大田神社
滋賀県高島市新旭町太田1468 mapfan


鳥居と拝殿


交通案内
 JR湖西線新旭駅 東南 3km


祭神
 大年神、菅原道眞 合祀 天津久米命(平成祭礼データ)
 摂社
 春日神社、天照大神豊受大神社、男山神社、白太夫神社「度會春彦」

本殿


由緒

 安曇川河口の北船木の地の西を太田と言い、そこに鎮座。安曇川町青柳の太田神社とともに式内社の大田神社の論社。「神社明細帳」によると、延暦年間(782〜806)大伴大田宿禰の後裔大伴福美麿行紀がこの地へ移住して開拓に従事したが、先祖の名を地名とし、弘仁元年(810)天押日命を祀って当社を創立したと言う。

 この太田の地には造船・水運の古伝承があって、隣接する船木とともに近世まで大工が多く、太田大工として名高かったと言う。全国的に言えるように思われる太田と船木の地名、同族である多氏と船木氏のつながりが隣接させていると見るべきだろう。大伴氏云々はよく判らない。

 『日本の神々5』で橋本鉄男氏は、境内社の六所船魂大明神に注目されている。『高島郡誌』によると、住吉三神を祀っていた。安曇氏が先住して祖神として祀っていたとあるそうだ。氏子地域も安曇川北岸に位置しているとのこと。
 摂津の大伴氏は住吉大社付近に居住しており、衰退した後に当地に流れてきたとすれば、住吉三神を祀ったかも知れない。その場合、船魂神であって、大田・船木とは別の存在であったかも知れない。なお、うかつなことだが、摂社とされる六所船魂大明神には気がつかなかった。


本殿


お姿
 平地に落ち着いた社叢を持ち、豊かな水が流れる素晴らしい神社。

 本殿は三間社流造、向拝一間、享保三年(1718)の建立。良質の木材を使い、保存状態はきわめていい。さすがに大田大工の仕事である。

 参道に硝子燈がある。石灯籠形で石組四角基台部、六角石柱上に設置され、外側に湾曲した六本の鉄筋に支えられている。明治十四年のもの。
 室町時代のものと言う石灯籠がある。

 本殿の真後ろには摂社の天照大神豊受大神社が鎮座、後戸の神のようだ。六所船魂大明神であれば、説得力がありそうだが。


硝子燈    石灯籠
 


お祭り
  5月 3日 例祭
  5月 日曜日 泥落祭


日吉神社摂社太田神社 安曇川町青柳 mapfan

 祭神は大田神と宇須賣命、大年神や船魂神との説もある。


由緒は不明。式内社大田神社の論社。鎮座地の青柳であるが、青は多に通じる。多氏との関連もありうる。


鳥居   社殿
 

平成祭礼データ 大田神社


当社の創立は明らかではないが、社伝によると延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥 の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが 始めであるという。
すなわち嵯峨天皇の弘仁元年四月十一日、大伴福美磨と河行紀との建立である。 後に美作国(岡山県)佐良山から久米氏の一族が来住すると、その祖神「天津久米命 」を摂社として来目社(後の若宮神社)と称へ蒲生に奉祀した。又「猿田彦大神」を まつったともいう。
当社は延喜制に定められた小社に列せられたいわゆる式内社である。
亀山天皇の文永元年六月一日(昭和五十二年より六百十六年前)に本殿を改築した。 この時の御祭神は「六所(りくしょ)大明神」である。
菅原道眞行は應永三十一年九月二十五日に沙門明了比が、京都北野天満宮の管理者で ある曼殊院法親王の令旨によって勧請した。
吉野時代には相当に信仰圏も確立し、時代の優秀な石造建築の灯籠等も献納され、後 奈良天皇の永正年中には新庄城將の浅見対馬守から太刀が一振、天文十三年には同多 胡新兵衛から唐鞍壱具が、又同人及び饗庭対馬守入道覺音から鰐口壱個、文禄四年九 月には栗太郡青地城主一弘より武運長久の祈願文と社領拾貫文が寄進された。 後西天皇の皇女林丘寺宮栄内親王より、「天満宮」の御揮毫が下賜された。 元禄十五年二月菅公八百年の万灯祭には、京都在住の氏子の歌人青地慶安は、門弟の 赤穂義士小野寺十内夫妻等と共に、神祇和歌一巻きを献納、又西洞院大納言田中左近 は剣一腰を奉納した。
享保三年より翌年十二月に本殿及び境内末社・四社を、同じく十七年には拜殿を改築 した。現在の社殿はこれである。
寛政五年十二月宮中五条殿の御取持にて、曼殊院竹内宮(門跡)の直轄に属し、御書 ・絵符等を使用することが許された。
文政十二年三月菅公神忌九百年齋行、同年氏子坂江吉右衛門、京都杉浦三郎兵衛より 絵馬殿一棟及び神馬の絵馬一面を、奉納される。
天保年中に大溝藩主分部光寧公参拜の上、幣物奉奠せらる。 
嘉永五年神忌九百五十年祭を齋行、この年に本殿と拜殿との間に渡廊下を建設する。
明治元年従来の「天満宮」の名称を、延喜式内社の確定により「大田神社」と旧称に 復する。
明治六年正徳元年より宮衆(宮座)による神社運営を廃止して、専任の神職を選出す る。
明治九年村社に列せられる。
明治十八年三月十八日摂社若宮神社を本社へ合祀する。
明治三十五年菅公神忌千年祭万灯祭を齋行する。奉賛会を「東風会」と称して、会長 に祭神の後東坊城徳長をいただく。
小松宮彰仁親王より、社号「大田神社」に御染筆を下賜せらる。現在の鳥居の額の文 字はこれである。
英照皇太后(孝明天皇の后)の御物扇子一握を、元千種権典侍内の中條並浪子より奉 納される。祭器庫土藏一棟を新築する。
大正四年五月従来の木造両部大鳥居を、石造明神鳥居に改む。
大正十二年菅公御鎮座五百年祭を執行する。
昭和四年二月社務所を新築する。
昭和四年二月九日神饌幣帛供進社に指定される。
昭和二十七年三月菅公神忌千五十年祭万灯祭齋行する。
昭和三十七年三月児童遊園地を造成する。
昭和三十九年十二月十五日、大田護国社を創建する。
昭和五十年十一月菅公御鎮座五百五十年祭を齋行する。同時に神輿庫の改築及び社務 所を改造する。
昭和五十二年十一月神忌千七十五年祭半万灯祭を齋行する。

神奈備にようこそ