は伊賀郡大内上之庄宮之谷にまたがり、両村共通の氏神となっている。元禄頃(一六八八〓一七〇四)
上之庄村が、宮の谷に南接した寺之谷に別に社殿を設けたのであろう。
「宗国史」には両村に天満天神をあげている。然しご神体は三年毎に交互に遷座された。昭和五十九年十月には猪田神社より菅原大邊神社に遷座される。
昭和十四年十月二十五日国宝に指定された(註八)。
国指定重要文化財 本殿は大永七年(一五二七)の再建で棟瓦、桧皮葺、極彩色、正面は唐戸、他の三面は板戸である。構造形式は大部分桃山時代を下らず、要部には室町末期のものを残している。側面蟇股は上に斗を持たない異形のものである(文化財上野市)。飛檐等に反り増しあり、蟇股・幣軸・木鼻・匂欄・擬宝殊等特に優秀なものと思われる。棟札は大永棟札・天正棟札外六枚が重文に指定されている。
註八 「旧国宝建造物指定説明」に依ると昭和十四年十月二十五日指定物件(二件)
一間社流造、屋根桧皮葺 当社所蔵ノ多数ノ棟札ニヨリ、本殿ハ大永七年ニ再建セラレ、爾後天正十八年、寛永五年、延宝、延享、天明、慶応、明治等数度ノ修理ヲ経タモノデアルコトガ知ラレル、本殿ノ構造形式ヲ観察スルニ、大部分ハ桃山時代ヲ下ラズ、且ツ要部ニハ前記大永ノ棟札ト一致スト推定シウル部材ヲ遺存シテヰル、按ズルニ大永再建ノモノヲ天正ニ大補修シ、爾後屋根、床、椽廻等ニ暫時屡次部分的修理ヲ加ヘ来ッタモノデアラウ、尚細部ノ形式ニ、関西地方ニ於ケル同種ノ常套ヲ脱シタ独特ノ手法ヲ持ッテヰルコトハ、注意スベキデアル(大永棟札)
仏性寺大工 住持大夫人枚…永七稔丁亥五月十八日棟上也大福〓聖頼尊檀※橘安重圓盛同圓秀御熊丸…………大夫形部大夫左衛門大夫三郎大夫馬大夫喜田※檀女祢千代松女勝三彌三郎彌三郎御門三郎番近衆次良三郎二郎三郎與三郎茶丸(天正棟札)
天御柱神  于時天正十八年〓馭盧嶋奉納住吉大明神  寳殿屋所正遷者也國御柱神九月十三日
一、国宝規定の改正に伴ない、昭和二十五年重要文化財に指定された。
二、昭和三十年解体修理
三、昭和三十四年棟札六枚(寛永五年、延宝八年、延享四年、天明七年、慶応元年、年不明)が追加指定された。
四、その他の棟札に天文元年(一五三二年)享保十二年(一七二七)昭和三十一年のものがある。 本殿背後の大古墳は後期の円墳で、昭和十六年七月二〇日の県史蹟指定書には、「高サ十四尺(四米余)石(玉垣)ノ周囲四十一間(二三・五米)本殿背後ノ古墳ハ祭神(武伊賀津別命)ノ御墓トシテ尊崇ス」と書かれている。
古墳は早くから西向きに開口していた。史蹟指定のころ閉鎖されたが、室町期の小型唐草紋瓦が出土し不審に思われていた(村治円太郎)。又昭和五十三年墳頂附近から後述の灯篭が出土した。当社所蔵の明治初期の絵図には墳頂と思われる所に小祠が描かれているが、この祠のものと思われる(註九)  註九 大場磐雄博士は「古墳と神社」で、猪田神社は伊賀国造家の子孫等が、その祖先の墓を奉祀したとするのが妥当な見解で、必ずしもその祖神が史上に顕れた特定の神や人物であったとは断言すべきではない」と言われ、当社の祭神として、伊賀津彦命を擬せられている。
県指定史蹟 寄木の清水とも言う(伊水温故)。社殿の東方百米余の所にある。方四米程の小泉である(註十)。この井戸は垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を奉じて神戸の穴穂の宮に滞在されたとき穿った井戸で天の長井とも言う(伊水温故)。伊賀郡猪田郷忍穂井と伊勢忍穂井は相通じ、深くて水に増減がなく、病の時この水を沐すると効能がある(三国地誌は惣国風土記を引用)。猪田より森寺に通ずる道の側に真名井がある(標註伊賀名所記)。などと古来より有名である。又この井戸を持つ猪田神社の創建は非常に古いものである(註十一)。
現在神社の祭典にこの水を献水し、元旦早朝に氏子はこの水を若水として拝受している。年間を通じこの水を求めに来る人もいる。井戸の側の碑に彫んだ和歌は(註十二)。
