加佐登神社
三重県鈴鹿市加佐登町2010 mapfan

鳥居
 

交通案内
関西本線加佐登駅 北西 600m


祭神
日本武尊
 合祀 天照大御神、豐受大神、火之迦具土神、氣吹土主神、速玉之男命、天羽槌雄神、大國主命、伊邪那美神、伊邪那岐神、大雀命、建速須佐之男命、菅原道眞、品田和氣命、予母都事解之男神、息長帶比賣命、大山津見神
摂社
 稲荷神社「建速須佐之男神、宇迦之御魂神、大市比賣之神」
 日代神社「景行天皇」
 多度神社「天津日子根命、天目一箇命」
 金刀比羅神社「大物主神、少毘古名神」
 内内神社「建稻種命、美夜受比賣命」


由緒

 日本武尊の御笠を蔵し、これを祀ったのが創祀と伝わる。ふるくより御笠殿と呼ばれ崇敬されていた。
 当社の鎮座地一帯は能褒野と呼ばれ、境内地に日本武尊を葬ったと伝えられる白鳥陵やその近くには、綺宮碕奉装塚、奉冠塚の旧跡があって、当社御祭神との由縁が著しい。
 平田篤胤の「御笠殿社由来記」(文政十二年 1829)には、日本武尊の伝承を受けて、さらにこの社は腫れ物や瘡の病を直すとして世に喧伝されていると記されている。
 また加佐登神社参道沿いに熊野社があり、その境内社として、高宮明神が鎮座していた。
 明治四十一年(1908)大字高宮字椎山鎮座熊野大神社、他十六社を加佐登神社に合祀した。

拝殿


お姿
 鳥居の左側に高宮資料館が建てられており、境内の椎山川中世墓から出土した古瀬戸四耳壺や古常滑の三筋壺などの名品が展示されている。通常、15時には閉められるのだか、講師の松浦貞子さんの手配で、遅くなっても見学出来た。
 神社も美しく整備されており、長い参道も見事であった。鳥居の付近には熊野神社の旧鎮座地の碑がたっている。

 神社の右手の奥に白鳥塚古墳がある。東西87m、南北59m、高さ13m。5世紀頃の帆立貝式古墳。日本武尊が亡くなって葬ったところ、白鳥となって西方を目指して飛び去ったと言う伝説から、白鳥陵と呼ばれている。

本殿

白鳥塚古墳

日本武尊像


お祭り
  10月 7日 例大祭

『平成祭礼データ』から

 伊勢国鈴鹿郡荘野駅より十町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を蔵めし所と語りつぎ、また其よりやや離れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡とあるはこれなり。なを其あたりに奉冠塚奉装塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物を納めし所といふは信に然るべし。抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討とり玉ひて、倭健男命と御名におひ巫せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる悪き神また射向ひまつる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒ふる悪神をも取給はむと、其山に登り給ふ、ここに某神あしき気吹を起せるに、尊その悪気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししかば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御陵をひらき見るに、ただ御衣のみ在れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本書紀、熱田古縁起などに見えて、我師本居爺の故事伝は更なり、余が古史伝にもくはしく考へ記せるが如し。斯くこの御笠を蔵めし丘はも、いと古く御社たてて、彼の王の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神司の神主鈴本氏なむ、往昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとどまり坐せる故にや有らむ、然るは古くかくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、我ふみどもに考へ明せる如くなれば、比御笠申とせるもかならず王の御軍に出給ふごとに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から、近き辺の国は更なり、遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速なる験ありとぞ。この大神のさる病どもを直し給ふと云うこと、心得がたく思ふも有めれど、是なむ尊き神の御恵みにてかの吉野山に鎮座す、水分神とまをすは、雨を掌たもふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、笠をはれ物のことに云ふなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの、大神の幸御霊の御稜威をし賜はりて癒し給ふことと思はる。最も奇霊なる御わざなりかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政六年八月のころ、己みやこりに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れるに、その辺りの老人どもの言に、多病にても、腫れものの又は瘡など名けて、ねぎまをする人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫物ならねど其病ひになぞらへて願まをし、此病ども癒なむ後は、人づてにても賽し奉らむと、ねもごろに祈り申して帰れるに其病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉賽し奉らむと常に心にかかる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へまつる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此の御社の由よし書てと請はるるに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつつ筆とりて、誰もよく読み、よく聞ゆべく、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政十二年といふ年の九月
 以上

参考 『三重県神社誌』『松浦貞子さんの旅行案内』(クラブツーリズム)『平成祭礼CD』

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