磯部神社
三重県志摩郡磯部町恵利原1270-5.1270-6 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄志摩線 志摩磯部駅 北へ10分


祭神
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊 など五男三女神 四十九柱


由緒

 近隣十大字の神社を移転合祀し、磯部神社と名乗った。

 五知新宮鎮座の熊野神社は寛治五年(1091)勧請。
 沓掛鎮座の以比社は享禄二年(1529)の創始。
 山田鎮座の神津見神社は永正年間(1504〜)の勧請で、貞和六年(1350)には八王子社であった。
 下之郷の宇気比神社は享禄二年(1529)の創祀。
 恵利原の神津見神社は貞和六年(1350)。
 穴川の宇気比神社は享禄四年(1531)。
 山原の八柱神社は旧号「八王子」、慶安三年(1650)の創祀。
 栗木広の栗木広神社は、元禄十六年、弁財天を鎮祭した。
 桧山の八柱神社は旧号「日天八王子」として明徳元年(1389)鎮座。

拝殿

 この辺りの神社は海の幸をもたらす神への祭祀が中心。 南方熊楠は、「磯部大明神は、今も船夫海師に重く崇められる。鮫を使者とし厚く信じる者、海に溺れんとする、鮫来たり負いて陸に達するといふ。(中略)
 神使いの鮫は、長さ四五間、頭細長く、体に斑紋あり。「ゑびす」と名づくる種に限る。(中略)
 毎年一定の海路を来るに無数の堅魚、これに随行するを捕らえ、利を得ること莫大なりと云ふ。古老の漁人の話に、海浜にゑびすの祠多きは、実は此の「ゑびす鮫を齋き祀れるなりと云う」とある。

本殿
 


お姿
 落ち着いた雰囲気の神社で、明治末期に正月殿址に創建されたと云うが、それ以前からの神域であったのだろう。直線の美しい神明造の社殿はいかにも日本的な雰囲気を醸し出す。

 近鉄志摩線の駅名に関心が働いた。鳥羽から暫く南下すると、加茂、松尾と駅名が出てくる。次は白木であった。この辺り、秦氏がやって来て開拓したのだろうか。


お祭り
 11月 11日 例祭

『平成祭礼データ』

略誌

 沿革 磯部の地は伊雑宮御鎮座の地にして、伊雑神戸の郷として其の関係甚だ密接にして郷内各村々に大小の神社は恰も伊雑宮の摂末社の如く、歴代伊雑宮神人等によって其の氏神産土神として奉祀せられ、造営に当りても伊雑宮竝大歳社(佐美長神社)の古殿を拝領して、其の造修を営んで来たものである。明治の末期に至り、神社合祀の方針に則り、村内十大字(除坂崎)の神社を現在地(正月殿社跡地)に移転合祀して、磯部神社と単称することとなったもので、磯部郷の惣社と称すべき神社である。即ち明治四十一年四月七日許可を得て、大字恵利原村社神津見社、同境内社一社、大字迫間村社大山祇神社、同境内社一社、大字穴川村社宇気比神社、無格社須賀神社、大字下之郷村社宇気比神社、同境内社五社、無格社神集社、同境内社三社、無格社楠之社、同水神社、同山神社、同大崎社、大字飯浜村社宇気比神社、同境内社三社、無格社須賀社、大字上之郷村社谷ノ神社、同境内社一社、無格社少名彦社、同境内社一社、大字沓掛村社以比社、同境内社三社、大字五知村社新宮熊野神社、同境内社二社、無格社権現熊野神社、同境内社一社、無格社本宮熊野神社、同境内社二社、大字山田村社神津見神社を明治四十一年八月二十五日大字恵利原字正月殿の現在地へ移転合祀、村社磯部神社と奉称し、次いで同年十二月二十八日大字山田の無社を合祀し、更に明治四十三年三月二十一日大字築地村社八柱神社を移転合祀せられた。敗戦の結果、社格は廃止せられ宗教法人となる。昭和三十年二月十一日町村合併磯部町の発足にともない、度会郡神原村成基地区の産土神である山原の八柱神社竝同境内社三社又栗木広の栗木広神社、同末社天皇社及桧山の八柱神社と同社末社四社を合祀先の神原神社より分祀して、昭和三十年十二月九日磯部神社に奉遷合祀せられた。
 以上

 参考文献 『三重県神社誌』、『平成祭礼データCD』

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