すむかけは爰もいがとの神風や伊勢よりかよう天乃まない田 度会家行
久かたの天の長井田くむ賎が袖のつるべの縄のみじかさ 西行法師
註十 県史蹟指定書には「自然石岩組古井ハ昭和九年一月ヨリ補助ヲ受ケテ周囲ニ石柵ヲ設ケ神聖ヲ保テリ、又井畔ニハ度会家行及ビ西行法師ノ詠ト伝フル天真名井ノ和歌ヲ刻セル碑ヲ建ツ」とある。 註十一 県の指定解説には「天真名井と言えるもの各地に現存す、これ古代の性信体を伝承せるものなり(林屋辰三郎)と引用し、其湧水所の形状これに伴ふ。如此き信体を伝承する古井を有つ当社の創建は、現今住吉社と称へられしよりも更に古きものなることを知るべし(村治円次郎)」とある。
註十二 伊水温故・三国地誌が「宗祇名所類聚至宝抄」より引用。
昭和五十三年九月古墳頂上附近から発見された。竿前面に四角型石灯篭「伊賀津彦大明神御廟前」背面に「天文三年(一五三四)甲午八月十五日施主橘安重」と刻まれている。
伊賀津彦神は「三代実録」貞観六年(八六四)一〇月一五日条によれば従五位下に進階されており、武伊賀津別命が祖といわれる伊賀国造家の流れと考えられ、当社の祭神に擬せられている。尚橘安重の名は当社大永七年棟札に仏性寺(長田)棟梁とある。
灯篭は埋没により摩滅をまぬがれ、その細工は入念精巧、大型で美しく、室町時代の特徴を残している。台座を欠いているのは誠に惜しいことである(註十三)。
註十三 台座を捜し出すか、似合う台座を作れば上野市文化財に指定されることになっている。 山出の修験者小天狗清蔵(役の行者)をお祀りしている。清蔵は天正伊行者堂賀乱で消失した敢国神社・上野天満宮・下郡の猪田神社等多くの神社仏閣を復興した偉人で、その超人的な活躍は、空を飛びどんな難病でも治すなどの伝説になっている。山出の勝因寺に隠棲して寛永九年(一六三二)に歿した。当社には前述の鰐口を寄進している。
又当社に郡の住吉明神を勧請したと伊水温故には書かれているが、すでに天正十八年の当社棟札には住吉大明神となっている。仮に伊水温故が正しいとすれば、或は当時流行していた疱瘡除けのために再勧請したものではないかとも考えられる(註十四)。
何れにしても小天狗と当社との関りは深い。近隣の信仰を集め参詣人も多い。
註十四 江戸前期に、痘瘡の神は住吉大明神を祭るべしと言えり。住吉大明神は………病魔の邪気に勝つべき事なり(香月午山「小児心要養育学」)。昭和五十三年九月、近隣に散在していた山神碑・水神碑・石地蔵を当地山神祠に集め祠におさめた。眼病を患う人に信仰がある。
二つの巨岩で依代とも言う。又岩の形から、日月岩とも言われている。

磐座
古代この岩に神々の降臨を迎え、この前で祭典が行われたと言う。 西側の尾根に簡易水道貯水池建設で消滅した猪田神社三号墳があった。波岸代池堤のかさ上げで消滅した唐木谷二号墳、その西に埴輪円筒を持つ同一号墳がある。丘陵上面には金鶏伝説を持つ烏谷一号墳があり、丘陵南部に後期横穴式石室を持つ森寺古墳四基がある。西部丘麓水田下に奈良時代の土器や円面硯が出土した。波岸台遺跡(註十五)その西方ライスセンター敷地には、奈良〓平安期の須恵器杯蓋転用硯や墨書・刻書土器を出した「唐木谷遺跡(註十六)がある。南の上郡や緑釉陶器・木簡の出土した下郡附近に推定される伊賀郡衙の在庁官人の住居との関連が想定される。下郡猪田神社背後の猪田経塚(註十七)、本社参道入口北西百米に将軍塚の跡地があり、基盤整備以前には塞の神の強い禁忌が残っていた。
註十五 昭和四八年度県営圃場整備地区「埋蔵文化材発掘調査報告」三重県教育委員会昭和五四年。
註十六 「唐木谷遺跡発掘調査報告」上野市文化財調査報告昭和五四年。
註十七 「猪田経塚」(十二世紀末)上野市文化財調査概報昭和五〇年。
後記 本稿を起すに当り、上野市文化財専門委員森川桜男氏のご協力を得ました。
昭和五九年十一月吉日 以上

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