桑名宗社(春日神社)
三重県桑名市本町46 mapfan

随神門

交通案内
桑名駅 東1km


祭神
 桑名神社 天津彦根命、天久久斯比乃命
 中臣神社 天日別命
 合祀祭神 建御雷神、齋主神、天兒屋根命、比賣神、波母山神、大己貴神、少彦名神、神皇産靈神、須佐之男命、日本武命、宮簀媛命、加良洲大神、大山祇大神、木花開耶毘賣命、天照大御神、荒神(あらぶるかみ)、天目一箇命、酒解神、櫛御氣野命、菊理媛命、大山咋神、火之加具土神、佐軍神一座、田心姫、奧津彦命、奧津姫命、蛭兒命、大物主神、倉稻魂命
摂社
母山神社「火之迦具土神」、皇大神宮御分霊社、稲荷神社

拝殿


由緒

 延喜式内小社の桑名神社と中臣神社。両社を会わせて桑名宗社と呼ぶ。
 古代のこの地域の豪族桑名首は『新撰姓氏録』に「天津彦根命の男天久久斯比乃命の後なり」とあるようにこの豪族が始祖として祀ったのが創始のようだ。
 桑名神社は三崎大明神とよばれていた。三崎とは自凝島(おのころ)、泡州島(あわす)、烏州島(からす)を総称したと云う。多度町小山の船着神社の東の海岸ふきんであったようだ。

 中臣神社の祭神の天日別命は伊勢国造の遠祖。社伝によれば、二十町程西の山上に鎮座していたが、正応年中(1288〜93)に桑名神社境内に遷座した。その後しばらくしてから大和の春日大社の神々を勧請した。以来、春日さんと呼ばれている。 この話が、中臣神社は神護景雲三年(769)常睦国鹿島社より建御雷神を遷座の途中に当地を通過した基址に祀られたとの話に変貌していくのが伝承である。

本殿


お姿

 神門は再建されている。280百万円の造営費。 この随神門には背中合わせの随神と仁王像で合わせて四体が鎮座していたが、ともどの戦災で焼失している。篤志家の登場が期待される。

 拝殿前には右近の橘、左近の桜が植えられており、橘は原始種であるとのこと。




お祭り
  8月16日〜18日 例祭 御車祭奏楽

『平成祭礼データ』から
桑名神社(三崎大明神)
例祭 八月十七日 比与利祭
御祭神 天津彦根命:天照大御神の第三御子で御子孫が殊に御繁栄
天久々斯比乃命:神徳霊妙にて、上代の桑名地方豪族の祖神

中臣神社(春日大明神)
例祭 九月十八日 御車祭
御祭神 天日別命:神武天皇御創業時の功神で、伊勢国造の遠祖
相殿 春日四柱神
建御雷神:日本国土奉還という重大な使命を自ら進んで果たされた武力・外交とも優れた神
斎主神
天児屋根命:中臣氏(後の藤原氏)の祖神で、祭祀や朝政に優れた神
比売神:右の妃神
桑名宗社縁起 延喜式内桑名神社
中臣神社
桑名宗社とは桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を祀っているので、桑名宗社と言う。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子、天津彦根命と、この大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名地方の豪族)の祖神であるので一郡の開祖として仰がれ、その子孫は代々祖宗の御社に奉仕し大化の改新後も郡司となって当地を支配した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり古来桑名の地主神として、また郡府の宗社として崇敬極めて篤い御社である。
古記録によれば、往古は現在の桑部村にあったが、景行天皇四十年(110)には既に宮町あたりに鎮座して三崎大明神と称せられ、その後宝殿町あたりに遷座されるも、幾程もなく同四十五年現地へ奠められた。
また中臣神社は神護景雲三年(769)常陸国鹿島社より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られたと記録があり、その地は上野村と言われる。
中臣神社も延喜式内社で、御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれる。古くは現地より西方へ二十町余も隔たった山上にあったのを、正応二年に桑名神社の境内へ遷し奉り、永仁四年に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは春日大明神春日さんと呼ばれるようになった。これより御社は繁栄の一途をたどり足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を寄進、応永二年・永正六年・天文二十年と遷宮があり、永禄十年には吉田家より一の宮(それぞれの国で第一の資格を持つ神社)として許可された。永禄十二年には織田信長より神領の寄進、天正年間には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を造営した。
江戸時代に入ると将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長六年、徳川家康より神領百石の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱など歴代の桑名城主から次々と社領・営繕の寄進を受けた。明治になってからも元年の御東行、二年の東京遷都と、共に天皇・勅使がお泊りになるなど崇厳を増し、明治十四年には県社に列せられた。また明治三十九年には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。
焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもので明治二十五年の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な一大社となったが惜しくも昭和二十年の戦災ですべて焼失した。
敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解により昭和二十九年に拝殿が、そして五十九年には本殿・幣殿が、それぞれ立派に再興され、さらに平成七年の春日神勧請七百年祭には記念事業として楼門再建計画が立案されている。
春日神社の石取祭 昭和五十六年三月三十日 三重県指定無形民俗文化財指定
石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に分かれたものである。
比与利というのは、この祭を行なうために桑名市南郊の町屋川へ行き、禊祓し石を運ぶ途中ヒョウリヒョウリと笛を吹き謡ったのから起こって遂にヒヨリ祭という様になったのであろう。
この名の起源については、他に説があって表裏の意とも、日和の意とも、干下りとも、又は伊勢物語に右近の馬場のヒヲリの日とあるヒヲリとも種々あって一定しない。
比与利祭は、石取神事、流鏑馬(やぶさめ)神事、ねり物神事などを合わせたものであり、その起源については、
〓石占(いしうら)の説
石によって神意を占う習俗で石を持ってみて重く感じたり軽く感ずるのにより神意を判断したり、石を投げて落ちる状態により、これを占う。
〓社地修理の説
神社の地は、海川が近く地が低いので、納涼のはじめに氏子のものが町屋川より石を拾ってきて社地に敷き施したが、七夕の行事と合して、だんだん盛んになった。
〓流鏑馬の馬場修理の説
比与利祭に流鏑馬神事を行うので、その馬場を修理するために町屋川より石を運んだのが始まりである。
以上の諸説があるが、氏子が町屋川で禊して清浄の栗石を運んで社地に敷くのは単なる低湿の社地や馬場を修理するためのみではなく、私たちの祖先は石を生きて生長するものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持っていた。桑名の氏人の祖先を祭るために祭場を設け神を迎える準備をするのが石取祭である。
即ち、比与利祭を行うために石取をして、石取をしてはじめて比与利祭を行い得ると言える。
また、石取御神事本楽日に先立ち、各町では町屋川へ行き、清流に禊して拾い採った清浄な栗石を奉納し、試楽日午前十時より献石神楽が行われる。この石は数百年来奉納しているが、その数が今に増えないのは神異の一として世に宣伝するところである。古来この石を拝受して祀るもの、商売繁昌に家内和合に安産に霊験著しく、必ず報賽(お礼まいり)に石を返納する習わしとなっている。
「春日神社の石取祭」は北勢地方の最大の夏祭りとしても有名である。
以上

参考 『式内社調査報告』、『三重県神社誌』

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