神戸神社
三重県伊賀市上神戸317 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄伊賀線上林駅から西に25分



祭神
大日貴命 配祀 天兒屋根命、倭姫命、天太玉命、栲機千千姫命、天手力男命 ほか合祀神多柱
飛び地境内摂社 高瀬神社「須佐之男命」式内社

拝殿


由緒

 明治四〇年〜四一年にかけて周辺の神社を合祀、この時に社名を穴太社から神戸神社に改称した。
 社伝によれば、鎮座地は伊勢神宮の穴太御厨であり、その鎮守社として勧請された可能性が高い。伊賀神戸の中心的神社となっていった。

 宮座は九座、その中心は天児屋根命の子孫と称する神戸座と天太玉命の子孫と称する幣座であり、二神は摂社の祭神となっていた。

 境内にはかつて真名井と称する神井があり、その水を神供としていた。天真名井は復活再建されている。

 猪田の猪田神社には天真名井神が鎮座、猪田とフトダマ、もし天真名井に由緒を求めるのであれば、猪田神社の方が穴太社に相応しいのでは。

伊勢神宮の遷宮の翌年に払い下げられる本殿


お姿
 平地に大きく高い木々の密集した杜があり、遠くからでも人目で神社と判る。 現在は南の鳥居が正門のようだが、昔は北を向いていたと云う。 一角に八幡社と稲荷社が並んだ神霊スポットのようなところがある。


お祭り
  11月 2日、3日 例祭

由緒 平成祭礼データ

 
穴穂宮神戸神社由緒略記

*鎮座地 三重県上野市上神戸三一七番地(旧名賀郡神戸村大字上神戸)
古称暗崎川(今は木津川という)西畔平野に鎮座す 近鉄伊賀線神戸駅より一キロ

*祭神 大日霊貴命  天太玉命  倭姫命  天手力雄命
    天児屋根命  天忍穂耳命  経津主神  三穂津姫命 他十一柱

*沿革
往古より現在地に鎮座穴穂神社と称せしが、明治四十一年十月村内諸社を合祀し社号を今の如く改称 大日霊貴命、天太玉命、倭姫命を奉斎せり。倭姫世記に曰く崇神天皇六十六年十二月朔日伊賀国穴穂宮遷幸積四年奉斎爾時伊賀国造箆山神戸並地口御田細鱗取渕梁作瀬等を進め朝御饌夕御饌供進云々、然後垂仁天皇即位二年同国敢津美恵宮に奉遷す而れども土民猶其神徳を尊重崇敬して以て神戸郷産土神と奉斎し今に連綿歴然たり。其の遺業の存するや毎年六月一日(現在七月十日初魚掛祭)の神事に細鱗を以て最第一の御贄とすること定例たり。延長伊賀風土記に暗崎川に鮎鮒出づと見え、伊水温故に暗崎川神館の川上と云うとあり

最も此川最上の鮎を出すなり。猶其他礼典古儀等省略すと雖も悉く伊勢神宮に准じ社殿及び鳥居に至る迄二十年目造営し奉る、況んや神戸の村号空しからざるおやとあり。明治四十一年四月二十五日許可を受け本社境内社、天児屋根命、天手力雄命を又大字比土字山下六百八十四番鎮座村社比地神社祭神天忍穂耳命、亦境内社八幡社祭神誉田別命、大字古郡字北川五百五十六番鎮座村社三十八神社祭神経津主神鹿嶋御子、大字枡川字狭間六百三十八番鎮座村社穂杉神社祭神三穂津姫命を合祀して神戸神社と単称せり。

当社の基源は上古にありて天照皇大神伊勢の五十鈴の川上に今の如く御鎮座あらせ給う以前の御事にて洵に古き郷土の神社なり、乍去中世幾多の変遷を免れず名実相沿わざる事とも成り果てしは是非もなき事なりき。然るを明治の御世に至り神仏を分離し敬神の途を明らかにすべしとの御沙汰一再ならず、其後各神社整理の事も行われて即当社の如きは率先して合祀をなせる所以なり。かくて氏子数は増加し崇敬者も広く多くなりければ当社の隆昌は益々期待すべきものあり。是れ等神徳の然らしむる所ならん抑々聖代の賜なりと謂うべし、而して当社には飛地境内社高瀬神社を有す。此社は大字比土高瀬代千九百七十二番地にして高瀬大神鎮座す、然るに明治四十一年二月六日同字前谷二千二百四十一番鎮座村社蔵鍵社祭神猿田彦神を始め四柱の神を合祀したるも大正十年八月二十三日神戸神社の飛地境内社となり所定の祭祀を受くるに至れり、距離社頭より二キロ村の南端に位置せり。尚当神社は明治四十四年即第五十七回神宮式年遷宮には神宮風日祈宮古殿在形の侭拝領其侭移築し又昭和四年第五十八回神宮式年遷宮には同様神宮風日祈宮古殿及瑞垣御門並び付属物等全部及内宮正殿の一部を拝領造営し奉り、次で昭和二十八年第五十九回神宮式年造営には終戦後各方面神社より神宮古材払下の出願多数の処、特に当社は従来通り神宮風日祈宮古殿を在形の侭拝領昭和三十年同五十年秋旧儀の如く式年造営し奉れり。爾来往古より伊勢神宮皇大神両宮との由緒古跡の文献を尊重し古来よりの旧儀を復活し、当社氏子より毎年六月十四日には必ず塩干の初鮎(六百五十尾)を神宮の月次祭御神饌として御奉納し、又神宮神嘗祭には神宮カケチカラ会を通して籾米六俵(一石二斗)を奉献するなど、亦神宮神田御田植には当社敬神婦人会員中より三十名三日間奉仕する等、本崇大神に対し奉る信仰と報恩感謝の誠を捧げるを毎年の行事として今日受継ぎ実践し来れり。

