能褒野神社
三重県亀山市田村町1409 mapfan

鳥居

交通案内
関西本線井田川駅 北北西 1200m


祭神
日本武尊 配祀 弟橘姫命


由緒

 日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。

拝殿


お姿
 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。 4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

本殿

能褒野王塚古墳

連理の榊の側の水神と山神
 


お祭り
  10月 8日 例大祭

『平成祭礼データ』から

 日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた。
 中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等諸説が続出したが、明治十二年、前方後円の古制により十六のばい塚をもつ女ケ坂を以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。
 明治十六年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌十七年三月十日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治二十八年、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらんとの御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代二名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂いて帰り、御鎮座祭を行った。
 明治三十八年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。
 明治四十一年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、四十余社を合祀して村社となった。
 大正十三年、能褒野保勝会組織、同十四年六月県社に昇格し、十月祝祭を行った。この時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下二百余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われた。
 大正十五年五月、保勝会にて亀山駅前に大鳥居を建設。久邇宮邦彦王殿下より「能褒野神社」の御染筆を頂き、扁額を掲げた。
 昭和二十一年マッカーサー指令により国家神道廃止され、宗教法人となり昭和二十七年十二月一日、宗教法人能褒野神社として今日に及んでいる。
 以上

参考 『三重県神社誌』)『平成祭礼CD』『松浦貞子さんの旅行案内』(クラブツーリズム)

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