*考証 三国誌

 神祠 穴穂宮
一、風土記に曰く伊賀郡神戸山崇神天皇第六十六年天照大神垂跡也。
一、延長儀式帳に崇神天皇御宇太神宮遷幸曰く伊賀穴穂宮に坐す。
一、倭姫世記に六十六年己丑伊賀国穴穂宮に遷し積四年奉斎奉る。此時伊賀国造進箆山葛山戸神戸並地口御田細鱗魚取渕梁作瀬等朝御気夕御気供進す。
一、豊受皇太神宮御鎮座本記に明年戊午、雄略天皇二十二年中略丹波国吉佐遷幸倭国宇太の宮御一宿次伊賀国穴穂宮御二宿此時朝御饌箕造竹原並箕藤黒葛生所三百六十町亦年魚取渕梁作瀬一処亦御栗楢三町国造等貢進む仍て二所皇太神の朝大御気夕大御気の料所に定め給う。
一、口碑 丹波比地真名井の水を置処を比地と称す今比土の地なり。
一、神宮雑例集 伊賀国伊賀郡神戸
一、伊賀記 神戸郷天照太神御仮殿の御在所今の正殿は倭姫命なり。
一、伊水温故 神館社上神戸村号穴穂宮二坐也皇太神一坐倭姫命一坐。
一、御鎮座本記「文略」按に上神戸村に坐す穴穂宮神館の社と称す是也。
一、太神宮隠市守宮より当社に遷座夫より敢拓殖宮に幸ます。今本殿一坐倭姫命、摂社左天児屋根命、右天太玉命。古昔萱葺なり阿波山に入りて萱を刈る式あり、近世板葺にして此の式なし干木庁〓あり豊受神は倭の国宇太の宮阿記宮より倶に祭祀に預る。慶長元年丙申の上梁文あり。
一、二所太神宮御遷幸図説 同国穴穂宮四年奉斎伊賀国伊賀郡上神戸村神館社と云うにあり、名張町丑寅方一里半東川の南西小山北上神戸也、世記に云う年魚取渕梁作瀬あるは東の川なるべし。豊受皇太神御遷幸時此宮に二宿す、両宮御遷幸の宮跡を以て敬重し奉る所也。
以上

元伊勢・神戸神社

伊賀神戸駅を東へ出て、国道上野〓青山線を北へ歩く。目指すは元伊勢・神戸神社である。 地図で見ると上林駅からのほうが近いように見えるが、電車の待合せ時間を考えると、伊賀神戸駅で下車して、ひなびた田んぼ道を歩くのもよい。右手の高台の神戸小学校を目じるしに左折、木津川の暗崎橋を渡って、西詰を堤防道路ぞいに下流へ一〇〇メートルも行くと神社の境内に入る。こちらのルートは裏参道。北の正面に神楽殿、その裏手に本殿が建っている。上古、大日霊貴命、つまり天照大神を四年間だけおまつりした元伊勢が、この神戸神社である。

日本書紀によれば、第一〇代崇神天皇の時代、今まで皇居でおまつりしていた天照大神を他の場所に移すことになり、皇女・倭姫命が場所探しの旅に出た。伊賀を経て近江、美濃、尾張と歩き、最後は伊勢に落ちつき、そこで奉祀することになるのだが、途中、伊賀では四年間滞在した。その滞在期間中、この神戸神社に天照大神がまつられていたという。伊勢より先にまつられていたので「元伊勢」の名がついている。「元伊勢」の呼び名はこの神戸神社以外にもあり、近江の多賀大社も「元伊勢」の名で呼ばれている。倭姫命が滞在のころ、今の木津川は暗崎川と呼ばれていた。渡って来た橋の名が暗崎橋だったのはその名残りである。この川で地元民が鮎を捕って献上したとの言い伝えも残っている。

元伊勢というだけに伊勢神宮とのかかわり合いは深い。伊勢神宮と同じようにこの神戸神社も二〇年に一度、遷宮をする。伊勢神宮の古材を譲り受けての遷宮で、最近では昭和五十年に行なった。次の造営は平成七年である。

静かな境内には杉、桧が多い。この神社の宮司は、木立の中でも特にぬきん出て高い二本の杉を、「あれは、伊予杉です。」という。宮司の推理によれば、伊賀の国をおさめた藤堂藩の藩祖・高虎公は伊予今治からここへ移封された人。だから″二本杉〓は高虎公の時代に植えられたのではないか、というのである。この推理がぴったりとすれば、高虎公の没年が一六三〇だから、樹齢はざっと三五〇年ということになる。

以上

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